夕暮れ時
日が沈む夕暮れ時。
枯れ草に、新しい命が宿る荒野に、それを、ジャリと踏みつける足は二つ。
片方の浪人は、洗い晒しなのか、綻びた着物に、色褪せた袴といった、如何にも浪人風情であり、その黒い毛並みに、胸元から覗く白い毛並みの雄は、その出で立ちに似合わぬ、三日月の如く反り深い太刀を腰に帯びている。
対主たる男は、ピッチリと仕立て上げられた黒檀の如き羽織り袴に、夕暮れにも目立つ白い毛並み、そして、その腰には、常よりも長き大小二つを腰に指していた。
「久しいな…………兎之助…………」
「今は…………白兎新月斉である…………」
額に、三日月型の傷が在る浪人の声に、新月斉と名乗る兎侍は、真っ白く、長い耳を風に靡かせた。
「貴様も…しつこい男だ………いつまでも俺に付きまとうな…月野…」
「……戯れ言を……貴様が、お前が師匠を殺したのだろうが!?」
新月斉の言葉に、激高したのか、月野の呼ばれた熊浪人は、荒野に響くほどの野太い咆哮を発した。
丸耳をビリビリとさせながら、熊浪人は、ヌラリと油の引かれた太刀を、ゆったりと鞘から引き抜く。
「……ほぅ?……備前長船月光……師匠……いや、あの爺の太刀か……熊之介殿?」
クックッと笑うと、新月斉は、徐に腰の太刀に手を置き、鯉口を切った。
だが、決して刀を抜こうとはせず、そのままに腰を僅かに落とすのみ。
そんな、新月斉に、熊之介と呼ばれた浪人は、丸い耳と突き出す鼻をヒクヒクと動かして警戒を示した。
「……籠釣瓶新月…その太刀…返して貰うぞ……兎之助……」
間合いを悟らせない脇構えの熊之介。
居合いにて、同じく間合いを殺す新月斉。
この兎侍と熊浪人は、かつて、同門の士である。
関ヶ原の戦いの後、加藤嘉明が捉えられたのは、寛永四年、西暦にして千六百七年で在るが、何も、すべての剣客が、天下分け目の大戦に参画した訳ではない。
かの剣豪、伊藤一刀斉もまた、そんな戦には全く気をむけなかった様に、上州の国にも、剣豪は居た。
上州は今で云う、群馬県だが、過去には間庭の樋口や、上泉といった剣豪を排出している。
そして、この地のひっそりとした山奥にて、蝦夷地より渡ったという異風の剣客、羆之守爲右衛門という剣客在りき。
蝦夷の神秘と唄われた、羆之守の技法は、其れを見た民草の度肝を抜いた。
満ち欠けを繰り返す月に、秘訣を得たという羆之守の太刀筋は、二つ。
【真ん丸に輝く満月と、闇夜に隠れる新月】
そんな二つの技を持つ爲右衛門だが、言葉が少なく、有り体に言えば、無口であり、生半に人に溶け込めないからか、その剣を生かす術が無かった。
だが、ある日の事である。
爲右衛門の元に、弟子入り志願の若者が現れた。
「お願いです御座います!……どうか……俺に剣を!」
そう言って、唐突に荒ら屋のボロボロの床に頭を擦り付ける若者。
只でさえ、人見知りの爲右衛門である。
見ず知らずの若者の姿に、大柄な体格揺らし、困っていた。
「……そなたは……何故に剣を?」
野太い爲右衛門の声に、若熊は、頭を上げた。
「……俺……体を使う以外に……取り柄が無くて……お願いします!」
無作法としか云いようがない若熊の姿に、羆之守もまた、自身の若い頃を思い描く。
目の前に平伏する熊の如く、若い頃の爲右衛門は、冬の最中にも関わらず、川に居た。
産卵の為にと、登りくる鮭を、彼は、その毛深い肉球の一撃で、あっさりと採って見せる。
