満月
若きツキノワグマ、熊之介は、最初はどうせロクな訓練が無いかとも、勝手な勘ぐりをしていたが、それは、彼の若さ故の杞憂であった。
羆之守は、初めから熊之介に、適当な長さの枯れ枝を渡した。
木刀ですらないそれの手触りに、熊之介の肉球には、ザラザラとした樹皮が当たる。
「これで……いや……これを、どうすればいいのでしょう?」
当惑する熊之介。
対して、若熊の前に立つ老羆もまた、その肉球に枯れ枝を掴む。
「さ、掛かってこい………」
羆之守は、実に穏やかにそう言いはなった。
老羆は、大柄ではあるが、その毛並みにと、年故に白が混じり、まだらに近い。
如何に剣客とは言え、歳には勝てないだろうと、熊之介は、枯れ枝を高々と持ち上げ、如何にも上段の如く構えた。
剣の道に置いて、急所である胴が、がら空きとも揶揄される上段ではあるが、それは、剣を知らない者の戯れ言とも言えるだろう。
何故ならば、既に構えた上段は、力を溜め混み、いつでも、必殺の一撃を振り下ろす事が可能である。
星の引き寄せる力が、重い刀をより早くし、剣に熟達した者ならば、ただ振り下ろすだけとはいえ、時には、身構えた相手の刀身や、鉄兜ごと斬り込む事も珍しくはない。
「えぇい!」と、熊之介の裂帛の気合い。
師が云うのであればと、熊之介は、遠慮も無しに老羆に斬り掛かる。
だが、若熊の打ち下ろす枯れ枝は、空を切り、地面に当たって容易く折れた。
ハッとなる熊之介。
だが、そんな若熊の毛深い頬に、老羆は、枯れ枝を突き付ける。
「左様か…………熊之介……これでお前は、二度死んだ…………」
そんな静かな老羆のうなり声に、若熊は、ブルブルと全身の毛を震わせる。
震える若熊を、フイと無視し、老羆は適当な枯れ枝を広い上げ、それを若熊へと差し出す。
「受け取るか…………逃げるのか…………お前が決めろ…………」
師の声に、怖ず怖ずと、延ばされる若熊の毛深い腕。
だが、熊之介が枝を掴むより早く、老羆は、口を開いた。
「一つ、言うておく……三度目は……無いぞ?」
老羆の声は、三度目は本当の死だと、暗に告げていた。
胸の白い毛が立ち上がり、熊之介の内心は、焦ってしまう。
今すぐ逃げろという、自分の身体に、熊之介の魂は、断固として拒否を示すように、熊之介の肉球は、老羆が差し出す枝を握った。
若き熊之介の覚悟を、しかと受け止めた老羆は、ウムと頷く。
「これから……稽古を付ける訳だが……先に言うたこと、よくよく心に刻んで置けよ……小童……」からかう様な、老羆の声だが、それを聞いた若熊は、「はい! 先生!」と、高らかに吠えた。
先の一件以来、熊之介の中には、【恐怖】が産まれた。
しかし、その恐怖は、身を守る慎重さを若熊に与えてくれる。
不要に飛び込まず、じりじりと構える熊之介。
しかしながら、そんな若熊の頭に、老羆の野太い腕から放たれる神速の枝が、振り下ろされた。
ウゥムと唸り、ハタと目を覚ます熊之介だが、頭の鈍い鈍痛は、自身がまだ現世に居ることを示している。
顔を振りながら、身を起こすと、囲炉裏を背にする老羆が、其処には居た。
「覚悟が在るのは良い………だが、覚悟だけでは、蠅も殺せぬ………先ずは心、次は…………技だな」
そう言うと、老羆は、実に愉快そうに笑った。
羆之守は、熊之介を伴い、荒ら屋近くの竹林へと脚を運ぶ。
そして、熊之介の目は、師の腰に差された反り深い太刀に、目が釘付けに成っていた。
【あの様な妙な刀が振れるのか】と、熊之介は内心に思う。
だが、程なく、竹林へとたどり着いた老羆は、後に続く若熊を、ソッと肉球で押し留めた。
「コレから、やってみせるが…………良いか? 一度だけだ……良いな?……一度きりしか、見せぬ」
そんな、老羆の低い低い声に、若熊は、「はい!」と、応じた。
弟子の返事に、老羆は深く腰を回し、鯉口を切る。
カチリという、僅かな音が、熊之介の丸耳にもしかと届いていた。
「ムゥン!」低い呻きにも似た気合いと共に、老羆は、反り深い太刀を一気に引き抜く。
