彼女なしでは生きていけない
「セレスさまは良いお方だ」
目の前でそう言ってやると、殺気に近いものを向けられる。
こわいこわい、彼女が絡むと暴君だ。
カルヴィシドを睨んでいる、彼の名前はラージュという。ムダに長い名前もついていたけれど本人が名乗らないので、カルヴィシドは知らない。彼女にとっても彼はラージュでしかないのだろうが、カルヴィシドからしてもこの薄い金色の髪を持つ青年は『ラージュ』なのだ。
女性でも羨む色彩の髪を長く伸ばし、今は適当にまとめているが、夜会などでは丁寧に整えて人々の視線を集めている。服は普段着はラフなものを好み、今も上着類は着ていない。
夜会ならともかく、仕事中に着飾ってどうする、というのが彼の意見だ。
――いいたくないけど、似てるなぁ。
彼女と、と腹の底で思いつつ、見慣れた顔と眼光を眺めた。
カルヴィシドは、この男に長く仕えた魔術師だ。
友人、と名乗っていいと思う。
一応敬語を使うがたまにタメ口になってしまうけど怒られないし、ラージュ自身もかなり砕けた口調で話しかけてくるので、きっと友人という立場であるのは間違いないはずだ。
セレスを城に連れてくるよう言い出した時も、事前に話を聞かされていた。表向きは何かするんじゃないかとか、そういう事態を危惧した結果ということになっているけれど、違う。
結局、この孤独な王様は――手放せなかっただけなのだ。
過去を捨てられなかったのだ。
幼いころの二人は、仲が良かったのだという。きょうだいとして育ち、養母を二人で見送って慎ましく暮らしていたと。どっちが姉でも兄でもなく、二人っきりで生きてきた。
それが壊れて、だけどラージュは捨てられなかった。
自分は捨てられてしまったのに、彼女をどうしても捨てられなかった。
執着、愛情、恋慕、思慕……はて、どう言い表す感情なのか。
カルヴィシドにはわからない。このままがずっと続くはずがないのに、それでもこのままを望んでいる二人の先も、世界を見通す眼は予言を叶えるものではないから見えてこない。
「ああいうのが好きなの、カルヴィシド」
「聡明なお方ですからね」
「……ふぅん」
もっともあなたの前では、あなたの嫌いな女を演じておられますが、とは言わない。
聡明だと褒められ、自分のことのように嬉しいと思っていることも指摘しない。
個人的に、カルヴィシドはセレスという少女を好ましく思っている。
とはいえ恋愛感情ではなく、ある種の尊敬に近い感情だ。
その気高さを好いている。
凛とした立ち振舞を、まっすぐな心を。
だからこそ、カルヴィシドそれを傷つけるようなことは言わない。彼女が彼に見せているもの以外があるのだということを、彼に悟られないように言葉を一つ一つ選んでいく。
彼女が気づいているかは定かではないが、ここでの生活でラージュは、いろんなものを失って奪われて傷ついた。そしてその度に、懐かしい故郷と、大事な人を求めて泣いた。
叶わない願い。
届かない声。
求めても求めても得られない、という渇望。
次第に思慕は、深い憎しみへと変わっていった。
それは八つ当たりでしかないけれど、だからといって止まるものでもなかった。そうするにはあまりにも彼は孤独だった、寂しかった、悲しかった。――ひとりぼっちだったのだ。
自分はセレスに捨てられてしまった、見捨てられて、忘れられてしまった。こんなに苦しくて寂しいのに来てくれない、最初の時に一緒にいくと言ってすらくれなかった。酷い酷い。
もう僕はいらない子だ、いらない子なんだ。セレスは僕が嫌いなんだ。
いなくなって清々したと思ってるんだ、そうなんだ。
ずっと一緒だったのに、僕を一人にした。
セレスだけが、優しい故郷で生きているなんて許せない。なんでセレスだけが、何も変わらない生活を送っているんだ。僕はこんなに大変で、弱音一つ吐き出せないのに、どうして!
