猫被りの一日
昼食前の穏やかな時間。
すっかり伸びた髪を適当にまとめた私は、侍女などに借りてきてもらった書物――政治やらに関するものを読みふけっていた。女王ではないのだが、どうもこういう本が好きなのだ。
またそんな本を、とか、もっと女性らしい本を、と言われても好みは好み。
そう、これは男衆が女の色香に弱いのと同じことだ。他の愛妾を見ろ、下品にしか見えないがああして男を誘うのがあれらの仕事なのだ。まぁ、誘えてないから無駄な露出だがな。だがこれらの書物は、この私の好みをくすぐって手に取らせ、ページを捲らせる。素晴らしい。
……前にそういったら絶句されたので、もう少し控えめにしようと思う。
「あのぉ、セレスさま……」
そこへやって来たのは一人の少女だ。
名はレメイナ。
私より少し年下で、見た目は更に下に見える幼い顔立ちをしている。
一言にするなら『カワイイ』と思う。男から庇護欲を引っ張りだすような娘だ。本人に自覚があるかどうかは知らないが、連れて外を歩くと兵士などの視線が彼女に向けられている。
毛先が内側にくるりと回るくせっ毛に、明るい薄茶色の髪。
ほにゃ、と笑う姿は見ていてとても和む。
私か?
特にそういう視線は向かないな。
身体つきだけならまぁ、それなりに肉付きもいいのだがな。外では『わたくし、ナイフやフォーク、スプーンより重いものなんて持ったことありませんの』といった風な装いと口の聞き方をしているから、おそらくそういう類の愛妾の一人だと思われているのだろう。
そこは意識したものだから、別にどうでもいい。
私個人への評価などどうでもいいから、好きにすればいいと思う。
とはいえ、私の立ち振舞のとばっちりが、私にばかり返るとは限らない。
なので、普段の私は猫というものをかぶって、あまり素を出さないようにしている。素を出すのはせいぜいレメイナと、この部屋で二人っきりの時ぐらいだろうか。
だがどこに油断が生まれるかわからないから、基本的には猫被り状態が常である。
こんな末席の愛妾、しかも嫌われているというのに、来客はそれなりにあるからな。だいたいが愛妾をやめてうちに来ないかという類の話で、当然ながら断っているが。
「レメイナ、どうかなさって?」
「えっと、これなんですけど……その、どうしましょう」
レメイナは、見たくない、という意思表示を、そのか細い全身から発しながら、それを私の前に持ってきた。本来、持って来るべきではないのだろうが、彼女に処分は無理な品だ。
私はレメイナの手のひら、小さい布に半分くるまれたものを見て。
「また動物の死骸か。連中は本当に愚鈍で愚劣で暇なのだな」
くっく、と肩を揺らして嗤う。
笑い事じゃないですぅ、とレメイナは半泣きだが、嗤うしかないから仕方ない。こんな児戯にも劣るしょうもないことを、この数年、延々と飽きもせず続けているのだからな。
連中の頭は、よほど出来の悪い仕上がりらしい。
あぁ、そういえばその心身の程度の低さをついぞ見ぬかれたか、阿呆共のところへ王が尋ねることが減ったという。そのくせ、こちらにはほぼ毎夜なのだから、まぁ、怒るも当然か。
「この程度で憤るな、暗殺や毒殺をする勇気もない、臆病者の遊びじゃないか」
「……」
何を言ってるんだこの人は、という心の声もあらわな視線が向く。
感覚が狂っているのは、しかたがないことだ。女王とは、この程度の戯れで、いちいち心を乱していては務まらないものなのだから。喉元に剣を突きつけられても笑うぐらいでないと。
だが、そうだな。
いつも明るく前向きで、少し臆病な彼女は好ましい。女王だったころも、私に付いた侍女は彼女だった。あの彼女も今も彼女も、変わらず私の側にいてくれる心強い友人である。
そんな彼女を泣かせたまま、というのは忍びない。
だから私はその手の中にある、命を失った躯をそっと受け取った。
あとで、与えられた庭の隅に埋めておこう。
「レメイナ、そろそろ昼食にしよう。今日もまた一緒に食べてくれるか?」
「あ……はいっ、よろこんで!」
準備します、と部屋を出て行く後ろ姿を、私はそっと見送る。児戯に利用されるかわいそうな存在をそっと布で包み直し、少し祈りを捧げてから庭へと出て行った。
さほど日当たりはよくないハズレの部屋の、無駄に大きな窓。
その向こうは、今日も快晴である。
この窓の向こうが暗くなり、星か月が見える頃に――彼は、来るのだろう。