三日月にも似た太刀の輝きが、熊之介の目に眩しさを伝えるが、一度きりだという師の声が、若熊の目を決して閉じさせない。
通常の太刀よりも、反り深い老羆の太刀は、まるで満月を想わせる程に、丸く空気を切り裂く甲高い音と共に振られる。
そして、振り終えたのか、羆之守は、太刀を血が付いて居ないにも関わらず、軽く振ると、ゆったりと残心しつつ太刀を鞘へ収めた。
熊之介は、見ていた。
師の太刀が、鞘に戻るのと、彼の周りの竹が、バサバサと音を立てて倒れるのは、全くの同時であった。
【満月剣】と称す羆之守の太刀筋は、円の動きが全てである。
丸いまん丸こそ、一切の隙が無く、それ故に、かの老羆が放った太刀筋は、まるで満月の如く、熊之介の脳裏に焼き付いていた。
無論の事、いきなりの事でそれらの術理を体得出来る筈もない。
だからこそ羆之守は、熊之介に肉体の鍛錬を命じた。
山野を駆ける野の獣の如き力を会得せんと、若熊は、遮二無二走る。
荒れた藪を掻き分け、急斜面にも負けずに駆け上がった。
二カ月としない内に、若き熊之介は、羆之守の求むる技法を使える体躯を得ていた。
いよいよ、流派の真髄を教えてくれるのかと、熊之介は期待を胸に、胸元の白い毛をチリチリと逆立てるが、生憎と、この日の夜は、真っ暗な新月。
灯りを灯そうかという熊之介だが、そんな彼を、老羆はやんわりと押し留めた。
「師匠?」
鼻をヒクヒクと云わす熊之介に、羆之守は、荒ら屋から反り深い太刀とは、全くの違う太刀を取り出して見せていた。
反りは浅いが、常の刀よりも長い。
それが、熊之介の太刀への見立てである。
鍔は小さく、巻き蔓に漆を塗られた鞘は、真っ暗な闇にも関わらず、どこか怪しく、艶めかしさすら熊之介に感じさせた。
「熊之介…………これは、影の太刀である」
何の気なしにの師の声に、熊之介のは、呆けた様に首を傾げるが、次の瞬間、老羆は目にも留まらぬ速さで太刀を引き抜き、落ちくる枯れ葉を両断した。
そんな神業に、熊之介は、目を剥いて驚く。
ある程度、堅いモノ。
細木程度ならば、熊之介でも両断する事は容易い。
だが老羆は、中空の頼り無い枯れ葉を、寸断せしめた。
この事は、実に驚嘆足るべき事だろう。
如何に、刀の切れ味を生かすとはいえ、中空にある柔いモノというのは、実に斬りづらい。
いや、不可能とすら言って過言ではないだろう。
何かの台に在れば、枯れ葉を切る、と言うことも可能だろうが、そんな不可能をして見せた老羆に、若き熊は、即座に地面に肉球を付いた。
「師匠! 是非に、今の技を!」
ハッと目が覚めた様に言う熊之介に、羆之守は、笑いはするが、首を横へ振る。
「二兎を追う者には、一兎も採れぬ…………そう言うだろう?」
そんな羆之守は、影の太刀と称した技を、熊之介には二度とは見せてはくれなかった。
【新月閃】という、闇夜に刹那の瞬間煌めく太刀筋。
やはりコレも、熊之介はただの一度しか見せて貰えなかった。
だが夜な夜な、荒ら屋の外に出ては、必死に枯れ枝を振るい、技を磨く。
弟子入りしてから、早一年では在るが、未だに、羆之守に勝てない熊之介は、何故だと焦っていた。
老境著しい羆之守だが、体躯こそ大柄では在っても、若き熊之介の方が、より逞しい。
にも関わらず、熊之介との立ち合いに置いて、羆之守は、一度たりとも不覚を取ったことは無かった。
満月剣を会得せんと、切磋琢磨する熊之介だが、かの若き熊の太刀筋は、本人でも分かるほどに遅いのだ。
どれほどに力み、必死に研鑽を積み上げ、身体を強くしても、熊之介の太刀筋の速度は、余り早くなってくれず、若熊は、ダンと拳を立木に叩きつけていた。
何故だと、焦れば焦る程に、太刀筋は遅くなる。
気が急いてもしかたないと、脱力した熊之介は、基本の振りに立ち帰った。
だが、その脱力した熊之介の太刀筋は、以前のソレよりも早くなっていた。
ウンと呻き、熊之介はもう一度と、枝を振るう。
「そうか……これが……秘訣なのか…………」
そう言って、肉球を握る若熊を、空に輝く満月が、優しく照らしていた。