一宿一飯
グムムと呻き、手を押さえる犬浪人。
牙を剥き、垂れた三角形の耳が、浪人の感じている苦痛を示しても居るが、其れをした若き熊は、残心しつつ、浪人を見ていた
「……御免……」
頭は下げつつ、片は付いたと、スッと前に出る羆之守。
そんな師にになう様に、熊之介もまた、未だに呻く浪人にサッと頭を下げて一応の礼をすると、足早に老羆に続く。
二人の熊は気付いていないが、町の聴衆達は、突如として現れた異風な剣客二人に、感嘆の声を漏らしていた。
勝った事は勝ったが、熊之介は、自分の肉球をふと見る。
殺さずに済んだ事に、若き熊の頬は綻ぶが、そんな弟子に、老羆は、ウンと頷いていた。
「加減が出来るように成ったか……」
そう問い掛ける羆之守。
「……はい……」
熊之介は、感慨深い返事を返すが、そんな弟子に、羆之守は含む様に笑い、若熊は、首を傾げた。
「後は、女人との間柄だけだな?」
そう諭し、豪快に笑う師匠の声に、弟子は、大きな身体を縮める様に竦めた。
「お待ちくんなせぇ……」
ふと、熊之介と羆之守の丸耳に、少年を過ぎたで在ろう、高めの声がつく。
振り返れば、頭を下げながらも、白く長い耳は決して下げない白兎の若者が、首を垂れていた。
「何用か、我等はただ、天下の往来を通っただけぞ」
羆之守の野太い声に、首を垂れていた白兎は、サッと頭を上げた。
目は細く、男に珍しい長めの睫毛、そして何より、兎らしく、意志の強そうな赤色の瞳が、熊之介には珍しかった。
「……それは、分かっていやすが、手を貸して頂いた事に、代わりは御座いあせん……当地に、何か御用で……」
侠客らしき兎からすれば、如何に浪人であろうとも、通すべき仁義というモノはある。
我が身を助けてくれた恩人を、無碍に放ったと在れば、侠客仲間からは、良い笑い者に成ってしまう。
だからこそ、白兎の若者は、熊二人を呼び止めていた。
ツテが無いからか、羆之守は、ウゥムと唸った。
「この辺に、安い宿は在るのか?」
そんな、老羆の低い声に、白兎は、ハハと軽く笑う。
「お安い御用で……此方へ…」
サッと手を差し出す白兎だが、相手の好意を、無碍に踏みにじるというのも気が引けた羆之守は、弟子を伴い、白兎の後に続いた。
道中差しすら、帯びていない事から、白兎はこの辺の者かと、羆之守が尋ねると、白兎は、己が来歴を明かしてくれた。
天下分け目の大戦は、確かに上の者には意味が在ったが、反面、武士でもない者達からすれば、良いはた迷惑である。
白兎は、自身を兎之助と名乗り、生来からを語った。
農家に産まれ、この地にて育った兎之助だが、その出兵と言うことで、彼の一家の働き手は、殆どが戦の小物や足軽として行ってしまった。
無論、武功を積めば、在る程度の身分に成れるかもし知れないという、賭けに、多くの若者が参画したのは、言うまでもなく、それでも、その栄光を預かれる者は、極々一握りであり、後の者達の末路に関しては、云うまでもないだろう。
結果的には、兎之助の兄弟は誰一人として帰っては来ず、年老いた両親と、姉、そして幼かった兎之助だけが残された。
この時代、未だ大前田村には、後に伝説ともなる大親分、大前田栄五郎は、まだ生まれては居ない。
纏める者が居ない以上、戦後と在れば、その荒れ方は酷いの一言である。
表向きは如何にも小綺麗だが、一歩踏み込めば、江戸の城内で行われているのと大差は無い争いは常に起こり続けている。
オマケとばかりに、如何に取り締まる役人が各地に点在してはいても、その役人も鼻薬や賄賂を利かされれば、余り頼れるモノではない。
その証拠に、この時代の流刑地である佐渡や八丈に送られるぐらいなら、何かの罪に咎められた役人の大半は自ら死を選ぶ程であった。
日々の暮らしを、姉と一緒に成って頑張っていた兎之助だが、地方への年貢取り立てに付いては、慈悲と呼べるモノは無く、払えない者には、ソレ相応の罰が待っていた。
家、田畑、時には、家族すら取られる。
兎之助の姉も、そうだったと、彼は寂しげに語る。
同じ様な境遇の兎之助に、熊之介は、目頭が熱く成るのを感じ、思わず、口を強く結んで声を殺した。
