野心
「師匠………お暇を頂きたく」
宿に帰るなり、熊之介は羆之守にそうきりだした。
「左様か、訳を聞かせてはくれぬのか?」
平服する熊之介に、老羆はそう促した。
「祝言はともかく……小夜と居てやりたいのです」
実に正直に、熊之介はそう言った。
若き熊の決意に、羆之守は僅かに乾いた鼻を唸らせる。
共に用心棒としての形ではある。
今更ながらも、確かに人足の募集は在ることから、その気に成れば真っ当に暮らして行くことも難しくはない。
しかしながらに、安寧とした今の暮らしを捨て去るというのも、生半に難しく、羆之守は、頭を悩ませた。
「熊之介よ、こうしてはどうだ? 儂が楓に口を利こう………茶屋勤めの彼女で在れば、宿屋に職替えしたとても、難しくはないであろう? 今すぐ、若さに任せてどうこうよりも、腰を据えて、先ずは地面を造るのが先ではないか?」
師の申し出には、熊之介も頭が下がる想いである。
確かに、このまま用心棒としての暮らしも悪くはないが、ただ一つ、かの若き熊には、悩みがあった。
「しかしながら師匠…………このまま此処にいると言う事は、また、人を切らねば成らぬと云う事では?」
剣客らしからぬ熊之介の悩みに、羆之守も唸る。
確かに、今でこそ自分達の評判の為に、むざむざ喧嘩をふっかけてくる輩は殆どいないと言っても過言ではないだろう。
だが、またあの時と同じ様な事が無いとも言い切れない。
「つまりお主は、人斬りはしたくない………そう言う訳だな?」
端的な羆之守の声に、今度は熊之介が言葉に詰まる。
もし、【そうだ】と言えば、剣を置かねば成らない。
それは今までの全てを捨て去り、新しい道を行くという意味でもある。
しかしながら、同時に熊之介を悩ませたのは、剣客としての意地である。
一度でも剣を握った以上、それを棄てるのは難しい。
ただ一時の想いの為に、全てを捨て去ると言う事を、熊之介は選べなかった。
頭を唸らせ悩む弟子の姿に、羆之守笑う。
「熊之介よ、お主、自分で技を考えはしないのか?」
そんな羆之守の野太い声に、熊之介は、ハッと成った。
「お前の剣は今のままでは儂の模倣に過ぎんぞ? それではお前も納得がいかんだろう………儂の技が殺しなら、お前はお前で、人を殺さずにすむ技を考案して見せよ…………」
師の仰せに、弟子の目は泳いだ。
一朝一夕にて、技は工夫出来るモノではない。
それは、熊之介が自らの身を持ってよくよく知っている。
だが、もし、師の言葉に叶う事が可能であれば、剣も小夜も諦める必要など無く、双方を手に入れられる。
「………工夫、して見せます………羆之守様…………」
敢えて師とは呼ばず、熊之介は自身の覚悟を老羆に見せた。
そんな若き熊を見て、羆之守は微笑む。
「うむ……ソレでこその、儂の一番弟子だろうな………」
そう言う羆之守を見た熊之介だが、いつになく柔らかい笑みを、父親に等しい老羆は見せていた。
さて、もう一人の弟子はと言えば、熊之介とは違い殆ど悩みもせずに、居酒屋にて酒を呷る。
弥平より、【誰が一番強いんだ?】と問われた際、彼は、自分だとは言えなかった。
何せ、未だに一度も熊之介とは勿論、羆之守とすら、兎乃助は立ち合っては居ない。
ただの侠客から、剣客へと身をやつした彼からすれば、本心では自分が一番強いんだという思いすら在る。
そんな時、兎乃助の胸の内にはムラムラと試したい気持ちが湧いていた。
如何に羆之守とて、老羆に過ぎず、歳には勝てぬだろうと。
夜盗討伐の代金として受け取った金で買った太刀を見ながら、兎乃助は、胸の内で在ることを画策していた。
如何に自分とは言え、熊之介と羆之守を二人に相手は出来ない。
二人だろうと負けぬというほど、彼もまた愚かではない。
そして、熊之介が茶屋の娘に御執心なのは、彼もまた熟知していた。
「…勘定は此処へ置いていく」そう言うと、兎乃助は銀を放り、席を立った。
鉄は熱い内に打てと云う。
だが、如何に恩義が在ろうとも、刹那を生きて来た兎乃助からすれば、弥平の申し出は有り難い蜘蛛の糸にも思えた。
貧しい産まれを払拭し、自分を高見へと押し上げる。
夜の道を歩く兎乃助の赤い眼は、胸を焦がす野心に爛々と輝いていた。
羆之守とは別に、老羆は熊之介の外出を止めようとはしない。
恥ずかしながらにも、かの老羆もまた、楓を欲してもいる。
腰に太刀を差し、スックと立ち上がる熊之介に、老羆は、口を開いた。