渦を巻く感情は、数年前に静かに爆発。
彼女は囚われ閉じ込められ、意味もなく虐げられて、悪意を向けられて。
「いっそ、泣けばよかったのですかねぇ」
「……なんのこと」
「あの方が、あなたの前で詫びて、泣いて、なんでもするとか、そういうことを言えば。そうすればまた違った未来があったのかと……そんなことを、少し思っただけですよ」
「……そんなこと、あのセレスがするはずがない。媚を売って、うっとしいだけだ」
もはやセレスの話題を出すことすら疎ましい、と言わんばかりの態度。
ラージュにとってのセレスとは、いつの間にか彼が嫌いな女へと成長した憎い相手。はしたない目つきをして、媚びを売るような顔をして、自分に取り入ろうとするふしだらな女。
……もちろん、それは演技でしか無いのだけれど。
そして、彼女が泣いて詫びるなんてことは、きっとしないのだろうけど。
かつて女王だった彼女は、高潔でいて、勇ましい。そんなことを言う前に、潔く己の首を掻っ切るような人だ。睨まれても疎まれても、逃げない心の強さがある。
きっと、泣き方を忘れたのだろうと、カルヴィシドは思った。
そんな余裕もないまま、女王だった彼女は必死に生きてきたのだろう、と。
ラージュは弱さを抱えたまま、そのはけ口を探してセレスに押し付け強さを得た。
セレスは弱さを強さで押し殺して、その礎にラージュを置いて縋り付いた。
あぁ、面倒なことだ。面倒な、ことだ。結局どちらも、相手を理由に君主の道を歩いているというのに、方向性が違うだけで二人は同じようなものなのに。
ため息を数回に分けて飲み込んでいると、不意にラージュが立ち上がる。
「どちらへ?」
「資料庫」
短い応答の後。
「……僕より彼女といっしょにいたいなら、好きにすればいいよ。いきなり彼女の話題を振ってきたのって、つまりそういう相談だろう? 僕は止めない、手続きは自分でやっといて」
吐き捨てるように言って、ラージュは去っていく。ぞろぞろと兵士やらが取り囲み、今日も賑やかに団体移動だ。一礼して見送って、扉を閉じたカルヴィシドは首を軽く横に降った。
「無意味な抵抗、見え透いた児戯……君はどの世界でも、度し難い愚か者だな」
嘆くような声は誰にも聞こえない。
聞こえたところで……きっと、誰も意味を理解しない。
「どう言い繕っても、虚飾を並べ虚像を見せても、無駄なことだよラージュ」
そのつよがりは強さにならない。
虚飾は偽り、虚像は幻。
存在しないものを、存在するように見せかけるという滑稽さ。
あの青年は、いかなる世界でも彼女を求める。求め、愛し、喪失を忌避して。背を向けて去っていったその身の内に渦巻く感情を、カルヴィシドは『寂しい』『恋しい』と呼んだ。
側にいないと不安。
一日に一回は会わないと耐えられない。たとえ会話がなくても、食い入るようにその姿を目に焼き付けられたらそれでいい。……きっと、本人にそんなつもりも、自覚もないだろうが。
そこから、するりと導ける単純な結論は。
「君はさ、彼女なしでは――」
カルヴィシドが言いかけた声は、飲み込まれたように途中で消えた。
■ □ ■
女王セレスフィーナが即位した、よく似た別の世界がある。
その世界のカルヴィシドは、反乱軍の参謀を務めた。この世界では王になった彼を祭りあげて戦わせた。そして女王は死んだ、彼が殺した。英雄の誕生、あぁ、なんてすばらしい。
その青年は聡明で、とても好感を抱ける人物だった。
彼を旗印にした反乱軍だから、面倒そうだと思いつつも手を化したのだ。
女王は死んだ。よく知らない女王だったが、彼が殺した。素晴らしいハッピーエンド、清々しいお仕事。カルヴィシドは満足したし、気が向いたから青年に仕えようと思った、のに。
