若い二熊
すっかりと、夜も更けた頃。
何本と空に成った徳利が座卓の上には在った。
ただ、飲んでいるのが三人ともなれば、さほど深酒とは言えない本数ではある。
が、何処か潤みを帯びた瞳にて、小夜は熊之介を見た。
「あぁ、すっかり酔ってしまった様です……熊之介様……出来ますれば、お送り願えますか?」
この小夜の声に、熊之介は、ウンと顔を上げる。
ただ、この弟子の反応を、横目で見ていた羆之守は、心配に成っていた。
打ち解け、在る程度は話せた所で、横にいれば押しが弱いのは、老羆には簡単に見て取れる。
だからこそ、小夜は敢えて、形を変えて誘いを言葉にしたのだろう。
「あ、も、勿論……お任せあれ」
熊之介の声には、女人を安堵させる趣はあれど、それは、まさしく用心棒としてである。
コレではいかぬと、老羆は首を横へ振った。
生半に、手が遅ければ、意味が無い。
なにせ、自分達は武家の様に、一々面倒くさい手順を踏んで云々と、のらりくらりしている間はない。
そんな暇が在れば、小夜にしても別の男性を探しても良いからだ。
「おーい! 勘定を頼む!」
早速とばかりに、熊之介の声は強いが、それは、あくまでも剣客としてのモノであり、雄としてのモノではない。
やれやれと、老羆は一計を講じる事を選んでいた。
勘定を払うべく、サッと立ち上がる熊之介。
そんな弟子の袴を、羆之守は僅かに掴んでいた。
グイと引き、熊之介の耳に口を寄せる老羆。
「お主、女人に手を貸さぬとは何事か?」
羆之守の声に、熊之介はアッと声を僅かに上げると、急ぎ座卓を回り込み、小夜に肉球を差し出す。
「さ、小夜殿………御肉球を…………」
無骨な熊之介の声に、小夜は、あれあれと、やんわりと若き熊の肉球に、自分の肉球を重ねた。
なかなかに悪くはないが、このままではと、老羆は更なる手を打った。
「……熊之介……小夜殿をしっかりと、お送りするのだぞ? ゆめゆめ、置いて帰った……などという真似はするでない」
大きなあくび一つ、羆之守は、実にわざとらしい声を漏らす。
そんな、老羆の声に、我が意を得たりと、小夜は微笑む。
「あら、勿論……お茶の一つも、お出しいたします………」
そんな小夜の声に、老羆は、ムウンと深く唸った。
最近は、女人の方が積極的で在るな、と、羆之守は低く笑う。
勘定も終え、店を出た熊三人は、二手に分かれた。
若き熊に伴われ、帰り道を行く熊娘。
若い二熊の事である。
とは言え、老羆は、ボリボリと爪で後頭部を掻く。
此処までやって、万が一駄目ならと、老羆は、若い熊を心配した。
だが、遠ざかる中、小夜の方から熊之介に寄り添うという形に、フムと、老羆は頷いた。
小夜の家は、町の長家の中にある。
ただ、そんな小夜と共に歩く熊之介は、顔には出さないが心配が在った。
小夜を送り届けた後、彼女の家からご苦労様と、誰かが現れたらどうしたものかと。
流石に、人の前で憚らずいたすなどという趣味は、熊之介には無い。
「小夜殿……失礼ながら、お家の方は?」
ふと、戯れにそんな事を言った熊之介だが、問われた小夜の肉球が、わずかにぴくりと震えた。
「何故で御座います?」
答えを返す小夜の声は、酔っているとは思えない程に落ち着いていた。
だが、反対に、無理に酒を強がって飲んだ熊之介は、在る意味饒舌である。
「……恥ずかしながら、俺には親も兄弟も無い……正に、天涯孤独という奴なんだ」
笑って話すことではない。
だが、熊之介の声は暗くは無く、どちらかと云えば、明るい調子が含まれていた。
「ただ、な、あの師匠が……父と呼んでも差し支えない……」
そう言う熊之介の腕を、小夜は、ギュッと強く掴む。
ウンと熊之介の鼻は唸るが、かの剣客の隣を歩く女人は、感慨深いという顔を浮かべていた。
「……私も、同じ様なモノですから……」
ただそれだけを小夜は言う。
彼女の声を聞いた熊之介は、静かに頷いていた。
家に辿り着く間、小夜は、若き熊の腕を放さず、静かに自分の生い立ちを話していた。
生まれは何処で、どんな風に今までを過ごしたのか。
親兄弟が居たかと云えば、子沢山という事に関しては、大して珍しい話しではない。
子を養えない多くの親は、奉公と称して口減らしをする事は珍しくは無い。
小夜がその口かと云えば、子供の内から商家に奉公には出された。
ただ、その後の生活については、彼女は語りたがらず、熊之介にしても、そう言った相手の過去を根ほり葉ほり聞くほど野暮でもない。
「嫌ですか? そんな私は……」
敢えて、自身を辱めるかの様な小夜の声に、熊之介は、一旦足を止めた。
急に立ち止まった熊之介に、不安に駆られた小夜だが、急に抱き締められ、僅かに慌てる。
「く、熊之介様?」
声を震わせる小夜だが、そんな彼女を、熊之介は太い腕で抱き留める。
「無骨な田舎熊だが……貴女を守る程度の腕は、在るつもりです」
熊之介の力強い声に、小夜は、そっと返事代わりに熊之介の背に腕を回した。
かの若き熊は、愛してるや、貴女が好きという分かり易い言葉は使っていない。
だが、そんな分かり易い言葉は無くとも、小夜は、熊之介の意志を彼の腕からしっかりと感じていた。
その後、二人は言葉少なく、小夜の自宅へと到着していた。
この時代、灯りは貴重品である。
蝋燭や行灯というモノが無いわけではないが、魚油を使用する様な灯りは、酷く生臭く、庶民は、暗くなったら寝ると言うのが、当たり前だった。
しかしながら、その晩、小夜の自宅の障子紙からは薄明るい光。
それは、長々と灯りっていた。