11章
「では、私はこれで……」
ペルセウスは、一呼吸置いて、再度挨拶を切り出した。
「まあ、早いのね」
アテナが微笑みかけた。
「はい……。この盾の使い方も心得ましたし、長居する理由はありませんので。もう少し居れば、何かまた出してくださるというのでしたら、喜んで留まりますが」
「ふふ。一度に幾つも渡せないわよ。また必要な時に、その場に合ったものを出してあげるわ」
「ありがとうございます。アテナさま。またお会いする日まで」
言うと、セレトンから盾を引き離し、布で目の部分だけ覆い隠すと、マリウスだけに聞こえる距離まで近づいてきた。
「今度は、遠慮なく呼べばいいだろう」
やはりか。
それだけ言うと、早足でその場から森の方へ歩きだして行く。
アトンは、あまりにも唐突に離れていくペルセウスに声をかける機会を失い、そのまま視線で見送るしかなかった。
「よくわからない奴だったな……」
ホルスがつぶやく横で、マリウスも言葉なくその背を見送った。
その姿が小さくなるころに、アテナはかすかに笑い声をたてた。
「相変わらずね。長居すると、貴方たちと馴れ合ったり、落ち着いてしまいそうになるかから、用が済んだら、すぐに行ってしまうのよ。それがペルセウスの旅の形のようね」
「そうなんですか……」
アトンは首をかしげながら、つぶやいた。
マリウスにはなんとなく判っていた。終始そっけない態度をとりつつも、端々で見せた、感情のある様子。それから、自分たちを馬鹿にした態度もどこか不自然だった。
それがあったから、マリウスはあの地下で剣を抜かなかった。
そして、去り際の一言で、あの態度のすべてが理解できたーーような気がする。
「私の言葉、覚えてますね?」
「あ、はい……」
アテナの声で、マリウスは我に返った。そして、慌てて腰の布に手をやって、そっと取り出した。
冷たい。そして動かない。
あぁ、いや。蛇というものは元々体温がなかったか。
落ち着け。
マリウスは、息を殺すようにして両手の平に乗せたそれを、指を曲げてそっと触ってみた。自分の指に反応するように、それはかすかに動いた。
ほっと息をついて、両手で包みこむようにしてから、アテナを見上げた。
「無事のようですね。それがメデュウサです。人間の身体の方は私が処置しますから、気にしないで。まずは、すぐに水をやりなさい。ちょっと弱ってますからね」
「はい、すぐに」
包み持ったまま、池のほとりまで走った。
アテナはその背を見送ってから、アトンとホルスに微笑みかけ、そのまま姿を消した。
◇
マリウスが水を飲ませて戻ってくると、アテナの姿がない。
「アテナ様は?」
「それが、消えてしまわれて……」
アトンも呆然としている。
「何か言ってらしたか?」
「いえ、特に何も……」
「そうか……。挨拶しそびれてしまったな」
仕方ない。再び抱えた白蛇に視線を落とした時、それはマリウスの身体を伝って、するりと地面に降りた。
体力が回復したのだろうか。結構元気に草の上を這い回っている。
見ているうちに血に染まったマントの方へ向かった。
胸に痛みを覚えたマリウスが、止めようとしたが蛇はそれよりも動きが早く、自身の身体のあるそこへもぐりこんでしまった。
変化はすぐに起きた。
マントに覆われたからだが動いたのだ。
驚いて足がすくむ三人の前で、そこから白い手がうごいて出て、覆いかぶさっているのをはいだ。
「どうなってるんだ……」
ホルスがつぶやくのも無理はない。
上体を起こした彼女は、首から上もちゃんとついていた。しかも、あの化け物の顔ではない。金髪で若い顔だ。
その目は大きくて愛らしく、深緑の瞳は辺りをせわしなく見回した。
やがて、マリウスと視線がぶつかった。
しばらく、お互いが固まったかのように見つめ合ってしまった。
マリウスが我に返って視線をそらしたのと同時に、メデュウサは突然その瞳から涙を流しはじめたので、マリウスは近づいた。
「メデュウサ殿……」
名を呼ぶ以外、どう言葉をかけたらいいのかわからない。
アトンとモルスも近づいてきた。
「おい、本当にメデュウサ殿か?」
「何言ってる。館で絵を見たではないか」
そういうホルスも、目前で涙を流す少女の顔を伺うように見ている。
「ああ、そうだが……」