だけど、一人の女が――全部、壊した。
レメイナとかいう男爵令嬢、だった女は、女王の遺言を聞いていた。
それは書類にするまでもない、彼女個人の些細な願い。
「女王陛下はおっしゃいました――この箱を、自分と共に墓に入れてほしいと」
ボロボロの箱。おもちゃのような小箱。
どこかの世界には『パンドラの箱』というものがあるという。絶望だらけの中身の、一番底に希望があるという変な箱だ。誰得か。……だけど、それは希望があると言われるだけマシ。
そのオンナが持ってきた箱に、希望なんてなかったのだ。
茶色く変色した花、草をあんで作った指輪。
子供が遊びで作ったようなものが、たくさん詰まったその箱。
それがカルヴィシドの『英雄』を殺してしまった。
「……いや、もともと壊れていたんだ」
あの世界のカルヴィシドはわかっていない、だけどこの世界のカルヴィシドはわかる。彼女を殺した段階で、あの世界の彼はもう死んだも同然だった。息をしているだけ、それだけだ。
それでもカルヴィシドは気づかない。
彼にとって、どれだけあの女王の存在が大きかったのかわかっていない。余計なことをしたと女を叱りつけて箱を叩き壊そうとして、それを彼が必死に止めてもなお気付かなかった。
心の支えだったのだ。
彼女の存在だけが、その生命をつないでいた。
例えば彼女が箱を持っていなくても、あるいは女王の遺言がなくても。
カルヴィシドの英雄は、そう遠くない未来に死んでいた。
それは、彼女が死んだ瞬間に定められた、言うならば『運命』。
箱と遺言の存在を知った次の日、カルヴィシドが彼を起こしに行くと、その姿は部屋のどこにもなかった。すぐさま魔術を使って探したけれど、意外な場所で見つけた時にはもう……。
彼は、眠っていた。
埋葬前の女王の棺に寄りかかって、その腕にあの小さな箱を強く抱きしめて。派手ではなく珍しくもない、女王の棺に備えるにはあまりにも質素な、とても庶民的な花を供えて。
悲しそうだけど、どこか嬉しそうに。
薄く微笑んで、眠っていた。
あれは別の世界のお話だから、この世界には関係ないはずだったのに。革命とか、そんな面倒なことはなしに彼が王になっていて、都合がいいとすら思って、笑っていたというのに。
やっぱり彼の側に彼女はいなくて、だけど近くにいるのだ。
触れられるけど触れられない距離に佇んで、いつでも死んでいいと笑う。残酷な人だ。世界のすべてを知っているような顔をして、だけど本当に大事なことは何も知らない。
「あーあ、実に面倒なことだ」
王の部屋をでて、自室に戻る道のり。
カルヴィシドは空を仰ぐ。
「あの少女がいなければ、生きていくことすらできなくせに。彼女がいなければ、生きる理由すらないくせに。手を出す勇気もないくせに、手を出して嫌われる覚悟もないくせに。手放すことも忘れることもできないくせに。囲って閉じ込めていても、少しも満足できないくせに」
そこまでするほどの、強い強い感情に、どうして気付かなかったのか。
自分はどうして、あの世界のカルヴィシドはどうして。
セレスフィーナと名を変えた女王を、セレスと呼ぶ彼の心に気づかなかったのか。二人分の後悔を抱いた魔術師は、今も夢に見る絶望と慟哭を思い出して、少しだけ目元を拭いながら。
「今度こそ……この世界だけでもちゃんとしないと、またあの子に泣かれて怒られる」
あの世界のカルヴィシドは、きっと寂れた辺境に足繁く通っている。一人の少女と、一人の青年が眠る墓碑を守る少女を訪ねて、その死を悼み、後悔を胸に刻みながら。
その指先は、墓守を務める少女の涙を拭っているのだ。