俺の脳内辞書に出来の悪い子ほど可愛いという言葉はない(ver.風白狼)
賑やかな居酒屋の一部屋に、十数人ほどの大人達が集う。長机には軽い料理が並び、グラスやジョッキに飲み物が注がれている。料理を前にした彼らは思い思いにくつろいでいた。その雑談をかき分けるように、一人の老人が声を張り上げた。
「それでは、揃いましたので始めたいと思います。皆さん、飲み物を手に取ってください」
指示通り、大人達はジョッキを持って掲げる。そして、一斉に声を上げた。
「「お疲れ様でした~!」」
カンッとジョッキのぶつかる音。よく冷えたビールを泡ごと喉に流し込めば、疲れた体がすっきりしたように思えた。
「いやあ、終わったねえ」
同僚の一人が話し掛けてくる。朗らかに笑う彼に、俺も微笑みを返した。
「まったく、今日まで大変だった」
一年の苦労を思い起こして苦笑がこぼれる。そんな俺を見て、同僚は思い出したように目を見開いた。
「そういえばお前、自分のクラスに手のかかる奴がいるって愚痴ってたよな」
言われて俺はとある教え子の姿を思い浮かべた。落第級にできの悪い生徒。彼の担任になり授業でも苦労したと、いろいろな人に話したことがある。
「あいつか。たしかに問題だらけで悩まされたな」
「本当は手元を離れて寂しいんじゃないのかい? ほら、昔から言うだろ? 『出来の悪い子ほど可愛い』って」
「冗談じゃない。離れてくれてせいせいしてるよ」
からかう彼の言葉を、俺は否定した。
「いいか、あいつを教えた俺から言わせてもらえば、『出来の悪い子ほど可愛い』なんて言葉、まったくの嘘っぱちだ」
例の生徒とは、入学のときから関わった。できが悪いと言っても不良っぽい訳ではなく、見た目はただの冴えない男子生徒だ。大人しい性格で自分からは目立つようなことはしないため、普通なら記憶に残るような生徒ではない。けれど、他のクラスメートにまで落ちこぼれのイメージが定着している。そういう生徒だった。
賢く生意気な生徒よりは、できが悪い方が教え甲斐があると言うかも知れない。一理ありそうだが、それはゆっくりでもいいから教えたことを定着してくれる場合だけだ。こつこつと教え努力を重ねた結果理解を深めてくれるのであれば、教師として嬉しいことこの上ないだろう。
だが、彼の場合は違っていた。いくら教えても、なかなか実力に結びつかないのだ。使わない知識を忘れていくのは仕方のないことだが、三日前の授業の内容をまるっきり覚えていないというのはいくら何でもおかしいだろう。俺の教え方が悪くて他の生徒も誤解しているようならいざ知らず、彼だけ理解できず取り残される。ノートは取っているようなので見返せと言ったりしたが、効果はなかった。気になって彼のノートをのぞき込んでみると、なんとも要領を得ない書き方だったのだ。頭のいい人でもあれを解読するのは一時間以上要するのではないかと思うほどだ。まして彼自身が解読するのはほぼ不可能だろう。わからないならわからないと質問して欲しい物だが、彼の性格からして自主的に質問に来るということはなかった。いやそれどころか、何がわからないかすらわかっていなかったかもしれない。ともかく進展のない生徒なのだ。
俺が意地悪なら、質問に答えられずおろおろと困り果てる姿をみて楽しむのもまた一興だろう。しかし生徒をいたぶって楽しむにしては、俺の性格は真面目すぎる。……なんだその笑いは。俺を馬鹿にしてるのか? いいか、俺は自分が先生の鏡だとまでは思ってないが、それでも先生らしく皆が理解できるように苦心する性質なんだ。とはいえ彼一人のためにずっと同じことを繰り返させていたのでは、何年経っても指導要綱を満たせない。だから課外時間に彼に話しかけてみたり、補習させてみたり、とにかくいろいろ手を焼いたんだ。それは可愛がっているんだろうって? 冗談じゃない。あんな奴、放置できるなら放置したいさ。だがそうさせてくれないことくらい、お前だってわかっているだろう? 俺だって、職務怠慢で訴えられたくはないからな。
とまあそんな感じの奴だったから、俺はそいつに過去の自分を重ねたこともある。だが、それが一番いけなかった。最初は自分のように怒られてばかりの子だと、同情も覚えたりした。そもそも成績の悪い俺が今教師として働くに至ったのにはかなりの苦労があったが――――まあ、関係ないし今は置いておこう。ともかくかつての自分のようだと思っていたが、時が流れるにつれ、だんだんと抱く感情が変わった。過去の自分と彼が重なって見えると、できの悪さによる苛立ちが過去の自分に対する嫌悪によって増幅されてしまうのだ。この苛立ちはかつて自分が担任の先生にしてきたことだ。そう思うと余計腹が立つ。何とか表には出さないようにしてきたが、それでも酒の席で愚痴ったことを今謝っておこう。
そんなこんなで夏休みを終えた頃だ。俺はほぼ日常的になっていた例の生徒の呼び出しの際に、なにか悩みはないかと問いかけてみた。大人しい生徒だから、聞いたところですぐに返事は来ない。俺は諦めず、どんな小さなことでもいいから話してみろと言ったんだ。そうしたら相談したいことがあると言ってきた。勉強のことかと思ったらそうではなく、「気になる女の子がいる」とのことだった。年頃だから、そういう悩みがあるのも当然なんだがな。で、俺は話を聞いた。その子は学校一番の美人という訳ではないがそこそこ可愛い子で、成績もいい。困っているときに助けられて、それ以来気になっているのだという。俺は彼だからと馬鹿にしたりせず、真面目に受け止めた。そして、こう言った。
「お前は馬鹿で、とろいやつだ」
その言葉を受けて、彼は衝撃に目を見開いていた。しかし自覚があるのか怒ったりせず、項垂れてしまう。
「だから、そのこと仲良くなりたかったら、変に格好つけない方がいい。失敗するからな」
俺はやっぱり、かつての俺を重ねていた。先ほども言ったが頭が悪かった俺は、ちょっと可愛い子に恋をした。なんとか気を引こうとしたものだ。だができなかった。気の利いた台詞を覚えてきても緊張でおかしな言葉になり、ムードを出そうとしてデートを無駄に派手にしたりした。当然のことだが、俺はそれで振られたのだ。きっと彼も同じようなヘマをするに違いない。そう思った俺はあえてきつい言葉を投げかけた。
あいつはいつになく真面目に俺の話を聞いていた。そのときの顔は今でも鮮明に覚えている。ああ、本気なんだなあとよくわかった。あいつは少しの間考えて、やがてありがとうございますと出ていった。
え、結局あいつがどうなったかって? それがなあ、文化祭のときに告白して、OKをもらったそうだ。それからというもの恋人らしく付き合って、バレンタインにはチョコまでもらったんだと。なのに授業の方は相変わらずできが悪かった。まったく、あんな教え子の、どこが可愛いんだか。