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威風 動物剣客伝  作者: enforcer
10/19

旅籠

 宿に一人帰り着いた老羆は、更なる一計を画策していた。

 何らかの方法にて、若き弟子に職を世話せねば、如何に女人とて、一緒に居るというのは無理がある。 

 無論、女に食わせて貰っている不埒な輩が、居ないわけではないが、あの純朴な若熊に、それが出来るとも思えない。

 禄を取れる身分ではない浪人では、用心棒か、口入れ屋という、現在で云う人材派遣を頼らねばならないだろう。

 確かに、剣を捨ててそういった道も在るが、それについては、羆之守は最後の手段として、既に頭からは排している。

 此処に来て、自身の伝手の無さに、羆之守は唸った。

 どれだけ剣技に優れようとも、それは、泰平の世では余りに儚い。

 弁が立つのであれば、或いは話し違えども、だからといって、推挙を望めるような相手も居らず、羆之守は、用意された布団に潜りつつ、頭を悩ませていた。


 日も明けた、次の日の朝の事である。


「もし……お侍様」

 そんな、青年らしからぬ高め声に、ハタと目を覚ました羆之守はムゥンと唸る。

 急ぎ身を起こす羆之守は、隣にて敷かれた布団には、一切の乱れなく、弟子が帰って来てはいないという事を確認してか、僅かに微笑んでいた。

 急ぎ着替え、脇差しのみを腰に帯びた羆之守が襖を開けたところでは、白い毛も眩しい若兎の青年、兎乃助が居た。

 頭を下げて見せるかの白兎。

 その彼の様子から、尋常ではないという事を悟った羆之守は、フゥと乾き気味の鼻から息を吐いた。

「何か、在ったのかね?」

「へぇ……先生には、早速の所と申し訳無く………」

 僅かなやり取りの後、若に白兎は、用心棒に宿の問題を明かした。

 関ヶ原の戦以後、お取り潰しに在った諸藩著しく、浪人者の無頼な所作は、国を騒がした。

 木賃、旅籠問わず、元武士などという輩の中には、過去の栄光捨てられぬ者も多く、宿の前では、数人の浪人者がなにやらと騒いでいた。

「待ち合わせが無くてなぁ………すまぬが、つけて置いてくれまいか?」

 昨日の野良犬と同じく、困り顔の宿の女中。

「あの、申し訳無く存じます……ですが、つけ等という事は………」

 この時、女中は我が身を呪っていた。

 朝、真面目に勤め、水くみから一切をこなし、いつもの日常を送れると信じていたにも関わらず、今の彼女は、厳めしい浪人に囲まれている。

 恐れから、必死に番頭の方を見るが、狸の番頭はと云えば、知らぬ存ぜぬ顔にて、そっぽを向いていた。

 唇を噛むのは、昨夜羆之守と月野を部屋に案内した狐女中である。

 ただ、彼女が望んだ救いの手は、毛深く、斑の毛が覆っていた。

「………問題が在ったと、聞いたが?」

 体格著しい羆之守。

 相手からすれば、酷く恐ろしいが、反面、宿の者からすれば、かの老羆実に頼もしく映る。

「な……なんだ、貴様は!?」

 声を張り上げた浪人が、腰の柄に手を伸ばした瞬間、羆之守の右肉球は、相手の柄頭を抑え、空いた左肉球は、素早く、浪人の顎を捉えていた。

 先に剣に手を掛けた以上、その者は殺されたとて、文句は言えないだろう。

 即死である。

 羆之守の咄嗟の平手打ちは、容易く浪人の首を、容易く捻っていた。

 殺す気で打ったつもりは、老羆には無い。

 だが、山にいた頃、若き熊を始終教える為にと、この老羆もまた、鍛錬を怠っては居なかった。

 寧ろ、毎日毎晩、熊之介と木刀を交えた羆之守の体躯は、若かりし日に幾分かは落ちたとて、決して見劣りするものではない。

「た、助けを……い、命ばかりは…………何卒…………」 

 ドタリと倒れる浪人に、その仲間も、平身低頭で詫びる。

 溜め息を吐く羆之守は、修行が足りぬと、自らの行いを悔いるが、そんな難しい顔で肉球を見る老羆に、白兎と女中の目は注がれていた。

 

 急遽、駆けつけた役人に引き渡される浪人ではあるが、哀れにも彼らの腰には差料はない。

 宿の代金を払えぬ以上、対価として大小二つを奪われる。

 武士としての命すら失った彼等の行く末には、未来は無いだろう。

 

