旅籠
宿に一人帰り着いた老羆は、更なる一計を画策していた。
何らかの方法にて、若き弟子に職を世話せねば、如何に女人とて、一緒に居るというのは無理がある。
無論、女に食わせて貰っている不埒な輩が、居ないわけではないが、あの純朴な若熊に、それが出来るとも思えない。
禄を取れる身分ではない浪人では、用心棒か、口入れ屋という、現在で云う人材派遣を頼らねばならないだろう。
確かに、剣を捨ててそういった道も在るが、それについては、羆之守は最後の手段として、既に頭からは排している。
此処に来て、自身の伝手の無さに、羆之守は唸った。
どれだけ剣技に優れようとも、それは、泰平の世では余りに儚い。
弁が立つのであれば、或いは話し違えども、だからといって、推挙を望めるような相手も居らず、羆之守は、用意された布団に潜りつつ、頭を悩ませていた。
日も明けた、次の日の朝の事である。
「もし……お侍様」
そんな、青年らしからぬ高め声に、ハタと目を覚ました羆之守はムゥンと唸る。
急ぎ身を起こす羆之守は、隣にて敷かれた布団には、一切の乱れなく、弟子が帰って来てはいないという事を確認してか、僅かに微笑んでいた。
急ぎ着替え、脇差しのみを腰に帯びた羆之守が襖を開けたところでは、白い毛も眩しい若兎の青年、兎乃助が居た。
頭を下げて見せるかの白兎。
その彼の様子から、尋常ではないという事を悟った羆之守は、フゥと乾き気味の鼻から息を吐いた。
「何か、在ったのかね?」
「へぇ……先生には、早速の所と申し訳無く………」
僅かなやり取りの後、若に白兎は、用心棒に宿の問題を明かした。
関ヶ原の戦以後、お取り潰しに在った諸藩著しく、浪人者の無頼な所作は、国を騒がした。
木賃、旅籠問わず、元武士などという輩の中には、過去の栄光捨てられぬ者も多く、宿の前では、数人の浪人者がなにやらと騒いでいた。
「待ち合わせが無くてなぁ………すまぬが、つけて置いてくれまいか?」
昨日の野良犬と同じく、困り顔の宿の女中。
「あの、申し訳無く存じます……ですが、つけ等という事は………」
この時、女中は我が身を呪っていた。
朝、真面目に勤め、水くみから一切をこなし、いつもの日常を送れると信じていたにも関わらず、今の彼女は、厳めしい浪人に囲まれている。
恐れから、必死に番頭の方を見るが、狸の番頭はと云えば、知らぬ存ぜぬ顔にて、そっぽを向いていた。
唇を噛むのは、昨夜羆之守と月野を部屋に案内した狐女中である。
ただ、彼女が望んだ救いの手は、毛深く、斑の毛が覆っていた。
「………問題が在ったと、聞いたが?」
体格著しい羆之守。
相手からすれば、酷く恐ろしいが、反面、宿の者からすれば、かの老羆実に頼もしく映る。
「な……なんだ、貴様は!?」
声を張り上げた浪人が、腰の柄に手を伸ばした瞬間、羆之守の右肉球は、相手の柄頭を抑え、空いた左肉球は、素早く、浪人の顎を捉えていた。
先に剣に手を掛けた以上、その者は殺されたとて、文句は言えないだろう。
即死である。
羆之守の咄嗟の平手打ちは、容易く浪人の首を、容易く捻っていた。
殺す気で打ったつもりは、老羆には無い。
だが、山にいた頃、若き熊を始終教える為にと、この老羆もまた、鍛錬を怠っては居なかった。
寧ろ、毎日毎晩、熊之介と木刀を交えた羆之守の体躯は、若かりし日に幾分かは落ちたとて、決して見劣りするものではない。
「た、助けを……い、命ばかりは…………何卒…………」
ドタリと倒れる浪人に、その仲間も、平身低頭で詫びる。
溜め息を吐く羆之守は、修行が足りぬと、自らの行いを悔いるが、そんな難しい顔で肉球を見る老羆に、白兎と女中の目は注がれていた。
急遽、駆けつけた役人に引き渡される浪人ではあるが、哀れにも彼らの腰には差料はない。
宿の代金を払えぬ以上、対価として大小二つを奪われる。
武士としての命すら失った彼等の行く末には、未来は無いだろう。
熊之介の帰りについては、羆之守は頓着してはいない。
女を知らぬ若熊が、僅かの間それに溺れたとて、無理もないと、弟子の事を考えて師は微笑んでいた。
剣に生きるべき者が、他の事に溺れるという事に関して云えば、老羆は大した念が在るわけでもない。
熊之介の技量に関しては、【手加減】が出来ない、という事を除けば、印可を授けた羆之守が重々承知している。
