カルヴィシドは知っている
「こうしてお会いするのは初めてですね――セレスフィーナ女王陛下」
異国の衣服を着たその男は。
この世界にはいない、一人の女王の名を告げた。
■ □ ■
いつものように目を覚まし、いつもの様に読書と食事をするだけの時間。
そこに変化をもたらしたのは、珍しい役職を持つ来客だった。
「宮廷魔術師さま、ですか?」
「そう。セレスさまに是非お目通りを願いたい」
「えっと、少々お待ちくださいまし」
扉の向こうでそんな会話が聞こえ、私は書物から目を離す。
珍しい、宮廷魔術師といえば国王直属の存在だ。身内でもない愛妾ごときに、何の用事があるというのだろうか。私が寵愛されているならともかく、見ての通りの穀潰しだというのに。
それとも、それを承知で居座るバカを、見物しに来たのだろうか。
あぁ、面倒なことだ。
しかし追い返すわけにもいかないので、レメイナには部屋へ通すように伝えた。
現れたのは、この国の文化圏とはかなり異なる文化を持つ国の民族衣装を着た男だった。
手元を隠すほど長い袖に、身体の前で重ねるようにして身体に巻き、腰の位置でヒモのようなものを巻きつけて固定する変わった意匠の服。模様はすべて刺繍、という派手さ。
女王だった頃、ある国の国王夫妻がやってきたが、奥方の方が身につけていた民族衣装に近いものがある。というか国王の方とだいぶ違う。もしやこれ、女性用を着ているのか?
「はじめまして。できればお人払いをしていただけると……幸い、かと」
一礼して、微笑んでいる男。
扉の側に立ったままのレメイナは、警戒心を露わにこちらを見ている。
私は少し悩み。
「レメイナ、少し席を外してくださらないかしら」
「え、でも」
「平気よ、わたくし、だから」
いざとなったらねじ伏せるだけの体力はある、と声にせず伝えれば、廊下にいます、と言い残して部屋を出て行ってくれた。これでよろしかったかしら、と笑えば、向こうも笑う。
男は、魔術師カルヴィシドと名乗った。闇のような黒を髪に流し込んだ、何故かにやりと笑う変な男だ。年齢は私より上、二十代半ばといったところだろうか。ついでに言うと細い。
木刀で殴りかかったら、五発あれば余裕で殺せそうだ。
……まぁ、相手は魔術師、手は出さないが。
「ありがとうございます」
カルヴィシドは笑っている。
不気味だ。そう思って警戒心を強めた瞬間だった。
彼が私を――セレスフィーナ女王陛下、と呼んだのは。
それは、私が即位した時に付けられた名前。ただのセレスでは箔が付かないと、勝手に名前を変えられたのだ。愛称はそのままだから、というのは慰めになったが、よく考えれば誰も読んでくれない愛称に何の価値が有るのだろうか。……子供過ぎたな、あの頃の私は。
問題は、なぜこの男がセレスフィーナの名前を知っているのか、という一点。
そっと取り出した扇で口元を隠すようにし、私は笑う。
「女王陛下だなんて、そんな恐れ多いですわ……それにわたくし、セレスフィーナ、なんて立派な名前ではありませんの、セレスです。わたくしはただのセレス。お見知り置きを」
「……いえいえ、貴女はそうでしょう? セレスフィーナ女王陛下」
にこにこ、と男は笑っている。
どうやらカルヴィシドというこの男、意地でも私をそう呼びたいらしい。セレスフィーナという名前に意味があることを、自分はちゃんと知っているんだ、とでも言いたいのだろうか。
私は、小さく息を吐き出して。
「――何の用だ貴様、なぜ私のことを知っている」
睨むようにその、鮮やかな青い瞳を見た。
あぁ、レメイナを外に出しておいてよかった。私と彼のどちらかが先王の遺児と思われたということは、いつのまにか広く知られていたわけだが、それでも女王と呼ばれるのはまずい。
必要以上に大騒ぎになるだろうし、彼の耳にも入るかもしれない。
……面倒事は、嫌いだ。
そんな私のため息も気にしない様子で、男――カルヴィシドは笑っている。
「なんでも知っていますよ、だって『世界を見通す眼』を持ちますので」
「世界を、見通す?」
「えぇ、ここではない世界を見ることができます。それは理からしてまったく違う世界も含むのですが、そう、大体はこの世界の『違う選択がなされた歴史違いの世界』でしょうか」
「……私が女王だった世界も知る、と」
「えぇ」
なるほど、とひとまず納得する。
真偽はともあれ、私の名前は今も昔もセレスのままだ。セレスフィーナは、女王として即位した時に付けられたもの。彼も、愛称が本名に近くなるような名前を、新たにつけたという。
まぁ、私はその名前は知らない。
彼のことは誰もが『王』や、『陛下』と呼んでいるから。
今がどうあれ、私にとって彼の名前は一つだけだ。
それ以外は、呼ばない。
「そういう、特殊な異能があるのは知っていた」
「博学なお方ですね」
「一応は女王だったからな、至らぬところも多かったとはいえ」
だが、実際に見るのは初めてのことだ。異能、と呼ばれる特殊な力を有するものは、魔術師としての素養も高く、多くが城で働くことになる。当然、私の直属なのでひと通り顔も見知っているつもりだったが……はて、こんな特徴的な男、あの頃の私の側にいただろうか。
