月光剣
侠客一家丸ごと斬殺されるという怪奇にも等しい事件は、殆ど後生の記憶には残されてはいない。
元々町の住人達からは疎まれていたはみ出し者。
寧ろ賞賛の声すら上がるほどである。
とは言え、合戦さながらの死体の数とも成れば、役人が町中を右往左往するものの、一向に下手人はあがらずにいた。
それどころか、町では幾つものあから様な噂が飛び交う程である。
対立組織に一家皆殺しの憂き目ともあらば、虐め殺した者の怨念などの超越的なモノから、一致団結した農民が深夜に密かに事を起こしたなど、千差万別であり、役人の捜査は一向に進まない。
だからこそ、たった一頭の熊侍による真実は明けに成らず、闇へと消えるという事件は、下手人が分かっていたとしても、誰も口にはしなかった。
後世に置いては、師匠の仇討ち話として親しまれているこの話が登るのは、もっとずっと後の事で在った。
宿の一件以来、熊之介はひとまず宿へと帰り着くが、彼の血に汚れた衣服は、小夜と楓の手によって焼かれ、証拠は残してはいない。
使われた刃物にしても、元々捨てる様なボロボロの包丁であった為に、鍛冶屋に放り込まれれば、モノは形を失うのは簡単であった。
「熊之介様……もうこれで……」羆之守の位牌の前にてそう言う楓。
だが、その妖艶な女狐の後ろでは、若き熊の男女が座していた。
「いえ楓殿、まだ…………もう一人居りますれば…………」
熊之介が大量殺戮の下手人であろうが、小夜は一切気にせずに彼の横に我が身を置くが、その顔には怯えよりも誇らしさが在った。
本来ならば女人は剣客を嫌うであろうが、スッと振り返った楓もまた、その顔には怯えはない。
「……頑固な所は……爲右衛門様に瓜二つで御座います……熊之介様」
楓の声に、小夜は頷く。
「私共………あなた様を信じて居りますれば、間違いは在りますまい………」
小夜の声に、熊之介は瞑目していた目をゆったりと開いていた。
蛇の弥平の口利きに因って、禄を食む立場と成った兎乃助だが、かの白兎の思惑全てが叶った訳ではない。
何処ぞの武家の出で在れば、コレもまた話は違うのだが、師匠殺しの兎乃助が得たのは、【六十俵】という、捨て扶持よりも些かマシという待遇であった。
コレに付いては裏も在る。
正直な話し、故人である弥平に取って同じく鬼籍に居る羆之守は正直な話し目の上のたんこぶであった。
かの老羆の町での評判は素晴らしいの一言である。
見た目の厳めしさを除けば人格、人柄、他人に対する配慮など、一切文句の付け所が無い程である。
むしろそのせいで、本当に侍なのかと云う逆説的な噂すら在ったほどである。
その成果として、反対に力を落としたのは弥平の一家であり、町の活気と引き換えに彼等は落ち目の立場に立たされ掛けていた。
そんなとき、兎乃助の申し出と、老羆の扱いをあぐねていた弥平からすれば、ちょっとした口利きでかの老羆を始末出来たのは得策とも言える。
しかしながら、その評判の老羆の死は、町の活気を一旦はどん底まで落としはしたが、ほぼ同時に、その弟子に因って果たされた影の仇討ちは町の活気は復活を果たしていた。
対して、老羆の弟子であった兎乃助ではあるが、名を白兎新月斉に改めた迄は上出来ではあるが、なかなかに仕官先にて昇進出来ずに居た。
問題であったのは、彼の学であり教養とも言える。
頭の出来に付いては何の問題も無く、剣の腕が立つ白兎ではあるが、如何せん、彼は元々は侠客でしかない。
で在れば、他の侍に引けを取るのは明白だろう。
剣の試合で在るならば何も恐れる者も無い兎乃助ではあるが、その出自に関して、彼は周りから疎まれる程であった。
何らかの形で、身の証を立てねばと悩む兎乃助に、ある日一通の書状。
そして、内容は【仇討ち故に死合いたく候】とだけ記され、文面としては、日時と場所以外は、これだけである。
「熊之介…………」
書状を破り捨てた兎乃助が口にしたのは、それだけであった。
月日が流れ、些かの夕暮れ時である。
藩からの仇討ち許可は、意外な程にあっさりと下りた。
無論、仇討ちを出来るのは氏族同士でなければ成らないのが常である。
元宿屋の主人、世五郎の世話の甲斐もあり、今の熊之介の立場は、町道場の主という肩書きであった。
何故真剣による仇討ちが簡単に許可がおりたのかと言えば、藩内部の兎乃助を良くは思わない者達の都合であろうが、この時宜に至り、兎乃助に取っては逆に良い話とも聞こえた。
町でも評判の熊侍と、藩では疎まれる兎侍。
藩役人の立ち会いの元、剣を交え己の証しを立てんと画策する兎に取っては願ってもない事である。
そして、兄弟弟子である兎と熊は、かの夕暮れ時の荒野へと姿を見せていた。
「抜け………田舎熊……あの爺の所へ送ってやる」
「楓殿が貴様に宜しくと云っていた………恥知らずめが…………」
長く反り浅い太刀の鯉口をカチリと切る兎侍に対して、熊之介はゆっくりと反り深い太刀を引き抜いた。
藩から派遣された見届け人は、奇異な形を見ていた。
片方の白兎は居合いを構え、片方の熊は脇構え太刀を構える。
正眼や八相とは違い、両者共に相手の出を狙う構えならば、兎乃助の有利は太刀の刃渡りだろう。
真横で異な立ち合いを見守る藩の者にしても、このまま切り結べば兎乃助が些か有利なのではないかと、固唾をのんで見守っていた。
真剣の勝負は一閃で決まる。
鉈の重さと剃刀の切れ味を誇る刃物に因る応酬。
そして、三寸も斬り込めば、容易く命を断つだろう。
白兎と月の輪熊が動いた時、藩の役人には、見えなかった。
線の動きにて、羆之守を屠った時と同じく、喉を狙う兎乃助の太刀に、速さで劣る熊之介だが、かの熊の太刀は横ではなく上へと走った。反り深い備前長船月光の刃の上を、籠鶴瓶新月が滑る。
刃先同士が僅か飛び散る金属の破片を散らせ、それは雪の如く僅かに輝く。
この時点で、兎乃助は目を見張った。
二の太刀を放つべく、素早く柄頭に左手を掛けた兎乃助だが、対して熊之介は、腰のひねりを生かして身体を素早く回す。
相手に背を晒すのは非常に危険な行為とはいえ、熊之介のそれは、かつて板切れで若猫を打ち殺した時の如く、尋常成らざる早さで回った。
だが、藩の者は【届くまい】と高を括る。
兎乃助の太刀の長さ故に、暗闇に沈む新月の如く走った剣の長さだが、対する熊の持つ反り深い太刀では、そのままでは確かに届かない。
だが、この時熊之介は秘策を用いていた。
右の肉球を放し、左だけで太刀を横なぎに振るう。
回転と速度が合わさり、熊之介の太刀は名の如く三日月の光を見守る者に見せていた。
瞬間、兎乃助は理解が及ばず、我が目を疑った。
だが、兎乃助が太刀を構えるのと、その頭が長く白い耳を揺らしながら落ちるのは、ほぼ同時である。
「…………覚えたか!! 月光剣!!」
その熊の咆哮は、歴史に記される事は無かった。
後の事ではあるが、現代でもかの熊が残した兵法と二振りの太刀は、その子孫が何処かへと静かに安置していると、まことしやかに囁かれていた。
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