ただ、影の太刀に関しては、教えてはいない。
見せてはいるが、だからといって、おいそれと体得出来ないのは、羆之守が熟知していた。
彼にしても、長年の研鑽の結果として、その身に【新月閃】を閃いてはいるが、ようとして、肝心の部分に付いては、羆之守は熊之介に伝授すべきかを悩んでいた。
難しいモノではないが、口で言っても、説明が出来るとも限らない。
仮に、口笛が吹けない者に、こう吹けと教えても、簡単には出来ないだろう。
文字で書こうにも、体得せねば意味が無く、だからこそ、羆之守は熊之介に対して、【満月剣】のみを教え続けた。
どうしたものかと、悩む羆之守。
その黙想は、日が落ちる迄、ひたすらに続けられていた。
弟子が居なくとも、特に問題はない。
若き熊之介の事である。
山野を駆け回る若き熊の体力は、町の者とは比較にするのも馬鹿らしいだろう。
その事を考えてか、羆之守は、弟子を預けてしまった小夜を思い、苦く笑っていた。
かの娘には、悪いことをしたな、と。
「失礼致しまする」
低めではあるが、どこか艶めかしい声に、羆之守は其方を振り向けば、朝手を貸した女中が居た。
脇に控える様に置かれている盆から、夕餉の支度が垣間見える。
もう、そんな時間かと、羆之守は外を見るが、落ち掛けた日にもかかわらず、弟子の姿は、宿の部屋には無かった。
「忝く……」
そんな羆之守の声に女中もまた、しずしずと盆を手に部屋へと入る訳だが、羆之守は、自分の見識を疑った。
女中であれば、一々盆を客の前に運ぶ必用はない。
ソッと預けて、他の部屋へと回り仕事をこなす。
それが普通である。
が、この時、女中が持つ盆には、何本もの徳利が見えていた。
「酒は……頼んではいないが?」
そう言う羆之守に、細目の女中は、柔らかく、笑う。
「これは、御礼に御座います」
「作用に……」
頭をすっと下げる女中に、羆之守は言葉に詰まった。
それは、名を知らぬ故だが、敢えて女中や、女といった敬称を、老羆は避けていた。
ハタと気づいた女中は、頭を下げたまま、「楓に御座います」と、静かに名乗る。
三十を数えるかどうかの女中、楓ではあるが、かの狐女は、未婚である。
勿論、祝言をあげたことが無いかと問われれば、そうではない。
若くして、彼女の夫は、偶々朝の出来事の様な時、あっさりと命を落としてしまった。
その時の下手人に関しては、今の宿の主の侠客敵だが、在る意味、運が悪かったと言えよう。
町人が、そういった事故事件に巻き込まれ、簡単に命を落とすといった事は、日常茶飯事。
現代であれば、整った司法制度がそれを許しはしないだろうが、そんな留めが無ければ、実情は酷いの一言である。
楓の礼という声に、羆之守は静かに頷く。
他者の礼を無碍に返すは、失礼でしかない。
「楓殿…………どうか、頭を御上げに成ってくだされ……」
そう言う老羆の声に、女狐は頭をあげるが、其処には、厳めしい見た目とは裏腹に、柔らかく笑う老羆が居た。
熊之介と小夜とは違い、羆と狐の間に、口数は少ない。
ただ、専ら問われたのは、羆之守の過去。
特に隠すことでも無いからか、羆之守は、蝦夷地より生まれ落ちて、この上野の国に辿り着く迄の間に加え、若き弟子との日々を口で綴った。
この時の老羆は、人見知りが嘘の如く実に饒舌であった。
それを聞いていた楓は、面白そうに微笑んでいた。
浪人者や、侠客と話した事がないわけではない。
だが、専ら彼等の話と云えば、士官や庭場の云々であり、それを聞いた楓にしても、対して面白みは見えなかった。
銭金に疎いわけではない。
しかし、ただ金金金ではと、それを聞いた所で、楓の耳はパタンと閉じるのみだが、意外な程に老羆の話には、彼女の形の良い耳は嬉しげにピクピクと揺れていた。
語り終えた羆之守は、ハッと気づき、楓を見た。
「相すまぬ………無骨な田舎者の戯れ言故……許されたく………」
そう言う老羆の態度は、剣客とはかけ離れたモノがある。
本人も気付かぬ内に、若き熊と対話を繰り返した老羆の言葉は、随分と柔らかくなっていた。
羆之守の声に、楓は、ゆったりと首を横へ振る。
「かような話し、なかなかに面白う御座いますよ……爲右衛門様…………」
そう言って、徳利を持ち上げる楓に、羆之守は、杯をソッと差し出していた。