姉を取られ、いよいよ持って、どうにも立ち行かない兎之助の両親が、他界するのもそれ程先ではなく、独り残された若者が、表を棄てて、裏街道を歩き始めたとしても、無理はないだろう。
「ま、そんな事はお侍様には関係ないでやしょう。 恩は恩、と言いますから」
自身の暗い過去を語った割には、兎之助の声は軽い。
聞くには聞いてしまったが、特に云うべき言葉が見つからない熊二人は、兎之助に案内されるままに、黙って後に続いた。
どうぞと、羆之守と熊之介が案内されたのは、旅籠であった。
建物自体は差ほど新しくはないが、それでも、よく手入れされたの外観も、自信ありげに掲げられる暖簾も趣が良い。
だが、熊之介には、不安が在った。
そして、その不安に関しては、羆之守にも同様である。
案内されたのは良いが、路銀が潤沢とは言えない、熊二人。
「憚りながら、予算の方が……」
羆之守は、兎之助の真っ白く長い耳に口を寄せ、若干困りながらそう言う。
だが、老羆の心配を聞いた若兎、ウンウンと頷いて返す。
「ご心配は要りやせん……此方のお宿とは、チョイと懇意なんで、話は通して置きやす……どうか、ご安心なすって」
そう言うと、兎之助は、足早に先に宿へと入った。
続いて入るという事も出来ない訳ではないが、其処はソレ、義理立てを受けているのであれば、敢えて、羆之守と熊之介は、黙って待つ。
「師匠、いいのでしょうか?」
「……何がだ?」
ふと、何かを思い付いた様な熊之介。
対して、羆之守は、目を閉じて懐に腕を収めていた。
「ヤクザ者に、宿を任せるなど……」
若き熊の杞憂。
往来の最中、ついでに助けた形ではあるが、元が百姓である熊之介からすれば、侠客といった者達とは、余り関わり合いに成りたくはない。
ともすれば、町にて行商をする際など、所場代といって、売上の幾らかを渡さねば、商売すらさせて貰えないのが常である。
無論、大きな町ともなれば、商店が在り、其処に作物を卸す訳ではあるが、その商店にしても、後ろ盾が無ければ、マトモに立ち行くと言うことも難しいだろう。
熊之介の声に、羆之守の乾いた鼻が、ウゥムと唸った。
弟子は気にはしないが、大柄な羆之守が唸れば、それだけでも恐ろしい。
熊二人に悪気はないが、端から見れば、宿の用心棒の様にも見えなくもなく、宿から出てきた兎之助は、往来の町人から、怖々と見られる熊二人を見て、何かを思い付いた様に、鼻をヒクヒクとさせていた。
表向きは、一般的な旅籠ではあるが、少し裏を明かせば、在る意味何でも屋でも在る。
煮売りは勿論、酒、女、博打と、ある程度の財を気付いた侠客であれば、いつまでも弱い者苛めなどしていれば、たちまちの内に立ち行かなくなる。
最も、野武士や夜盗といった者にはそれが常だろう。
路銀の少ない浪人者を、タダで泊めるのも勿体ないと、宿の主人は、在る提案を、兎之助に持ち掛けていた。
「お侍さん方……チョイと、お話しが……」
神妙な兎之助。
そんな若者に、老羆と、若き熊は、揃ってウンと鼻を鳴らした。
【用心棒】というモノに関しては、多々の要望が在る。
財を護らねば成らない者達からすれば、腕利きの剣客と在れば、引く手数多である。
役人が居ようとも、この時代の警察機構に付いては、命懸けの時も少なくはない。
長柄の武器を用いて、在る程度の利を図る事も難しくはないが、対する者達が槍でも携えていれば、やはり、竦む者も珍しくはないだろう。
ただ青竹を切り出した竹槍とは言え、具足を纏って居ない物からすれば、立派な凶器足り得る。
だからこそ、見聞こそするものの、実際に立ち回りをする役人という者は、むしろ希有であった。
兎之助の相談に、羆之守は唸った。
だが、対する相手が、あからさまな悪党と聞いて、老羆は、首を縦に振った。
「師匠?」
驚いた様な熊之介の肩を、師はポンと肉球で叩く。
「一宿一飯の恩……一仕事するというのも、悪くは在るまい?」
名に相応しく、獰猛な笑みを見せる羆之守に、熊之介口は、我知らず綻んでいた。
剣に生きればこそ、高め磨いた技を思う存分使ってみたい。
そんな内なる欲求に、若き熊は、微笑んですらいた。