だが、この時、若い爲右衛門は、同族の羆から、酷く罵られてしまう。
「貴様!! かように妄りに鮭を捕らえて、何とする!!」
羆一族の長老は、若き日の爲右衛門を、そう詰った。
爲右衛門は、何故だと云う顔をしたが、それも、無理はない。
遡上する筈の鮭は、爲五衛門の肉球に因って、尽くが陸に打ち上げられてしまっていた。
そんな、自分の若き日を思い描いた羆之守は、頭を床に擦り付ける若熊の肩を、ソッと持ち上げた。
期待に綻ぶ若き熊之介だが、次の瞬間、彼は、はり倒されてしまう。
ジリジリと、痛みと痺れを訴える頬に、肉球を当てる熊之介だが、そんな彼を見下ろす羆之守は、グルルと唸った。
「分かったか? 今、お前は死んだのだ………師と弟子の盟約も無く、お前は、私の前に跪いた………それは死んだも同然…」
そう言うと、慌てる熊之介に構わず、羆之守は、荒ら屋の奥へと引っ込んでしまった。
羆之守にしても、何も悪さをしていない若熊を、悪戯に叩いた訳ではない。
剣に、生き死にの狭間に生き様とする者が、容易く自分の前に、首という急所を晒した事が、爲右衛門に躊躇を促してしまう。
自身が、疎まれ、【痩せ侍】と揶揄されて居るのは、羆之守にしても、知っている。
だが、なればこそ、未来在る若熊を、自分の様な刹那の狭間に置くことを、彼は拒んでしまっていた。
だが、羆之守が、ふと荒ら屋を出ると、其処には、手を付いたままの若熊。
それを見た羆之守は、我の昔を、思わず想い出す。
【鮭捕り過ぎ】にて、一族から放逐されてしまった自分。
過去の羆之守もまた、独り空を仰ぎ、自らの剣を開眼した。
だが、その孤独足るや、筆舌に尽くしがたく、羆之守は、瞑目してしまう。
「これから…………飯にするが、お前はどうする?」
そんな、羆之守の言葉に、若き熊之介は、ハタと顔を上げる。
農家の出である熊之介からすれば、師と仰ぐ逞しい熊は、酷く頼もしく映っていた。
干し魚を解したモノを混ぜた麦の雑炊を、熊之介は、さも旨そうに腹に納める。
藩士ですらない羆之守には、禄など殆ど無く、悪く言えば、物乞いか、乞食に等しい。
だが、妻を娶らず、ただ一人剣に狂った羆之守に、若き熊は何故だか実に眩しく映っていた。
必死に雑炊を貪る若熊に、羆之守は、グルと低く、鼻を鳴らした。
「して、若者よ…………何故に剣を?」
静かではあるが、実に穏やかな老羆の声に、若熊は、途端に箸を止め、手の茶碗を、板の間の床に下ろした。
「……強く……成りたいからです」そんな若熊の声に、老羆は、ムゥと唸ると、「では、何故に強く……なりたいと?……」と、静かに問い掛けた。
羆之守の質問に、若熊は、自身を熊之介と名乗った。
関ヶ原の戦い以降、天下はある程度の安定を見せたとは言え、やはり、諸藩には浪人や野武士、盗賊が多くなってしまう。
そして、熊之介もまた、そんな輩に家族を奪われた一人である。
若熊の数奇な熊生に、老羆の喉は、悲しげにグルルと唸った。
「よかろう……好きにいたせ……」そんな、羆之守の了承の返事に、熊之介は、ハッと顔を上げ、「あ、有り難きお言葉」と、平伏した。
今や、師と弟子の老羆と若熊。
今度と、羆之守は熊之介を起こすが、またはり倒されるのかと、ビクビクしていた熊之介の目には、厳めしい顔に似合わず、実に柔らかく笑う老羆が映っていた。