あいのう。
ここ十年、僕は彼女の涙を見たことはなかった。
一年前に第一志望校に落ちた時も、三年前に必死で練習した合唱コンで惜しくも入賞を逃した時も、八年前のあの地獄の時も、彼女は一滴の涙も見せなかった。最後に見た涙は十年前、彼女の母親が他界した時だろう。
だから、彼女が右手を真っ赤に染め、涙を流しながら僕の元に近づいてきた時はたいそう驚いた。
「っ!」
「じゃま、どいて」
たじろいで後ずさる僕を、追いつめる様に彼女は近づいて左手を僕の頭に伸ばした。
そのまま彼女の左手は頭を掠めて、真後ろにあった引き出しを開けた。取り出す救急箱だ。
「どうしたの?」
「きった」
彼女は涙を流しながら、顔色を変える事なく答える。その言葉に、ちらりと視線をキッキンに向ければ、血が付いた包丁とみじん切りが途中な玉ねぎがあった。
「じゃあ残りやっとくよ」
そう言って僕が立ち上がると、代わりに彼女はリビングに腰を下ろす。無表情でこちらを眺め、すっぱりと切れた右手を治療する。
ちゃんと治療を始めた事を確認して、僕はキッキンに立った。彼女ほどではないが、僕も多少の料理はできる。
幼い頃に父親を亡くした僕がなんとか身に付けた技術だ。
この技術のおかげで、彼女との共同生活は平穏無事に送れている。
共同生活。
僕と彼女は高校生の身分ながら共同生活を送っている。と言っても同棲とかではない。
幼い頃から仲良く、家族ぐるみで付き合っていた彼女は、姉であり妹だ。
早くに父を亡くした僕は、母親の判断で近くに住む母の友人の家に預けられる事が多かった。その母の友人が、彼女の母親だったというだけだ。
年が近い僕と彼女はあっという間に仲良くなり、彼女の母親の他界と共に疎遠になったが、八年前に彼女の父親がいなくなった事を機に、また一緒に過ごす様になったのだ。
そして高校入学と同時に、母親は転勤。ずっとせっつかれていたのを、中学生を盾に避け続けていたためらしい。
そんなこんなで、僕と彼女は同じ家に住み、同じ高校に通っている。
さて、そんな風に一緒の家に住んでいると分かれば、高校では話の種だ。と思うが、意外にそうでもない。
それも、彼女の性格のせいだった。
「あいつと一緒に住んでるってマジ?」
「付き合ってんの?」
矢継ぎ早なクラスメートの興味本位の質問も、相応のリアクションがなければ面白みも半減だ。
「そう」
「ちがう」
驚きもたじろきも怒りも泣きもせず、無表情のまま、最低限の言葉だけで返す彼女はすぐに興味の的から外れた。
相手である僕にも質問は殺到したが、片方がつまらなければ一過性なもので、ひと月もすれば野次馬はいなくなった。
「なんか、もう押し倒しちゃえばいいのに」
クラスメートの捨て台詞は、決して僕には届かなかった。
既に大きく突き押された彼女は、僕にとっては腫れ物で傷跡で、それを突き押すなんて考えられない。
一緒にいて、触れる事なく距離を保つ。
姉であり妹である距離感。
彼女にとってはそれが最適なんだと、僕は確信し続けていた。
「かえろう」
いつもの様に無表情で、彼女は僕に言った。僕もいつもの様に鞄を背負って立ち上がる。
それを見届けて、彼女は何も言わずに僕の前を歩き始める。
僕は彼女の少し後を歩く。彼女の思うままに歩かせ、それを後ろから見守るのが彼女のためだからだ。
「ゆうはんかう」
平らなイントネーションで呟き、彼女はスーパーに入った。顔色一つ帰る事なく、食材を買い物カゴに放り込む。
料理に関しても僕は無用な口を出さないが、感想だけは正直に言う。それが良いと言われたからだ。
「きょうはころっけつくる」
コロッケは彼女の得意料理で、味も僕好みだ。と言うのも、彼女にコロッケを作る機会が多く、僕が味を決めたから当たり前なのだが。
だがその日、結局コロッケにはありつけなかった。
僕の家に帰る途中。物置としての役割しか果たしていない彼女の家の前に、一人の男が立っていたからだ。
年はたしか三十三。彼女と似た顔の彼は、彼女の父親だ。
「小父さん・・・」
ニコニコと笑みを浮かべる小父さんに、僕は彼女より一歩前に出る。彼女を隠すように前に出る。
「やぁ、久しぶり」
「・・・」
小父さんが告げると、ギュッと僕の袖が強く掴まれたのを感じた。
「コロッケを作ってくれるかな?」
