三日月の夜
楓との一時。
一刻程すぎた頃、羆之守は、ノソリと部屋から姿を現していた。
床の間には、疲れて眠る艶めいた楓。
年寄りが無理をさせたと、心の内で詫びながら、羆之守は、旅籠の外を目指す。
厠が在る裏口へと趣、止め木を外すのだが、そう長いこと外に居座るつもりはかの老羆には無い。
部屋の中で剣を振り回すほど野暮でもないし、ましてや、人の前で振るおうとも思えず、羆之守は旅籠の裏手に出ていた。
真っ暗闇でもなく、三日月輝く僅かに明るい夜である。
誰もいない闇夜の中。
老羆は、ひたすらの腰の太刀を抜き放ち、【新月閃】を繰り出していた。
時折、抜いたまま【満月剣】を交える刀法は、熊之介には無い技である。
壮年の羆とは思えない程に、羆之守の太刀は冴え渡った。
それは、楓との出会いからかも知れない。
老羆も我知らず、かの女狐に惹かれていたのだろう。
それを、悪いとは考えない。
ジッと山に籠もりきり、剣に狂う。
それでも、やはり寂しさは募り、たまたま出会った楓に、羆之守は甘えた。
だが、夜の闇に隠れて剣を振るう彼の動きに、甘さは無い。
一太刀一太刀が、必殺の意志を込められては振るわれる。
それを、こっそりと見ている影が在った。
闇夜でも、彼の白い毛は目立ち、長い耳はひくひくとするが、優れた兎乃助の耳でも、羆之守の太刀の音は聞こえない。
風切り音が出ないほどに遅い訳ではない。
見ている兎乃介にも、捉えられない程の速さで振られた【新月閃】は、音すら無く、落ち来る木の葉を寸断せしめた。
一頻り、色に溺れた汗とは違い、剣による汗をかいた羆之守は、太刀を鞘に納めつつ、ソッと振り返った。
「見ているだけかな? 兎乃助…………」
気配や、匂いではない。
単に、兎乃助が目立つからだが、こそこそとしていた自分を見当てられた若き白兎は、スッと影から居出て頭を下げた。
「申し訳ありやせん……先生……ただ、余りに先生の太刀が見事なモノで…」
そう言う兎乃助に、羆之守は、フゥムと唸った。
いつかは、自分と熊之介は旅籠から去る。
で在れば、若き白兎に在る程度の技を教えても良いのではないかと。
「兎乃助………お前、剣を習う気は…………在るか?」
そんな羆之守の声に、若き白兎は、ハッと赤い目を輝かせた。
兎乃助にしても、願ってもないことである。
博徒、侠客の世界に身を置く以上、最低限は喧嘩の強さは居る。
手器用さでは、右に出る者は居ないという自負は在れども、実のところ、喧嘩に至っては、全くと言って良いほど自信のない白兎。
「…………お願いします…………」
二の句も告げず、兎乃助は、羆之守に手を着いて頭を下げていた。
羆之守が旅籠を、守るべく滞在する頃。
二晩程、熊之介と小夜は家から出てこなかった。
小夜からすれば、茶屋の無断欠勤であるし、熊之介に至っては、師すら忘れて、初めての女熊への没頭とでも云うべきかも知れない。
溢れる体力は、経験豊富な小夜の方が困るほどである。
だが、太陽と月が行ったり来たりを繰り返したその後、若き熊の剣客と、茶屋の店員は姿を現していた。
溌剌とした熊之介とは違い、小夜の顔には、疲労が浮かぶ。
「申し訳在りませぬ……小夜…………」
いつしか、近くの彼女を呼び捨てにて呼ぶ熊之介に、小夜は、頬を染める。
「ホントに、困りましたよ……熊之介様」と、惚気た。
互いに、行くべき道は取り合えずば違う。
小夜を茶屋へと送るべく、彼女の側を歩く剣客は、前の彼を知っている者には、一回りも二回りも大きく見えただろう。
町を行く熊之介の後ろでは、しずしずと歩く熊娘と、なんとも見合うとも言える。
ただ、歩く内に、いつしか、別の事までが町の噂に登り始めていた事を、熊之介は知った。
老羆が、素手にて浪人者を成敗してしまったと。
これには、熊之介は大声で嗤いたかった。
我が師が、たかが痩せ浪人如きに不覚を取るなどあり得ぬと。
ただ、そう言ったことを云うことは、熊之介は堅く法度とされていた。
人を殺して蛮勇を旗とするなど、マトモな武士のやるべき事ではないと、羆之守は常々弟子に口を酸っぱくして語った。
侍の剣は、無辜の民を守るべきモノであり、己が為に振るうなと、かの老羆は、熊之介に語って聞かせた。
そして、その言葉を聞かされた熊之介また、師の教えに殉ずる覚悟もあった。
【刀は人斬り包丁でもあるが、使い方次第では人を守る武器になる】と。
小夜は、ふと見た。
熊之介の腰に差された反り深い太刀。
備前長船月光の鍔が、太陽の輝きを受けて輝く月の如く、僅かに光るのを。
流石に、茶屋の店主も、熊之介に頭を下げられれば文句は出せなかったが、加えて、熊之介が支払った幾ばくかの金子によって、実に景気の良い顔である。
茶屋の店員ともなれば、在る程度の給料は出るものの、端金。
それを越える額の金子をソッと受け取った茶屋の店主は、小夜に文句を云うことは無かった。
「では、小夜……少し我慢していてくれ…………」
「はい、お待ちしております………熊之介様」
何とも言えない若者の会話だが、大柄な熊に文句を付けられるだけの胆力は、店主には無い。
ザッと地面を蹴り上げ、旅籠へと帰る熊之介の背中を、小夜は、ずっと見送っていた。
旅籠に帰り着いた熊之介は、ハタと悩む。
師への言い訳について、何も考えて居ないからだ。
だが、そんな悩む熊之介に、旅籠の二階から、ソッと声が響いた。
「何をしておる………この馬鹿弟子めが!」
咎める言葉ではあるが、羆之守の声は、実に静かで穏やかであった。