おのぼり
羆之守の返事はともかくとして、正直な話し、熊之介は、茶屋の娘に堪らなく惹かれていた。
如何に剣の道に励んだ所で、欲しいモノは欲しく、溜まるモノは溜まる。
ましてや、熊之介も若い雄ともなれば、女熊に惹かれた所で、何の不思議も無いだろう。
チラリと、娘を盗み見る熊之介だが、彼女と目が合った瞬間には、若い熊は恥ずかしそうに頭を下げてしまう。
不肖の弟子を見ていた羆之守は、なにやら、不憫だとも感じる。
共に居てくれる人が居てくれたなら、何度無く、剣を振るいながらそう考えた老羆は、太い肩を震わせる弟子に、ソッと肉球を置いた。
「迷う事はない………誘うて見ろ」唐突な師の声に、熊之介は、「え?」と、顔を上げるが、その目には、柔らかい笑みを見せる師。
どうしたものかと、またも頭を下げる熊之介。
「しかしながら御師匠様……その、女の人と…余り話した事が在りませぬ故……」
弱々しい弟子の声と、垂れる丸耳に、老羆は、すっくと立ち上がる。
フンと鼻息一つ、「……すまんが、蕎麦がきを貰えんか?」と、羆之守が店に注文を通すと、「御二つで宜しいでしょうか?」と、先の娘は確認を取る。
茶屋の娘に、老羆はウムと頷いていた。
「し、師匠?」
疑問を持ち上げる熊之介に、どっかりと腰を下ろした羆之守は、太い腕を組んでまま、何も云わなかった。
店の奥から、注文の蕎麦がきが運ばれる訳だが、羆之守がせっかく機会を作ったにも関わらず、熊之介は消極的である。
受け取り、礼は言えるが、その先までが全くと言って良いほどに、熊之介からは言葉が出ない。
やれやれと、温かい蕎麦がきを口に運ぶ老羆だが、無骨な弟子と違い、師の箸使いは、実に鮮やかであった。
この時代、茶屋に腰掛ければ、在る程度の事はタダである。
手洗いや、茶に付いても同じだが、一応の礼儀として、幾らか置いていくのが礼儀として成り立つ。
無論、茶を飲んで、はい終わりでは、弟子と茶屋の店員の発展は望めないだろう。
だからこそ、意外な程の世話焼きぶりを見せる羆之守だが、これは、弟子に自分と同じ道を行って欲しくないという、老羆の願いでもある。
勘定を払う際、羆之守は、自らの顎の毛をソッと爪先で弄んだ。
熊之介が、遠くを見て居るのを良いことに、老羆は、店の熊娘の耳に、口を寄せる。
「御主……今宵の夕餉はどうかな?」
老羆の誘う様な妖しい声に、茶屋の若い熊娘は、ハッと口に肉球を当てる。
熊之介は知らないが、実のところ、茶屋での羆之守の行為は、現代の声掛けと同じ意味が在る。
現代と違い、娯楽の少ない時代なれば、武家でもない限り、婦女子が操を遵守すると云うことは、寧ろ稀有であり、男女の睦合いもまた、娯楽の一つと言えた。
勿論、そう言った商売を専門にしている店も多いが、街道の茶屋にて、真っ昼間からそんな事をする者は多くはないだろう。
「ええと……その……」
困った様な熊娘に、老羆は、ソッと弟子を爪で指す。
「なに、儂ではない……ほれ、彼処の若者がな………」
宥める様な声に誘われ、茶屋の娘は、熊之介の広い背中を見て、少し頬を綻ばせた。
蕎麦がきの代金を渡しつつ、少し微笑む羆之守。
「どうかな、それで、大丈夫か?」
そう意味深な言葉を口すれば、茶屋の娘も、満更でもないのか、少し頭を落として頬を綻ばせる。
「……はい、大丈夫です」
俯きながらでも、娘は細い声で、嬉しそうにそういった。
師匠が、店の娘と勝手な約束を取り付ける中、若き熊は、溜め息を漏らしてしまう。
なぜこうも自分は臆病なのかと。
だが、ポンと肩を叩かれた熊之介は、ハッと顔を上げた。
「さ、とりあえずは…今晩の宿でも見付けないとな?」
そう言う羆之守に、熊之介は、「はい」と沈んだ声で返事をしていた。
今夜の夕餉の場所と刻を指定された娘は、少し含む様に笑いながら、店を発つ二人の熊に、「ありがとうございました!」と、挨拶を贈った。
人見知りの筈の老羆ではあるが、かの剣客が其処まで世話を焼くのは、偏に、彼の心根に在る。
