夜襲
侠客のシノギ、収益の殆どは、貸し出した店舗等からの上納金がごく一般的ではあるが、それだけでは続かない。
もしただひたすらに民から何かを搾り取ろうモノなら、幾ら大家の侠客とは言え、夜襲を掛けられる事も全く珍しいモノではないだろう。
【殺されるぐらいなら相手を殺す】それが当たり前の時代に置いて、本などに描かれる様な、【絵に描いた悪党】をする者は、ただの小物である。
兎乃助に仕官の口を効いた蛇の弥平はその夜、賭場の上がりと収支についての本を熟読していた。
確かに、ヤクザが気負いの家業である事には代わりはない。
喧嘩が弱ければ舐められるというのも、そうだろう。
だが、腕っ節だけで食べていける程に世の中は甘くなく、それ以上にのし上がりたいのであれば、在る程度の教養と博学が求められるのは何処でも同じである。
上野国には吉原遊郭は無いが、何処でも花魁などの高位の芸者に求められるのは、見た目の艶やかさも勿論だが、その知性と教養である。
見た目だけで頭が伴わない場合、多くはうらぶれた投げ込み寺に葬られ、名を残す事もなく世から消えるのみ。
余談ではあるが、知性と仁義に劣ったとて、何らかの形で名を残せば、後生にて改変させられる事も珍しくはない。
上野で専ら有名な国定忠治ではあるが、彼は実家の家計からは断絶されている。
後生の文筆家が偶々目を付け、これを書き、世に放った事によって国定忠治の伝説は近年の日本にもあるが、全くの虚構である。
元々の産まれはともかく、飲む打つ買うの三拍子揃ったゴロツキに過ぎない彼が、今年にまで名を残して居るのは、偏に、【役人を斬った】からに他成らない。
勿論、虚構の様に悪徳役人を成敗したわけでもなく、ただ単に凶状持ちとなった国定忠治が、逃亡の最中に幾人の役人を斬ったのは間違いないが、それはそれ、その証拠に、天下の五代とまで云われた大前田栄五郎という大侠客に対して、生涯に置いて杯を強請ったという逸話も残されているが、かの国定忠治は、結局のところ貰えはしなかった。
【かの小物は余りに非道が過ぎる】という、実に単純な理由からである。
しかしながら、どの侠客もまた、基本的には変わらない。
上にのし上がりたければ、喧嘩以上に頭を使わねば成らない。
兎乃助を仕官させたのも、長い目で見れば有益であると弥平が確信したからにほか成らず、そのためならば、名も知らぬ剣客一人死んだところで、微塵も蛇は気にせず、長い尾を用いて算盤を弾いていた。
そろそろ一区切りとして、一杯引っ掛けようかと、弥平は首をもたげる。
「だれぞ! 誰か在る!」
少し大きめの声でそう言う弥平だが、深夜だからなのか、シンと静まり返った家宅の中からは、返事が無い。
「けっ……しまらねぇなぁ………」
渋々ながらも、ノソリ動きを見せる弥平の頭の上で、髷がひょこりと揺れた。
襖をサッと開け放つ弥平ではあるが、ゾワリと背筋に寒気を覚え、急ぎ部屋の中へと逃げると、襖を閉じる。
だが、廊下を漂っていた鉄臭さは、確実に憶えてもいる。
まだ一角のチンケな小悪党の自分、何度となく感じた怖気。
それは、確かに弥平を護ってくれた。
度重なる喧嘩の中でも、弥平が無事に今生きていられるのは、その怯えの性格によるものだ。
無難にこなし、無難に生きる。
だからこそ、弥平は今の地位を築き上げたとも言える。
飛び抜けた何かはないが、そつなくこなし失敗しない。
だが、その弥平も、登り詰めたからこそ、下が見えなくなっていたとしても、何の不思議も無いだろう。
静かな中にもかかわらず、ドスドスという廊下を踏み締める足音に、蛇の弥平は、急ぎ辺りを確認するが、武器らしい武器も無く、ただ、呆然としていた。
スラリと開かれる襖からは、のそりと一頭の熊が姿を現すが、腰の太刀はそのままであり、かの熊の肉球には、竹竿に包丁をくくりつけただけの槍に見立てた凶器が握られていた。
「な……何だ!? テメェは!?」
大蛇としての自覚からか、空威張りを繰り出す弥平ではあるが、胸元の白い毛が真っ赤に染まるほどに返り血を浴びている熊之介は、ジッと弥平の眼をにらんでいた。
おどろおどろしい熊の姿に、弥平は狼狽える。
この屋敷には、喧嘩自慢を含めて三十以上の子分が常駐している。
にもかかわらず、かの熊は、悲鳴一つ上げさせずにここに至る。
普段から汗すらかかない弥平にしても、そのことは恐ろしかった。
「テメェ………子分共はどうしやがった………うちにゃあ…さんじゅうの………」静かにそう言う弥平の声に、熊之介は太い首を傾げるが、「三十? 二十八しか居なかったぞ?」と、手に掛けたで在ろう数を口にしていた。
小夜と別れた後、熊之介は宿の台所から何本か包丁を失敬していた。
剣の修行に明け暮れる中でも、熊之介の師である羆之守は、あらゆる戦い方を弟子に、惜しげもなく教えていた。
多対一の戦いから、室内に至り、そして素手での組み討ちまで、全てを。
不意打ちを卑怯と言えるのは、武の道に身を置かぬ者の言葉である。
何らかのかたちであれ、暴力を用いて身を立てるならば、例え後ろから刺されたとて、言い訳は出来ない。
その証拠に、熊之介師であり父である羆之守は、丸腰を狙われた。
だからこそ、怒れる熊には何の躊躇いもなく人を殺める事が出来た。
堂々と名乗りを上げて正面から入り込むなど、実のところ具の骨頂である。
戦いに際して最も有効なのは、相手を平然と殺せる態度でしかない。
それは、死すれば名誉も無く、全てを失うからに他ならない。
どれほどの高名を残そうが、本人に取っては意味がないのである。
墓が残ろうが、本がでようが、死ねば終わりなのだと、羆之守は口うるさく弟子に伝え、その弟子もまた、忠弟らしく師の言葉に従っていた。
言葉も無く、ただ詰め寄ってくる熊之介に、弥平は恐れを覚えた。
丸腰にて、山野を駆け回る野生の野獣を前にする。
「教えろ………あの卑怯な白兎は何処に居る?」
抵抗の意を見せない弥平に対して、熊之介は、師羆之守から賜った備前長船月光を引き抜く。
ギラリと、夜の闇を切り裂く様に輝く月の如く、弥平にも熊之介の太刀は眩しく輝いて見えていた。