疑問符
蜂の巣をつついたような喧騒が、石造りの教室に響いている。
「ねえ、今日のテスト何点だった?」
「九十点だったよ」
「勝った! 僕、九十五点だもんね!」
教室内に広がり、歓喜をもよおす言葉の嵐たち。
皆、笑顔に満ち満ちて、たとえ負けても肩を落とすほど悔しいわけではない。何も賭けていない、じゃんけんに負けるぐらいのものだ。そんな光景を見ていると、そこに存在しているものすべてが、喜びしかないような錯覚さえ見せる。
しかし、それは間違いだ。
「ちえ、でもいいもん――」
そう、間違いなのだ。
「十夜には勝ってるから」
「そんなの当たり前だよ」
十夜と呼ばれた少年の机の上には、他の生徒にはあるものがない。皆が見せびらかしたり、答え合わせしている用紙。
「十夜に負けたら、家に帰れないよ。家の親厳しいんだから」
「あいつ馬鹿だからな。見ろよ、今回ももう答案用紙隠してる」
そして、十夜は今日も奥歯を鳴らす。聞きたくなくても飛び込んでくる嘲笑と、自分から溢れ出る羞恥を乗り切るために…。
小学校三年生、砂直十夜は泣いていた。
帰ってくるとすぐ、ベッドにもぐりこむ。自室のドアを開けてすぐに床に放り投げられたランドセルが、少年の悔しさを代弁するかのごとく、大きな音を立てた。
嗚咽を漏らす少年は、布団をぎゅっと握り締める。
「もう嫌だ。学校なんか行きたくない。馬鹿にされるのは嫌だ…。笑われるのは嫌だ…」
胸を熱した鉄柱でかき回すような思いが、言葉を伴う。
「いつも…いつもテストがあるたびに、皆に馬鹿にされる。今度こそは、と思って頑張ったのに…駄目だった…」
実らない努力ほど、無為に思えるものはない。
「もうやだよ…」
目に留まることを知らない苦渋の涙。
「…行きたくないよ…」
そんな、少年のあだ名は、いつしか『馬鹿十夜』に確立されていく。馬鹿をぬぐう努力をしないわけではない。しているのに報われないのだ。
出来ないから、繰り返しやってみる。それでも出来ないから、やりたくなくなる。それが何度も続くと、その点数に慣れ始め、努力をすることを忘れてしまう。
この悪循環に引き込まれつつあった。
翌朝。学校に向かう十夜の足取りは思い。地面に吸いつけられるように、足が行動することを拒む。否、自身の心がそうだから、足にも伝染しているのだ。
――明日のテストも、きっとビリだよ。
わざと聞こえるように、後ろでクラスメイトが話し出す。悔しくても、耐えることしか出来なかった。一人孤立していた。テストの点数があまりにも良くないせいで、皆とは違うと差別され、仲間に入れない。
「学校なんて、来なければよかった…」
うつむいて、眉根を下げながら我慢する。少年が出来る最後の術だった。
朝の教室内は、転校生の話題で持ちきりだった。今、先生はいない。隣の生徒同士、もしくは後ろの生徒同士で疑問を傾倒して、そのときを待ちわびていた。しかし、十夜に話しかける者はいない。悟っているのだ。話しかけたら同類とみなされて、十夜と同じ目に遭わされるかもしれないということを。
そのとき、先生が教室へ入ってくる。傍らには、少年がいた。愛らしい顔立ちをし、瞳の奥に輝きを秘めた少年が。
ふと、十夜と少年の目が合う。
少年は表情を穏やかな笑顔に変えて十夜に笑いかけると、前方に向き直った。十夜は、一瞬のその行動に目をぱちくりさせながらも、心の中が癒されていくような感覚に満たされていた。
いつしか自分に向けられることのなくなったその笑顔を再び垣間見ることが出来たから。たとえそれが、見ず知らずの他人のものであっても。
先生が、少年に自己紹介を促すと、大きく首肯したあとに少年は開口した。
「砂直百夜です! よろしくお願いします!」
黒板に名前を白く刻み付ける百夜を眺めていた十夜は、胡乱な眼差しを百夜に向けた。
砂直という苗字は、そうそういるものではない、珍しい苗字だ――と、父親から聞かされたことがあるだけに、いっそう疑念を抱いた。