少女は乱れた髪で、ほおや首筋も土で汚れていたので、絵で見た少女と同一なのか、すぐに判別はつかないようだ。
マリウスだけは、目前の少女が絵のものと同一なのは瞬時にわかった。
泣いたままの目は、マリウスに向けられた。
「どうしました?」
マリウスはゆっくりを膝をついて、目線を同じ位置にした。
「マリウス様……ですよね」
「どうして、私の名を?」
「それは……」
メデュウサは言いかけて上体を立て直そうとして、バランスを崩した。
慌てて、背を支えて補佐する。
みれば、胸から下は上質の服だが、肩や腕が露出している。肩を寄せて寒そうにしているので、マリウスはアトンに目をやった。
マリウスの血に染まったマントは傍らにはあるが、どうしても使いたくなかった。
アトンは、すぐに察してくれたようだ。自分のマントを脱ぐと、マリウスによこしてくれた。
「すまない」
マリウスはそれを肩からかけてやった。
「ありがとうございます……」
「それで、なぜ私の名がわかるのです?」
「……わかります。私は、あれに支配されている間、自分の意識はありましたから。でも、私が何か言うと、それは言葉ではなく、獣の吠えた声になるだけでした。……私は、みなを石にしたくなかった。でも、自分の目が石にしてしまっているのに気づいたのは、もうほとんどの家の者たちが、そして母が石になってしまってからでした……」
「そうだったのか……」
「きっと、私の意識をなくさなかったのも、アフロディーテ様がこれだけ大きな罪を犯したのだということを、私に知らしめるためでしょう……。だから、自分で母を石にしてしまったと判った時は、自分で命を絶とうとしました。でも、剣が見当たらなかった。父が武器を隠したのでしょう。だから、鏡をみましたけど、自分だけは石にはならなかったし……。あの騎士さまみたいな方とも争いたくなかったのに、身体がいうことをきかなくて、勝手に……」
そこまで一気に言うと、メデュウサは大きく息を吐いて、嗚咽をはじめた。
「もう、話なくていいですよ。状況は充分わかりましたから」
それ以上聞いていると、こちらがつらくなるだけだ。
しかし、意識があったとは。神罰というものの恐ろしさを、改めて思い知った。
「私が、小間使いに乗せられたとはいえ、アフロディーテ様より綺麗なんて言ったから……」
「そういうことだったのか。だが、こうして元に戻してくれたのなら、罰は解かれたのではないのか?」
「そんなことはないと思います……。母は石になったままでしょうし……。そういえば、お父様は?」
そうか。それは知らないのだ。
その経緯は話ないほうがよいだろうから、どう取り繕うかと思っている間に、メデュウサは、自分で父の石化した姿をみつけてしまった。
メデュウサは咄嗟に、駆け出していく。アトンのマントだけがマリウスの側に残された。
「お父様……」
メデュウサは、何かを持っている姿のセレトンに、抱きついて激しく泣き出した。
「お父様……無事だと思っていたのに……いつの間に、私が……?」
誰に質問するでもなく、しゃくりあげながらそう言っているのが、近づいたマリウスに聞こえてた。
この父が、どうして石になったのか、メデュウサが知らなくて本当によかった。知っていて、こうして元の姿に戻ったとしても、喜んで父に抱きつくどころか、下手をするとこの娘が自殺しかねない。
「これで判りました……。母だけでなく、両親とも。そして家の者のほとんどがいなくなってしまい、私を独りにしたことで、姿を戻してもらえたのだと思います……でも、これで許してもらえたとは思えませんが……」
マリウスは、メデュウサの横顔を見た。
神に対して、失言をしてしまったという割には、自ら考える能力はあるようだ。先ほどの説明も、わかりにくい点はなかった。
マリウスも、メデュウサの言う通りなのではと思った。だとすれば、神とはなんと残酷な存在なのだろう。
自分が誓約を交わしたアテナも、笑いながら見事に、セレトンを石にしていた。
怖いほど、見事に。
マリウスは、空を見上げてそんなことを考えているうちに、メデュウサが更にしゃくりあげて頭を抱えてしまったのを見て、そっと肩に手を置いた。
「もう、この国を元に戻すのは不可能に近いだろう。だから、もしよければ、私の国で暮らさないか?」