■ □ ■
彼が王となり私の前から姿を消した、あの運命の日。
そこからの日々は、何ということもない世界が続いていた。
周囲には多少の同情を受けつつ、一人で静かに暮らすだけの毎日だ。小さい畑で自分が食べるだけの野菜などを育て、それと交換する形で誰かが取ってくる肉や魚を手に入れて。
近所のご婦人から古着をいただき、それを修繕しては身に付けるという、女王の記憶をムダにするような日々を享受した。だが私は、そんな生活で何も悲しくはなかったのだ。
あんな顔は、もう見たくない。
あんな彼は見たくはない。
その一心で私は、庶民の私を愛した。庶民として生きて死ぬことを望んでいた。
それが今ではこの通り。十五になった数年前、また騎士団が私の前に現れた。理由は寝耳に水どころではない。私に反乱の意志がある、というむちゃくちゃなものだ。
こんな庶民の小娘に、そんなことができるわけがないだろう。
周囲もそんな反応を見せたが、ちらりと抜かれた剣の前に沈黙。
大方、先王の遺児――の可能性がある、ということで、私を野放しにはできなくなってしまったのだろう。あぁ、もしかすると女王だった私も、同じことをするべきだったのか。
連行される馬車の中で、人知れず漏れたのは苦笑だった。
なぜだどうして、そんな問いかけが頭の中で円をつないで踊る。
私は、また彼に殺されるのだろうか、それが私という存在の運命なのか。
だが現実は私を嗤うように翻弄し、私は愛妾の末席に身をおく存在へと成り果てた。庶民階級の愛妾など私ぐらいなもので、周囲は誰も彼もが貴族の姫君。他国の姫もいらっしゃった。
挙句、手を出されず睨まれるだけなのだから、それはそれは可愛らしい嫌がらせは日々。
バカバカしくて相手もしないが。
だが、数少ない心を許せる友人とも言うべき侍女は、それに憤る。
「無理やり連れて来られたのですから、もっと強く出てもよろしいのでは……」
いやいや、そんな面倒なことはしたくない。
何を思って私をここに囲ったのかは知らないが、どうせ私はどう足掻こうとも彼に殺される未来なのだから、それまでのんびり暮らすだけ。それでいいじゃないか。
もう私は女王ではない。
平凡な人生を、こんな場所でもいいから送るのも悪くない。
などといえば侍女はまた怒る。可愛い顔を歪ませて、まるで母親か姉のように。精神的にも実年齢でも、私の方が年上なのだがな。どうにも、レメイナには逆らえない、『昔』から。
「もぅ、不満などは口にしなければいけませんわ!」
「不満……そうだな、一つある」
「そ、それはなんでございましょう! なんなりとお申し付けくださいまし!」
「剣を手に素振りをしたい。昔はクワを代用していたんだがな」
「……」
貴女はまた何を、と絶句するレメイナに、とりあえず謝っておいた。
■ □ ■
夕食が終わって、軽く汗を流して、静かに待つ時間。
レメイナはいない、そばにある彼女の自室にもう帰してある。いてもかわいそうなことになるだけだし、彼は邪魔だと彼女を追い出すだろう。だったら、もう休んでくれていい。
お茶はいらない、酒もいらない。
だって、睨み合うだけなのだ――睨むように、見つめ合うだけなのだから。
扉が開く音がする。また一人でやって来たのか、足音は一人分しか無い。いくらここが居城とはいえ、少し無防備が過ぎるのではないか。誰か指摘してやればいいのに、気が利かない。
女王の顔と、組んでいた足をそっと元に戻す。
貞淑そうに媚を売る、彼が嫌いな『私』を作り上げる。
睨まれる、その視線にこもるのは侮蔑と、恨み、悲しみと……まぁ、そういう暗くてじめっとした重苦しい感情だ。嫌われているのだろう、私は彼に心底嫌われているのだ。
それを、私自身、で受け止める勇気などあるわけがない。
私は女王だったが、女王だったというだけのただの小娘でしか無い。
彼からの負の感情を真正面から受け止める、そんな強さは結局身につかないままだ。だったら自分から態度を変えるしか無い。こんな態度だから嫌われたのだと、そう逃げ道を作る。
そうしたら、また明日もレメイナと一緒に笑えるのだ。
二面性があるから、性格が悪いから、彼が嫌いなオンナだから。
逃げ道に引きこもっていれば、私は生きていける。
私という道具で負の感情を吐き出して、明日の彼はどこかで笑ってくれたらいい。
それを遠くから、そっと眺められたらそれでいい。