まぁ、城で働くことは強制でも義務でもない。
城とは関係ないところで生きている異能持ちの魔術師も、おそらく多くいるのだろう。
彼は、そんな誰かの一人だったのかもしれないな。
「それで、何の用があるというのだ、愛妾にすぎないこの私に」
今度は私を反乱軍か何かに担ぎ上げるつもりなのか、それとも私を王妃にでも据えてやろうというのか。前者は失笑ものだが、後者は……まぁ、悪くはない。私は別に文句はない。
彼は、きっと嫌がるだろうが。
「始めに言っておこう、私は今を変えるつもりは無いぞ」
「それは、ずっとここで愛妾をしていると?」
「でなければ、数年も安穏と暮らしたりはしないさ。嫌われているのを承知ではな」
笑う、ちゃんと笑えているはず。
向かい側では、異能を有する青い瞳が不安げに揺れていた。かわいそうだな、と思いつつ私は追い打ちをかけていく。彼の思惑の前に、こちらの考えを押し通していく攻勢だ。
「世界を見通す魔術師ならば、当然『知っている』だろう?」
「――」
「私はな、きっと『あの日』死んだんだよ、心が」
今までしてきたことも、苦労も、覚悟も全部ダメになったあの瞬間。
「すべてがどうでもよくなった、彼に関わらないことはどうでもいいんだ。なぁ、貴様は『知っている』か? 私がここに来てから、彼は外でよく笑うらしい。人当たりがよくなり、彼個人に惹かれる令嬢も多く城に上がっていると聞く。王としての彼ではなく、彼個人を求めて」
「……それが、何か?」
「喜ばしいじゃないか――とても」
好きに扱っていい存在に負の感情を吐き出して、スッキリしてまた明日。
だから笑えるし、人当たりも良くなる。そして自然と彼は人に慕われるのだ。これはとても素晴らしいことじゃないか。ここにいるだけの私だが、その一助になれているのだから。
私はもう女王ではない、そんなものにはなれないしなりたくもない。
ただの庶民として生きるはずだった私は、彼の役には二度と立てないはずだった。
遠い故郷から見守るだけの、一生を送るはずだったのだ。
「それが見ろ、こんな近くで役に立てる。すばらしいことだと思わないか?」
自分でも、言い聞かせるような音をしていると思う。だが、そうでもなければ私は、また自分の価値を見失う。あぁ、そうだ、私は自分がしていることに理由がほしいのだ。もっともらしい結果がほしいだけなのだ。それだけで、苦痛も苦労も、笑顔で飲み干して笑えるのだ。
だからこそ、失えばそこで――全部崩れて、しまう。
失うきっかけなど欲しくない、身じろぎ一つで世界は壊れるのだ。
誰が何を言おうと、そこに勝機があったとしても。
私は、もう何もしないと決めたのだ。
「セレスフィーナさま」
「私はセレスだ」
「……では、セレスさま、貴女は本気でそう思っているのですか。ここで、負の感情のはけ口になっていれば、それで貴女も彼も幸せになれる。幸せであり続けると。今が幸せだと」
「あぁ」
「その先に貴女は、自分がどうなるか知っているでしょう。負の感情は、やがて貴女の心臓を射抜いて止める。それがわからないほど愚かな人ではないはずだ。だって貴女は女王だから」
「知っている、だが……それが何だと?」
答え、そして笑う。
「私は彼の、ラージュのためなら、どんな形でいつ死んでも、一向に構わない」
この日々は、私にとって幸福なものなんだ。
だからお前が、私などのためにそんな顔をする必要なんてない。ほとんど初対面に近いのだから、そんな顔をしないでほしい。まるで、そう、今まで考えもしなかったけれど。
私が『かわいそうな人』のように、思えてしまうじゃないか。
■ □ ■
「あぁ、そうだ、胡散臭い魔術師よ」
「カルヴィシドです、胡散臭いのは否定しませんけど……それで、何か?」
「一つ訪ねたい。あの世界のレメイナに託した私の遺言は、きちんと果たされたか?」
「――」
「やはり、無理だったか」
「いえ……いいえ、貴女の願いは、叶いましたよ。ちゃんと」
「ならいい。それだけが心残りだった。あとは向こうの彼が幸せになったかだが、まぁ、そこも大丈夫なんだろう? たくさん仲間がいたんだ。……あぁ、もう行っていい。くだらない要求に答えるつもりは微塵もないが、話し相手ぐらいにはなってやる。では、いずれまた」
「えぇ、いずれ、また」
他愛のない挨拶、他愛のない会話。
ここではない世界の話、言えなかったお話。
泣くように息を吐きだしながら、カルヴィシドは走るように歩き去った。
カルヴィシドは知っている。
彼女の願いが叶ったことを知っている。
カルヴィシドは知っている。
彼女の願いが叶わなかったことを知っている。
カルヴィシドは知っている。
女王と呼ばれた少女が遺した淡い恋情を抱いて、彼女が愛した青年が死んだことを――。
「あぁ――ほんと、面倒な方々だな」
魔術師は吐き捨てるように、やっぱり少し泣いてしまった。みっともないから、適当に物陰に隠れてしまうけど。声を出さないよう、服を噛んで肩だけ揺らして。
あぁ、やっぱりこの後悔の味は、苦くてまずくて、悲しい。
彼女と彼の『後悔』を見る瞬間ほど、目をえぐりたくなる瞬間はなかった。