さらなる一言に、ゆっくりと僕の袖から力が抜けた。フラフラと覚束ない足取りで彼女は小父さんの元へと歩み寄る。
「待っ
「親娘で水入らずで話したいんだけど良いかな?」
僕の言葉を遮るように小父さんは告げ、彼女の腰に手をまわして家の中へと招き入れた。
翌日彼女は学校を休んだ。
父親が帰ってきて、気が緩んでドッと疲れが出たのだという。彼女本人から直接電話があったのだと担任は言った。
「疲れてはいるみたいだが、とても嬉しそうだったよ」
職員室まで行って様子を尋ねると、電話を取った担任はそう言った。
僕はその言葉を受けて、すぐに単身赴任の母親に電話を掛けた。
小父さんに会うために出来るだけ早く帰ってくるが、今日中は無理だという。
はしゃぎすぎないようにと釘を刺して、長い説教ののちに母親は電話を切った。
僕は母親の説教を何度も頭の中で繰り返して、一人帰路へと着いた。
彼女のいない放課後は久しぶりだ。何かあるたびに、必ず僕と彼女は一緒に外を出歩いていたからだ。
僕は久しぶりに夕飯の献立を考えながら、彼女とよく行くスーパーへと足を運ぶ。
と、そこに重そうな買い物袋を抱える彼女がいた。
ヨタヨタと覚束ない足取りで歩いている。その彼女の背中に僕は声をかける。
「・・・」
僕の声に彼女は振り向いて、笑顔で頭を下げた。
その様子に僕は歩調を早める。今までにないくらいの全速力で、僕は彼女へと走り寄った。笑顔のまま帰ろうとする彼女の右手をつかむ。
直後、信じられないくらいの速さで彼女は僕の腕を払った。
「お父さんに夕飯を作らないと行けないので帰ります」
花が咲いたような笑顔で彼女は、とても嬉しそうにそう言った。
無口で無表情で感情の希薄な彼女は、とても嬉しそうにそう言った。
その様子に僕は完全に我を忘れた。
『本当に好転した場合もあるんだから』
母親の言葉が一瞬頭をよぎるが、そんなことは無視する。直感的に、元に戻ったのだと感じたのだ。
僕は彼女の肩をつかみ、思い切り壁へと叩き付けた。逃げ出さないように抑え、彼女の服の首元を思い切り引っ張って服の中を覗き込む。
そこにあったのは、病的に白い肌とブラ紐。
そして煙草による火傷の跡といくつもの青痣だった。
彼女の様子に八年前の地獄を思い出す。
『保護者責任遺棄罪により、』
僕と母親と警察が踏み込んだ薄暗い部屋の中に彼女が座っていた。
体中には殴打の、火傷の、暴行の後があり、頬は扱け病的なまでに白く細く骨と皮だけの体。
妻を失ってから荒れ始めた、彼女の父親による暴行の跡だ。
目は死んだように虚ろで、彼女の心はまさしく死んでいた。
心は擦り切れ、自らの意志というものを完全なまで失い、感情という感情は抜け落ちた。
もう彼女は怒ることも、泣くことも、笑うこともなくなった。
そんな彼女が、たった一日で満面の笑みを浮かべたのだ。
『いきなり感情を取り戻すなんてありえない。ちょっとずつ、長い時間をかけて治していけばいいから』
そう言ったのは、児童カウンセラーである僕の母親だ。
いま母親は赴任先から自宅まで帰ろうと躍起になっているところだろう。小父さんの前に大人として立ちふさがり、彼女を守るために。
釈放されたばかりの小父さんから彼女を守るために。
でも結局それは間に合わなかった。
既に彼女は無理矢理感情をたたき起こされ、あの地獄の日々への後戻りを余儀なくされていた。
「 」
知らぬ間に何かを叫んで僕は走りだしていた。
何かが僕をそこまでして駆り立てるのかはわからない。ただ、耐えようもない怒りが僕を突き動かしていた。
よく彼女と一緒に帰った道を、怒りに満ちて走り抜ける。
彼女の家へと滑るように走り込み、一気に彼女の家の扉を開けた。
彼女が閉めたはずの扉は、鍵はかかっていなかった。
それが何を意味をするのかを、僕ははっきりと受取った。
「なンだァ!遅いじゃねェか!!」
昨日と同一人物とは思えない声色で、昨日と同一人物と声質で怒鳴り声が聞こえた。
廊下の奥から現れたのは、一升瓶を片手に持ち、顔を真っ赤にした小父さんだ。
「あァ!なにやってンだァ?!」
小父さんは怒り顔で告げ、そして右手に持った一升瓶を大きく振りかぶり、勢い良く振り下ろした。
それと同時に僕の肩が強く引かれる。
それと同時に瓶が割れる音が響き、僕の腕を引いた彼女が倒れこんだ。
彼女は頭から血を流しながら、それでも意識を失わずに床へと突っ伏した。そのまま玄関の土間に額とつける。
