変化
店主の好意で、前掛けを外した小夜と、熊之介は、二人並んで茶屋の椅子に腰掛けていた。本来で在れば、太刀を左に置くところを、熊之介は敢えて右側に置き、小夜を左に位置する。
コレは、熊之介の心配りである。
如何様にも出来そう体勢とは言え、頼みの太刀を敢えて利き腕とは反対に置くことによって、相手への敬意を現す。
無論の事、それらは目上、例えるならば藩主と家臣の間柄とも言えるが、熊之介にしてみれば、小夜とは、そう言う存在である。
「急に来られたので……驚いてしまいました」おどける小夜に、熊之介は、「すまん」と囁き、首を垂れた。
これだけでも、異例としか映らないだろう。
往来の者が居るにも関わらず、侍が茶屋の娘に頭を下げるなど、本来ならば言語道断と言える。
酷いときなど、無礼打ちがまかり通った時代なれば、奇異ですら在るが、小夜は、そんな若き熊の心遣いにすら、感銘を覚えた。
しかしながら、同時に虚しさも若い熊娘は感じている。
如何に今は優しくとも、士官が叶えば、自分の様な者を彼は見てくれないのではないかと。
武家の者が戯れに町人の娘をたぶからし、程よく醒めた頃には一時の気の迷いだと、捨てられる事も珍しくはない。
事実、苦界に落ちた娘の一番の望みは、其処から出して欲しいというモノだろう。
だからこそ、見苦しい大旦那で在ろうとも、媚びを売り、自分を買って欲しいと強請るのだ。
だが、小夜は、自らの肉球に重ねられる毛深い腕に、ハッとなった。
「あ、あの………熊之介様?」
驚いた小夜にも関わらず、熊之介の瞳には、いつも異常に真面目な輝き。
ひとまず、熊之介の喉が、唾を飲み込んだのか、ゴクリと動いた。
「今の私は……浪々の身です……ですが…必ず、なんとかして見せます……ですから…ですから…私に、貴女を……貴女を護らせてください…………」
必死な面持ちで、熊之介はそう語った。
かの若き熊が言った言葉の意味は、小夜にも分かっていた。
勿論、ぶっきらぼうとも、無責任とも取れるだろう。
小夜は、僅かに首を落とし、悩む調子を見せる。
しばし後、僅かに小夜の震えを見咎めた熊之介は、酷く困っていた。
だが、気丈に涙に濡れる顔を平然と上げた小夜は、その眼から零れ落ちるモノを無視して、「…はい、お願い致します」とだけ呟いていた。
熊之介の師である羆之守もまた、今や自室化してい宿の部屋にて、書き物を認めていた。
休憩がてら、茶を持って老羆の部屋を訪れた楓は、かの老羆が書き連ねる巻物に眼を落とす。
「爲右衛門様……何をお書きになっていらっしゃるので?」
楓の艶やかな声に、羆之守は、一旦筆を硯に置いた。
「うむ……刀と技は教え伝えた………だが、かの者達に箔を付けさせる為にも、この程度の紙切れで何とか成れば、してやりたいと思うてな………」
そう言う羆之守は、楓から茶碗を受け取りながらも、ジッと自分が書いたモノを見据える。
ソッと楓も、羆之守の後ろから覗くと、其処には【印可】の文字。
なる程と、鼻息を細長い吹いた楓は、ソッと羆之守の斜め後ろに座る。
「爲右衛門様………」ボソリとそう言う楓の声に、老羆の耳がピクリと動き、かの老羆は、ゆったりと膝を滑らせ振り向き「何かな?」と言う。
羆之守の満足げな顔を見て、楓もまた、同じように微笑んだ。
「なんと言いましょうか………今の貴方様は、まるで父親のようですわ」
楓の柔らかい声に、羆之守は、茶に咽せ咳き込む。
そんな老羆の背を、楓はソッと撫でながら、笑みを崩さない。
「そんなに驚く事でしょうか? でも、二つ認めて居るのは何故ですか? 一つは熊之介殿でしょうか………ですが…………」
確かに、楓の言葉の通り、羆之守が認めた巻物は二つ。
咳払いを一つした羆之守は、ソッと置かれている自分の差料を見る。
「弟子が………二人に成ったのでな…………」
そう言う羆之守の声は、残念そうでもあり、同時に、誇らしげでもある。
印可を渡し、剣を渡してしまえば、自分には何も残らないのではないか。
そんな疑問が僅かに羆之守の心を過ぎる。
剣客足るもの、自ら自身が最強と信じて疑わないのは自明の理であり、そんな自己への執着は、かの老羆にも確実にある。
「楓殿………」唐突な羆之守の声にも、楓は動じず、それどころか、ワザと老羆の尻を抓ってすら見せ、「どうか、私の事は呼び捨てに為さって………」という。