「熊之介…………」
呼び声と共に、熊之介は振り返るが、ハタと目の前に飛んできた巻物を受け取る。
「…………コレは…………」
難しいモノではなく、巻物に表紙に書かれた文字を見た熊之介は、目を丸くした。
「なに、渡せる内に渡して置こうかとな………腰を抜かすでないぞ?」
茶化す様な羆之守の声に、熊之介は、頭をボリボリと掻く。
今更、自分が何処へ、何をしに行くのかは、師にはバレている。
隠し立てするつもりも無いが、熊之介は、深々と頭を下げていた。
宿の二階から、提灯片手にウキウキと出掛ける弟子を、羆之守は見送る。
溜め息混じりなのは、女が出来た弟子に因るモノか、それとも、「失礼致します」と、静かに酒と肴持参で羆之守の部屋に現れる楓の為か、どちらにせよ、老羆の口元は緩んでいた。
「楓……共に祝い酒を飲んでくれるか?」障子を閉めた羆之守のそんな声に、今やすっかり良い仲の楓は、「はい、勿論」と返していた。
半刻ほど過ぎた頃、羆之守は低く笑う。
「何をお笑いに成られたので?」
咎める訳でもないが、そんな楓の声に、羆之守は太い首を左右へ振る。
「なに、難しい事ではない………あやつが、熊之介が儂の元に来た時を思い出してな……子が育つのは、早いものだとは………」
「熊之介様もお年頃ともあれば、好いた者が居たとて不思議は在りませぬ………」
楓の声に、羆之守は在ることを思い出していた。
「そうだ、楓……この宿で、一人雇うてはくれぬか?」
羆之守の唐突な申し出に、楓は驚きはしたが、直ぐに「はい、どの様なお方で?」と、まるで妻の様に接した。
羆之守の話し自体は、差ほどの事もなく、要するに、小夜の事である。
事情を交えながらに、羆之守が楓にお願いだと頭を下げると、楓はフフと少し笑い、老羆の頭を、肉球を添えて上げさせた。
「その様な事でしたら……直ぐに宿の主人に云っておきます……大店では在りませぬが、一人増えた所で問題は在りますまい…………」
そう言う楓の声には、嬉しさが含まれていた。
頼るばかりではなく、老羆から頼られる。
「すまぬな……楓」
「それくらいなら当然です事………爲右衛門様…………」
そして、かの女狐からすれば、それは何よりも嬉しい事であった。
意外にも、明日でも構わないと羆之守が止めても、楓はパタパタと走って行ってしまった。
善は急げとの事だが、まだ本人にも相談してないのにも関わらず、実に気の早い話だと、羆之守は低く笑う。
だが、楓と入れ違いに入ってきた影を見て、老羆は喉を唸らせた。
「おう、兎乃助か……どうした? この様な夜分に………」
羆之守の声に、兎乃助は、やはり土壇場で悩む。
如何に心を鬼にしたとても、彼自身は鬼ではない。
何かを言おうと悩む兎乃助を前に、羆之守は、ポンと肉球を鳴らした。
「兎乃助よ、お前にも渡すモノがあるのだ………」
サッと立ち上がり、刀掛けに掛けてある太刀を取る羆之守。
それは、兎乃助からすれば、あの晩に見た長めの太刀、籠鶴瓶新月である。
「熊之介にも、儂の太刀を授けた………お前も儂の弟子ならば、やはりコレを託そうと思うのだが……受けてくれるな?」
羆之守の声は、兎乃助からは願ってもない事である。
恐る恐る、太刀を受け取る兎乃助は、師の目を、ジッと見た。
「師匠………受け取るに当たり、私からも一つ御座います………」
そう言う兎乃助の声に、老羆は、ムゥンと鼻を唸らせた。
授けられた太刀を、腰の帯に指すなり、兎乃助は鯉口を切ってしまう。
ハッと成った羆之守とは言え、兎乃助との間合いは一間。
それは、新月剣の間合い。
羆之守もまた、老境ゆえに忘れて居たことがある。
如何に師弟とは言え、剣客と剣客の間には、絶対の掟。
例え不意打ちで在ろうとも、負けは負け。
勝ち生き残った方が、この世の正義でしかない。
閃光の如く走る新月剣に、咄嗟に身を捩った羆之守ではあるが、常よりも長き太刀は、しっかりと羆之守の喉を捉えていた。
片腕ごと斬られた羆之守の喉からは、鮮血が走り、どうと倒れる。
懐紙で血を拭った太刀を、鞘に納めながらに、兎乃助は嗤っていた。
「印可目録、確かに受け取りまして御座います………羆之守殿」
それを聴いた者は居ない。
唐突に、胸に悪寒を感じた熊之介は、手の明かりを落とした。
一気に燃え上がる提灯など無視して、熊之介は、何かを感じていたが、それが何かは分からない。
だが、酷い胸騒ぎに、熊之介は師の居る宿へと走って居た。