「御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい御免なさい」
狂った様に彼女は土下座をしたまま謝り続ける。
言葉が震え、感情をなくした彼女が恐怖の感情をありありと浮かべた様子で謝り続ける。
それでも小父さんは彼女を許すことなく、割れた一升瓶を振りかぶる。
その非道な有様に、僕ははっきりと何かを感じた。
いったいこの強い感情がなんなのか。それを理解する程の時間もなく、僕の体は動き出していた。
右のこぶしを強く握り、小父さんの顎に向けて思い切り放つ。
こぶしに熱い熱が伝わり、強烈なインパクトが腕に走る。渾身のこぶしは小父さんの顎に直撃し、小父さんが仰向けに倒れた。
小父さんが意識を失ったことを確認して、僕はいまだ謝り続ける彼女へと振り返った。
そして、腹の熱に気が付いた。
「あっ」
腹を見れば、割れた瓶の大きな破片が突き刺さっていた。
制服は赤く染まり、いまだダクダクと血を流す。
ゆっくりと血の気が引き、頭が落ち着く。考えるほどの余裕ができて、僕を駆り立てていた強烈な感情の正体がなんだったのかを悟った。
「好きだ」
「しってる」
いつもの無表情で彼女が端的に答え、それをとても嬉しく思って僕は意識を失った。
全治二週間だそうだ。
腹部に開いた穴はそう大きいものではなかったが、念を入れて三日ほど入院することになった。
あれから小父さんがどうなったのかという詳細は知らない。
警察付き児童カウンセラーの経歴を持つ母親が、懇意の警察官と共にまとめて処理をしてくれた。今朝方聞いたところ、小父さんはまた塀の中に後戻りすることにはなったらしい。
とりあえず今までと変わらない平穏が戻ってきて、僕と彼女の関係も元通りに戻った。
また一緒に、暗い過去を思い出す彼女の家を捨てて僕の家に住む事になり、僕と彼女の関係も丸ごと元通りになった。
頼れる姉であり、守るべき妹であり、まだ触れるのが怖い腫れ物で傷跡のままだった。
倒れる間際に言った一言も、返事もなくそのままだった。
「もう遅いから帰りな」
「わかった」
夕暮れも近くなった病室で、彼女は僕の言葉に答えた。
朝、母親に連れられて見舞いに来てから、彼女は何をするまでもなくずっと病室に座っていた。
決して自分から話すことはなく、僕の言葉に答えるだけ。
たった一日でも彼女の心を殺すには十分すぎて、八年かけた彼女の心の治療までも元通りになった。
「明日も、お見舞いに来てよ。お昼持ってきてさ」
「うん」
彼女は短く答える。決して彼女から話題を広げることはない。
自分の意志で話を変え、意見を述べるなんて今の彼女には難題だ。
「コロッケ作ってきてよ。あれ好きなんだよ」
「しってる」
コロッケは、小父さんの好物で無理矢理作らせていたコロッケは、幸か不幸か彼女の得意料理になっていた。
目をつぶってでも作れるコロッケは、精神的に不安定な彼女に任せられる唯一の料理だ。
母親曰く、『ちゃんと食べてあげれば精神安定にはちょうどいい趣味』である料理の内、ほとんど味覚のない彼女が作れる唯一の料理だ。
僕はあまり好きではないのだが。
コロッケを頼むと、彼女は何も言わずに立ち上げり何も言わずに扉に手をかけた。その背中に、ピンと張った強く振る舞う姉の背中に、ふと口から本音がこぼれた。
「やっぱいいや。代わりにハンバーグ作ってきてよ。そっちの方が好きなんだ」
僕の言葉に、彼女は一瞬だけ動きを止めてこちらを見た。
「しらなかった」
無表情のままそれだけ言って彼女は首を正面に戻して、一言だけ続けて部屋を出て行った。
「おぼえとく」
いつもの無表情で顔色も変えずに単一のトーンで、はっきりと意志のこもった言葉を残す。
扉を閉めるとき、ほんの少しだけ彼女の口が緩んでいたような気がした。
『惑星のさみだれ』の太郎と花子の会話から広げた短編。
「好きだ」「しってる」から「しらなかった。おぼえとく」の流れを書きたいがために書きました。
その後、おぼえとくに少し意味を含めて色々と話を改変。結果、構想とは大きくずれましたが、これはこれで。
中盤まで虐待については匂わせて隠した所は個人的には上手くいったかと。
それにしても突発的に書くと児童虐待を題材にすることが多い気がする。