多少の痛みはあれど、羆之守は動じず、渇き気味の鼻を唸らせた。
「楓……笑うてくれ……その太刀の前にも、熊之介に一振り授けてしまった………でだ、今度も兎乃助に、儂の太刀を渡そうとも思う………」
羆之守の真剣な面持ちに、楓の顔にも、刀の様なキレが走る。
かの老羆には一切の虚勢も、虚偽もなく、自分に相談を持ちかけておられるのだと。
「儂の執着だろうな……本当に、かの兎にソレを渡してしまって良いのかな、それが……分からんのだ……なに、渡すのは大した事ではない……二、三言葉を掛け、渡せば良いのだが………ただ、儂には何も残らんのかな………」
そう言う羆之守に、楓は、少し頷き微笑む。
「良いでは在りませんか…………」
楓の声に、羆之守は、僅かに唸った。
「…………何故に…………」
端的な羆之守の真剣な声にもかかわらず、楓はただ柔らかく笑う。
「貴方様は…御立派な剣客………でも、歳はいつしか貴方のお命すら奪うでしょうね……でも、爲右衛門様……貴方は、立派な剣客を二人も育て上げられました……高望みせずに、それだけでも、充分なのではないでしょうか?」
楓の声に、羆之守は一旦は目を丸くしたが、直ぐに目に肉球を当て、低く笑う。
「なんと言うことか……この歳になって、自分より若い者にモノの本質を教わるとは………因果なモノだな………だが、楓、礼を云いたい……そなたのおかげで、儂の憂いは晴れた……有り難い…………」
「…………勿体のう御座いまする……爲右衛門様……」
肩を抱いてくる羆之守の声にもかかわらず、楓は、逃げるどころか自ら膝を立ててまで、羆之守を抱き返していた。
交わされる唇は、ゆったりと離された。
日はまだ高い。
「あ、爲右衛門様………」と、楓が咎めても、羆之守は動じず、寧ろやんわりと楓を押し倒すが、楓は、襖がキチンと閉まっているかどうかしか、羆之守という雄以外には、興味を示さなかった。
熊侍達が、それぞれの時を過ごす中、兎乃助もまた、侠客の親分に呼ばれ、静かにとある建物の廊下を歩いていた。
一子分を呼び出すだけならば、大した事ではない。
しかしながら、此度兎乃助を呼んだのは、町の主とも呼べる人物である。
「どうぞ…………」
子分にしろ、丁稚にせよ、兎乃助が仕える宿とは違い豪華な間へと通された兎乃助は、素早く下座に着いていた。
床の間を背に上座だが、例え、勧められたとて、子分は上座に座ってはならないというのが、侠客の暗黙の了解である。
半端者と蔑まれる、侠客兎乃助とは言え、彼の親代わりの代貸しは、しっかりと彼を躾ていたと言えよう。
物音を、兎乃助の長く白い耳は敏感に聞き取る。
すぐさま、兎乃助は武士の様に平服していた。
腰の差料の内、愛用の道中差しは既に預けてある。
そして、兎乃助の体勢は、いつ殺されてもおかしくない程に無防備だった。
「面………上げてくんな………白兎の…………」
そう言う声に、兎乃助は面を上げる。
かの若き兎の前には、町を連ねる親分、蛇の弥平。
片目を失い、シュルシュルと音を立てて舌を伸ばす侠客にも、兎乃助は動じない。
「弥平親分………お久しぶりで御座います………」
兎乃助の挨拶に、弥平は、長い尾を器用に用いて、頭を掻いた。
「おーおー………随分とまぁ……礼儀作法を習ったみてぇだな? 痒くっていけねぇ………ま、お前さんを呼んだのは他でもねぇ、ほれ、この前の野良犬退治の一件よ…………」
弥平の声には、当たり前だが、兎乃助も覚えが在る。
確かに、口入れ屋から受け取りこなした仕事。
だが、ソツなくこなした自信は、兎乃助には在った。
何も言わない若い兎に、弥平は、片方しか無い眼を細める。
「まぁよ? 俺っちが、お前さんを呼んだのは他でもねぇ………確かよ……三人でやったんだよな?」
弥平の声に、兎乃助は頷き、「左様に御座います」と答えた。
兎乃助の返答を聞いた弥平だが、喉をシュルシュルと唸らせる。
「でだ、兎乃助よ………チョイとした方からな、その件のひとりを雇いたいというのが、俺っちに来てる訳だ……で、本題だが……だれが、一番強いんだ?」
蛇の異名が示す様に、おどろおどろしい声。
だが、兎乃助の胸の内は、野心という影が踊り始めていた。