印可目録
後でと云われた用心棒の仕事は別として、 旅籠に案内された熊之介は、宿の者に差し出された桶で、足を洗う訳だが最初は困惑した。
おっかなびっくりではあるが、ふと、肉球を入れて見て若熊は驚いた。
ただの湯では在るが、旅に不慣れな熊之介は、それだけでもオッと僅かに唸っていた。
世間知らずとも言えるが、その反面、それだけ剣に打ち込んで居たともいえる。
世間には疎くとも、熊之介の技前は、羆之守でも後少しだと思える程になっていた。
木賃宿とは違い、実に手入れが行き届いた旅籠は、実に素晴らしく、悠々と歩く羆之守の後ろでは、若い熊はあれやこれやと珍しいそうに大きな頭を左右へ振っていた。
「さ、此方で御座います………」
年増とは言え、実に艶やかな狐女中に案内された熊二人。
「忝い」羆之守は、実に見た目に似合う自信満々の頷きと声だが、その弟子はと言えば、「あ、と…か、忝い」と、師匠の真似をする。
老羆はともかくと、若き熊の辿々しい声に、女中は、肉球で口を押さえて面白そうに微笑んだ。
部屋に先に上がり込む羆之守とは違い、熊之介は、しずしずと歩く女中の豊かな尾に見取れていた。
ぼうっとしている熊之介に、「何をしている?」と、老羆の声。
慌てて、ハッと成った熊之介もまた、部屋に入りながらも襖を閉めていた。
鹿の角で造られたと思しき刀掛けに、太刀を預けた熊二人。
前に住んでいた荒ら屋とも、木賃宿とも違う畳の香りに、熊之介の鼻はスンスンと鳴る。
見るもの全てが珍しいのかと、弟子に僅かに微笑む羆之守だが、笑う影には、夕餉の事を考えている節も在った。
「時に熊之介……」
若干、勿体ぶる様な羆之守の声。
「は、なんで御座いますか?」
やっとの事で落ち着いた熊之介声を確認した羆之守は、ウムと頷く。
「蕎麦は好きか?」
唐突な師の質問に、若き熊は、茫然とした。
「……蕎麦で御座いますか……はぁ、一応は」
曖昧な熊之介の声に、羆之守はスックと立ち上がると、手拭いを荷物から取り出した。
急ぎ熊之介も立ち上がると、師に合わせる訳だが、先の質問と手拭いの関係がいまいち掴めない。
「あの……師匠……」
困った様な熊之介に、羆之守は、若き熊の頭に鼻を寄せ、クンクンと嗅ぐ。
師の所行に、困る弟子ではあるが、羆之守は、肉球で鼻を押さえた。
「出掛けるのも良いが、多少は身綺麗にすべきだろうな………」
そんな羆之守の声に、熊之介は首を傾げた。
湯屋という物は、この時代混浴が常である。
男女が別の風呂に成るのは、もっとずっと後の話ではあるが、それに困ったのは、女人ではなく、熊之介であった。
何せ、体格の良い若熊である。
山野を駆け抜ける事一年と数ヶ月。
その間に、ひたすらに羆之守に修練を課された熊之介の体躯は、湯屋の者達の目を奪った。
まるで見せ物ではないかと、自身を笑う熊之介だが、そんな若き熊の後ろから、老羆も続く。
そこで、熊之介までがハッと成った。
衆道の毛は無いものの、壮年近い羆之守の体躯もまた、名に恥じぬ体躯である。
かの老羆の身体を、びっしりと覆う毛には、白髪が混ざり斑ではあるが、それにもかかわらず、熊之介以上とも言わんばかりの体躯には、弟子ですら目を疑った。
掛け湯にて、埃を落とし湯に浸かる訳だが、熊之介は妙な事に気付いた。
湯屋の湯船は、確かにそんなには広さはない。
だが、広いのだ。
何故広いかと云えば、熊の剣客二人に、町人が恐れをなしたとも言える。
悪気は無いにせよ、静かに熊之介と羆之守の噂は広まっていた。
曰わく、町道場に殴り込んだ。
曰わく、ただの一太刀で相手を殺した。
人の口に戸は立てられぬが常であり、山から降りてきた熊の剣客二人は、本人達が気付かぬ内に話題に登っていた。