言葉少ない羆之守は、熊之介には云ったことはないが、若き熊が現れるまで、ただ寂しかった。
独り山中に籠もり、剣を、ただひたすらに剣にをと、それだけを糧に生きてきた。
技前こそ熟達を超えるが、羆之守自身、自身の持つ二振りの太刀を、【人斬り包丁】と、揶揄してすらいた。
この時代、腰の獲物は、武士の魂などという言葉も在るが、一歩踏み込めば、ただの鉄の延べ板である。
手入れを欠かした事はないが、だからといって、羆之守自身、それほど太刀に頓着が在るわけでもない。
それ以上に、自分の孤独を紛らわせてくれた熊之介に、老羆は、まるで息子を案ずる父親の様な心境に至っていた。
ズンズンと歩く羆之守の足取りは、歳に似合わず力強い。
店員の熊娘も、熊之介の背を見る目は、決して満更でもなく、後は、無骨な弟子を鼓舞すれば良いとすら、老羆は考えていた。
ふと、そんな二人の前に、僅かな騒ぎが在る。
野武士や、浪人同士の小競り合いなど、極々起こり得る事だが、そんな喧騒を、熊之介も羆之守も聴衆に混じった。
一方が、何事かの文句を付けるのに対して、もう一方は、黙って相手を睨むのみ。
髭がボサボサの犬浪人は、牙を剥いて目の前の若い白兎を睨み、喉をグルル鳴らした。
「あの博打はインチキだろうが!?」
そう言って、罵声を飛ばす浪人に、同じく余り綺麗とは言えない着流しを纏う兎は、目を細める。
「目読みは、最高の博打だ……にもかかわらず、お前が負けを認めないだけだろう」
若い白兎は、フンと鼻息一つで、そう言いはなった。
この兎が語った、【賽の目読み】とは、俗に目読み勝負とも云われ、博徒や侠客の間では、最高峰の勝負方法である。
単純な丁半ではなく、ツボと呼ばれる小さな笊に、賽を二つ入れ、出た賽子、その目を読む。
見えない賽子の目を、音と経験だけで読むという、一つの技の極地。
つまり、それが出来る博徒は、それだけでも、最高の業を持つとも言えた。
とは言え、ただ言い負かされた浪人も、はい分かりました、とはいかず、腰の刀に手を掛ける。
「其処へなおれ! 叩っ斬ってやる!」
そんな犬浪人の遠吠えに、聴衆達からは、脅えた声があがるが、そんな町人達を掻き分け、羆之守が前へと出ていた。
「すまんが……退いてくれ」と、羆之守は、端的に自分の目的を述べた。
喧嘩の仲裁をすれば、かの白兎の加勢だと、浪人からの責めを受けるかも知れないが、あくまでも、道中の往来という理由を付ければ、犬浪人の面目も立つと、老羆は考えていた。
頭一つ大きい羆侍は、それだけでも風格すら漂う。
そんな羆之守に、町人達からは、オオと声が上がるが、それだけに、犬浪人は兎から羆之守へと、視線を向けた。
「爺! 邪魔だてするか!」もはや、収まりが付かないのか、犬浪人は、腰から刀を抜いてしまう。
仕方なしにと、羆之守が太刀に手を掛けるが、そんな師匠の前に、若熊は立った。
その肉球に、練習用の枝を携えて。
「勝負なれば……先ずは弟子の私が……」
落ち着き払った熊之介の声。
女人との会話には不慣れでは在るが、その反面、剣への修練を重ねた熊之介からすれば、犬浪人と睨み合う方が、余程楽に感じていた。
「……左様か…殺すなよ…」
羆之守は、自身満々の弟子の背に、以前の罪を突きつけた。
振り向きはしないものの、老羆の弟子は、静かに頷く。
此処まで来れば、犬浪人も黙っては居られない。
「……ガァ!」と、咆哮上げて剣を振り上げ始める。
対手である熊之介は、この時、下段へと、太刀に見立てた薪雑棒を構えていた。
相手の腕が、振り上げられたのを機に、熊之介も動く。
正眼から、打ち出す真っ向切り下ろしは、一度振り上げる必要が在るが、その際、振り上げ、下ろす、という二動作が必要である。
下段に構えた熊之介は、肉球の中の枝を、左側に半月の様に回転させ、犬浪人の右手首を狙い打つ。
この技自体は、熊之介自身、【半月剣】と名付けていた。
「ぐわ!」
強かに右手を打たれた犬浪人は、苦痛の呻きと共に、手の刀を取り落とした。