小夜
現代人には、苗字などは殆ど気にも関わらないモノだろう。
当たり前の様に、名の前には姓がある。
だが、貧困を極めた熊之介からすれば、話は違った。
師から印可と太刀を受け、名乗って良いと云われた熊之介。
それは、若き熊に、自信を持たせ、猫の様に丸まり掛けていた背を、ぴんと張り詰めた弓の様に伸ばした。
そんな弟子をみて、老羆もまた、満足げに頷く。
「さ、月野………蕎麦でも手繰りにいこうぞ」
そんな、羆之守の低い声に、熊之介は、大きな頭を僅かに傾ける。
「たぐる? 蕎麦を引くんですか?」
そう言うと熊之介に、老羆は、しまったと肉球で目を覆った。
若き熊には、鍛錬と修練以外を課していなかった事に、町を歩く羆之守は詫びた。
座学の一環として、読み書きだけは一応教えてはいたが、その他の文化や風習といった、世の中の事を教えてはいない。
すまぬと、心の中で詫びの音を唱えながら、老羆は若き熊を伴い、在る場所へと足を早める。
縄暖簾ではなく、キチンと白布に、墨で蕎麦と書かれた暖簾。
羆之守と熊之介は、その町ではある程度流行っている蕎麦屋を見つけ出す。
熊之介に悟られぬ内に、茶屋の娘と約束を交わしてはいたが、羆之守からすれば、半信半疑であった。
恋い多き若者が、山下りの熊など相手にしてくれるのか、本心では羆之守にも自信は無い。
それは、そっくりそのまま、老羆の過去を思い出させた。
蝦夷地から、船で渡り、剣に明け暮れた日々。
何度となく、白刃を交えた事も在るが、毛深い手には、他者の肉球ではなく、血が握られる。
今はもう、血は付いていないが、それでも、老羆は思わず我が肉球を見ていた。
「師匠? どうされました?」
「あ、いや……なに、何でもないのだ」
熊之介の声にハッとなる羆之守は、話を濁して店へ入るべく、暖簾をソッと潜った。
評判通り、なかなかに繁盛しているのか、客は多く、店は賑やかである。
適当な場所はないかと、老羆は目を凝らずが、座敷席の奥に、在る姿を見て、羆之守はうんうんと静かに頷いた。
寄ってくる店員に、なにやら老羆が話しているのを、熊之介は聞くが、それよりも、彼は自分の腰に意識が行っていた為に、気付いてはいない。
反り深く、新緑の梨地塗り。
師から名と、印可と共に授けられた太刀に、若き熊は我知らず微笑んでいた。
「さ、こっちだ」
そう言う羆之守の声に、今度は熊之介がハッとなる。
師に案内されるままに、店の奥まった方へと行くわけだが、其処で、熊之介はアッと僅かに声を上げる。
若き熊の目には、昼間の茶屋で見た熊娘が、どこか恥ずかしそうに座って居たからだ。
「御免……相席を宜しいかな?」
羆之守の野太い声に、若い熊娘は、コクリと頭を僅かに下げた。
この二人の一連のやり取りから、熊之介は、してやられた、という想いではあるが、意中の娘が其処に居てくれた事には、師に僅かばかりの感謝を禁じ得ず、心中だけで礼を説いた。
娘の合い向かいに、体格著しい熊の剣客が二人。
見る者が見れば、一方的に娘が言い寄られている様にも写るが、その実、熊之介など正座にて、大きい身体を縮こませ、そんな若い剣客を、娘はさも面白そうに見るという図である。
「おおい! 酒と肴を……そうさな……天ぷらを頼もう」
若い二人には関わらず、羆之守は、この日だけでもと、大盤振る舞いの覚悟を決めていた。
武士は痩せても高楊枝とは云うが、やはり、少しぐらいの見栄は要る。
それは、女人の前では特にそうだろう。
師からすれば、弟子を少しでも良く見せたく、そんな羆之守は、我知らず父親という気分が在った。
そして、そんな師の気に当てられたからか、熊之介また、丸め掛けていた背を延ばすと、娘の顔に目を向けた。
浪人は、おっかないと、距離を置いていた熊娘ではあるが、昼間見せた熊之介のいじらしさと、羆之守の優しい声は、彼女の恐怖を払拭し、此度の約束の為に、わざわざ店に足を延ばさせた訳だが、熊娘は、やんわりと微笑む。
町でも噂登るほどの剣客の目は、まるで少年の様に澄んでいた。
「あ、これは……失礼を……せ、拙者……く、月野、熊之介と申す……」
辿々しい熊之介は、如何にも武士らしく喋るのだが、女人を目の前にしたことで、如何せん野暮ったくも在る。
だが、そんな野暮ったさも、逞しく、その実厳めしくさえ在る熊之介を、実に可愛いのだと思わせる程に、娘の目には映っていた。
「……あ、失礼を致しまして……私、小夜も申します…どうぞ、宜しく…」
柔らかく笑う熊娘は、自分をそう名乗った。
名乗り在った二人の若者に、老羆もまた、荘厳な顔にも似合わず、実に柔らかく笑う。
その笑みは、息子の嫁御を見た、父親を思わせた。
羆之守の助けは続き、かの老羆が頼んだ酒。
それを収めた徳利を、沙世は肉球に取り、「どうぞ」とお酌の世話をする。
本来であれば、先ずは年長である羆之守にそれをするのが習わしなれど、この時、羆之守は、わざと自分からもう一つの徳利を既に掴んでいた。
コレが、何を意味するのか、小夜には分かっていた。
手酌でしているものに、重ねて進めれば、かえって失礼に当たる。
たいして、その老羆の隣に座る若き熊は、実に恥ずかしそうに、その大きな毛深い肉球に、小さな艶めかしいぐい飲みを持っていた。
トクトクという、徳利の息遣いが、熊之介の耳を擽る。
小夜に酌の世話をされている若熊の丸耳は、妙にヒクヒクと動いた。
注いで貰えた酒を、一気に煽る熊之介。
その所作は、酒にに強いというよりも、ただ単に、自らの恥ずかしさを拭わんとする、かの若熊の焦りともいえた。
だが、茶屋に時折現れる乱暴な客とは違い、小夜の目の前の熊剣客は、腰に脇差しを帯びて居ても、無骨どころか柔らかい。
それだけでも、小夜は嬉しそうに笑えた。
「お強い様で……さ、もう一献」
「あ、どうも…………」
小夜の声に、すっかり肩の力が抜けた熊之介ではあるが、その変わり様から、羆之守はフフンと笑う。
若き二人の行く末を案じつつ、老羆は、肴として用意された泥鰌の天ぷらを口に運ぶ。
サクリした衣と、わずかな苦味と身の甘さを堪能しながら、老羆は先の事を考え始めた。
既に、今度は熊之介が剣客にも関わらず女人に酌すらし始めている。
これ自体、武家であれば咎められる作法だろう。
だが、しかし、反面に今の二人がそれなりに良い仲と成り掛けているとも取れる。
で在れば、家が要るのは必須だろう。
用心棒として、生活するよりも、何らかの形にて、熊之介と小夜の二人を思えばこそ、羆之守は一計を考える。
酔いも深まり、だんだんと笑いが増える熊之介と小夜を見ながら、老羆もまた、自らの手の杯を、グイと空けていた。