 熊之介の帰りについては、羆之守は頓着してはいない。

 女を知らぬ若熊が、僅かの間それに溺れたとて、無理もないと、弟子の事を考えて師は微笑んでいた。

 剣に生きるべき者が、他の事に溺れるという事に関して云えば、老羆は大した念が在るわけでもない。

 熊之介の技量に関しては、【手加減】が出来ない、という事を除けば、印可を授けた羆之守が重々承知している。

 ただ、影の太刀に関しては、教えてはいない。

 見せてはいるが、だからといって、おいそれと体得出来ないのは、羆之守が熟知していた。

 彼にしても、長年の研鑽の結果として、その身に【新月閃】を閃いてはいるが、ようとして、肝心の部分に付いては、羆之守は熊之介に伝授すべきかを悩んでいた。

 難しいモノではないが、口で言っても、説明が出来るとも限らない。

 仮に、口笛が吹けない者に、こう吹けと教えても、簡単には出来ないだろう。

 文字で書こうにも、体得せねば意味が無く、だからこそ、羆之守は熊之介に対して、【満月剣】のみを教え続けた。

 どうしたものかと、悩む羆之守。

 その黙想は、日が落ちる迄、ひたすらに続けられていた。

 弟子が居なくとも、特に問題はない。

 若き熊之介の事である。

 山野を駆け回る若き熊の体力は、町の者とは比較にするのも馬鹿らしいだろう。

 その事を考えてか、羆之守は、弟子を預けてしまった小夜を思い、苦く笑っていた。 

 かの娘には、悪いことをしたな、と。 

「失礼致しまする」

 低めではあるが、どこか艶めかしい声に、羆之守は其方を振り向けば、朝手を貸した女中が居た。 

 脇に控える様に置かれている盆から、夕餉の支度が垣間見える。

 もう、そんな時間かと、羆之守は外を見るが、落ち掛けた日にもかかわらず、弟子の姿は、宿の部屋には無かった。

「忝く……」

 そんな羆之守の声に女中もまた、しずしずと盆を手に部屋へと入る訳だが、羆之守は、自分の見識を疑った。

 女中であれば、一々盆を客の前に運ぶ必用はない。

 ソッと預けて、他の部屋へと回り仕事をこなす。

 それが普通である。

 が、この時、女中が持つ盆には、何本もの徳利が見えていた。

「酒は……頼んではいないが?」

 そう言う羆之守に、細目の女中は、柔らかく、笑う。

「これは、御礼に御座います」

「作用に……」

 頭をすっと下げる女中に、羆之守は言葉に詰まった。

 それは、名を知らぬ故だが、敢えて女中や、女といった敬称を、老羆は避けていた。

 ハタと気づいた女中は、頭を下げたまま、「楓に御座います」と、静かに名乗る。 


 三十を数えるかどうかの女中、楓ではあるが、かの狐女は、未婚である。

 勿論、祝言をあげたことが無いかと問われれば、そうではない。

 若くして、彼女の夫は、偶々朝の出来事の様な時、あっさりと命を落としてしまった。

 その時の下手人に関しては、今の宿の主の侠客敵だが、在る意味、運が悪かったと言えよう。

 町人が、そういった事故事件に巻き込まれ、簡単に命を落とすといった事は、日常茶飯事。

 現代であれば、整った司法制度がそれを許しはしないだろうが、そんな留めが無ければ、実情は酷いの一言である。

 楓の礼という声に、羆之守は静かに頷く。

 他者の礼を無碍に返すは、失礼でしかない。

「楓殿…………どうか、頭を御上げに成ってくだされ……」

 そう言う老羆の声に、女狐は頭をあげるが、其処には、厳めしい見た目とは裏腹に、柔らかく笑う老羆が居た。

 

 熊之介と小夜とは違い、羆と狐の間に、口数は少ない。

 ただ、専ら問われたのは、羆之守の過去。

 特に隠すことでも無いからか、羆之守は、蝦夷地より生まれ落ちて、この上野の国に辿り着く迄の間に加え、若き弟子との日々を口で綴った。

 この時の老羆は、人見知りが嘘の如く実に饒舌であった。

 それを聞いていた楓は、面白そうに微笑んでいた。

 浪人者や、侠客と話した事がないわけではない。 

 だが、専ら彼等の話と云えば、士官や庭場の云々であり、それを聞いた楓にしても、対して面白みは見えなかった。

 銭金に疎いわけではない。

 しかし、ただ金金金ではと、それを聞いた所で、楓の耳はパタンと閉じるのみだが、意外な程に老羆の話には、彼女の形の良い耳は嬉しげにピクピクと揺れていた。

 

 語り終えた羆之守は、ハッと気づき、楓を見た。

「相すまぬ………無骨な田舎者の戯れ言故……許されたく………」

 そう言う老羆の態度は、剣客とはかけ離れたモノがある。

 本人も気付かぬ内に、若き熊と対話を繰り返した老羆の言葉は、随分と柔らかくなっていた。

 羆之守の声に、楓は、ゆったりと首を横へ振る。

「かような話し、なかなかに面白う御座いますよ……爲右衛門様…………」

 そう言って、徳利を持ち上げる楓に、羆之守は、杯をソッと差し出していた。

 

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