ともかく、垢を落とし、身綺麗にした熊之介は、風呂も悪くはないと思えるが、次に入るので在れば、誰も居ない山の温泉が良いなと、僅かに一人語ちた。
一旦宿に戻った熊之介と羆之守だが、直ぐに、羆之守は外出の用意を始める。
「師匠……何処へ?」
首を傾げる熊之介だが、腰に太刀を帯びた羆之守は、熊之介の差料を爪で示す。
「野暮な弟子だな、お前は……夕餉を食いに行くのであろう?」
この師の言葉には、熊之介は疑問が在った。
木賃宿とは違い、旅籠では、立派な御膳が提供される。
何もわざわざ、外に外食をする必要など無いにも関わらず、外へ行こうという羆之守。
だが、弟子である以上はと、熊之介は特に文句を上げることなく、師の後に続いた。
羆之守の後に続く熊之介は、何故蕎麦が好きなどと問われた意味を頭で反芻したが、なる程、そう言う事かと、勝手に納得する。
昼間の茶屋ですら、老羆がわざわざ蕎麦ガキを食べていたなと、野暮な弟子は、師の思惑とは違い、別の事を考えた。
熊之介の前を歩く老羆は、少し難しい顔をしていた。
わざわざ茶屋の娘に声を掛けたは良いが、彼女の事よりも、熊之介方が寧ろ心配である。
如何に腕前が上達しようとも、それだけでは、自分の様に一代限り。
弟子が出来た老羆は、その事を案じた。
無論、武家で在れば、本人が望もうが望むまいが、結婚といった祝言に付いては、親族に勝手に決められる。
其処に本人の意志は無くとも、御家を絶やさぬ為には、在る程度の事は無視されていた。
無論、恋に走る若者の中には、自ら脱藩し、逐電してまで恋路を遂げるという強者も居るが、その場合、覚悟が必要である。
家柄は勿論、継ぐべき名も、禄も、何もかもを棄てられる覚悟が武家の者には必要だが、その心配は、熊之介にはない。
元々天涯孤独であり、家族も耐えてしまった彼には、武家の様な悩みとは、無縁であった。
ただ、娘に弟子を紹介するに当たり、老羆は、在ることを考えた。
只でさえ武骨な山暮らしの熊である。
その辺の者とは比較にならない強さは在れど、反面、街の者の様な狡猾さは、純朴な熊之介にはない。
その為にと、羆之守は、一考を編み出していた。
「熊之介」
師の唐突な呼び掛けに、「は、何でしょうか?」と、声を出す弟子。
弟子の反応に、ウムと頷いた老羆は、口を開いた。
「お主……儂の後を継ぐ気はあるか?」
羆之守の声に、熊之介は言葉に詰まった。
端的に考えれば、【免許皆伝】という意味にも捉えられる。
剣を道に置く者に取って、【印可】を受ける事は、ある種の誉れと言えた。
足早に羆之守の前に走り出て、頭を下げる熊之介。
「勿論で御座います……」
即答であった。
弟子の声に、満足げに頷く羆之守守は、腰から反り深い太刀を鞘ごと帯から引き抜くと、スッと前に差し出す。
師の突然の所作に、弟子は唾を飲み込み、毛深い喉をゴクリと言わせた。
「印可を授ける場合、巻物が要るが……とりあえず、儂もお前も武士ではない……成ればこそ、この備前長船月光を印可としよう……」
羆之守の声に、熊之介は内心焦った。
何せ、全てが突然である。
心の準備など無いままに、急に事に晒される。
だが、迷いを捨てて、熊之介は師の太刀を受け取った。
斬り合いなれば、迷いは隙を生み、その間に斬られる。
だからこそ、若き熊には寸分の迷いもなく、師の太刀を受け取っていた。
弟子の覚悟に、ウムと頷く羆之守。
自分の太刀の代わりに、熊之介の太刀を受け取ると、若き熊の肩に肉球を置いた。
「それでこそ、我が弟子である……いや、印可を授けたのだ、そうさな……本日この場より……月野と姓を名乗るが良い………月野熊之介よ…………」
羆之守の優しい声に、熊之介は、鼻をツンとさせながらも、「有り難く頂戴致します」と、迷い無く断言していた。