(親戚なら、昨日のうちにお母さんから、聞いていたはずだし…おかしいな)
小首をかしげる。そうこう考えているうちに、席を教えられた百夜は机の合間を縫って、十夜の隣の席に腰を下ろした。そして、また笑顔。
十夜の表情が曇る。
(またすぐに、僕に向けられるこの笑顔が、僕の嫌いな表情に変わるんだ…。辛いだけだよ。隣に誰もいなかった頃はそれなりに気楽だったのにな…。どうせ明日には、この子との机の距離が遠くなっているに決まっているんだ…)
普通がこれほど恋しかったことはない。多くを望んでいるわけではない。ただ、人並みに友達がいて、人並みに過ごせれば幸せなんだ。
少年、十夜の心情だった。
放課後の帰り道。道端に転がる石を、つま先で蹴りながら帰る。蹴っては追いつき、追いついては蹴る。再三繰り返される一人遊びの光景に嫌気がさした十夜は、思い切り足を振り上げ、石を蹴り上げた。しかし、自分が思っていた以上に石ころは飛ばなかった。近くの電柱に当たり、乾いた音を響かせる。足元に跳ね返ってきた石ころを、十夜は苦々しく見下ろし、傾いた夕日の袂で考える。
石ころさえ思う通りにならない。
十夜はその返ってきた石ころを、今度こそ遠くに飛ばそうと考えるが、無視して通り過ぎた。しかし、やがて耐え切れなくなったように振り向いて、今度は反対方向へ蹴り飛ばした。
山吹色に染まった道の上に伸びる影は、滂沱とした十夜の思いを映し出していた。
「十夜君」
弾んだ声が、背中を打つ。聞きなれない声なのは、彼が転校してきたせいだ。
「び、白夜くん…どうして?」
とっさに出た言葉に、白夜は疑問符を頭に浮かべた。
「どうしてって言われても。一緒に帰ろうとしただけなんだけどな」
信じられないといった面持ちで、白夜を見つめる。しかし、その瞳には、わずかに期待と呼べるものが存在していた。
「ありがとう…でも、僕といてもいいこと無いよ」
「そんなことない! なんて言ったって十夜君は――」
夕陽を背にした満面の笑みを浮かべると、気後れしている十夜へ、力強く言い放った。
「救世主だもの!」
突然の単語に、十夜は笑い出してしまう。笑ったのも久しぶりだった。
「どうして笑うの?」
「だって、そんなことありえないよ。僕、勉強も運動も駄目だし」
「だから、頑張ればなれるんだよ。いい? 今から言うことは本当だから」
白夜は身振り手振りを交えながら大げさに訴える。
「今から二十年後、地球はなくなってしまう。でも、十夜君が今度のテストで九十五点以上取れば、地球は救われる。そのことを伝えるために、僕は未来からやってきたんだ。地球を救うためにね」
胸を張る白夜だが、その一方で。
「嘘でしょ…。からかいに来たのならやめてよ」
当然のことながら、信じることが出来ない十夜。誰かの差し金でこんなことを吹き込みに来たのではないかと、周囲をきょろきょろと索敵する。
「嘘なもんか!」
白夜は真剣そのものだった。
「これはまったくの事実なんだ。未来で、君は天才科学者になってる。そして、あと一秒早く数式を解いていれば、地球は救われたんだ。僕は、地球を存続させるために…ううん、それ以上に、君を助けるためにここに来たんだよ」
必死になって説明する白夜。にわかには信じられない話だが、白夜の熱意に、奇妙にも納得してしまう。
「僕が頑張れば、地球は救われるんだね?」
形作られていく決意。
「うん。だから、一緒に頑張ろう!」
「でも、算数のテストは明日だよ…」
よぎる不安の影。
「そんなことは関係ないよ。今から君の家に行こう。今日、おばあちゃんは留守だろうから」
「あの、僕におばあちゃんはいないけど…」
「間違えた。お母さんだよ、お母さん」
こうして二人は、仲良く連れ添って家路につくのだった。
十夜の部屋では、算数の猛特訓が開始されていた。教科書の同じところを繰り返し解いて、解き方の定石を頭に叩き込む。練習問題に挑戦し、苦手な部分を見つけ出す。なぜそうなったのかを考え、理解したらまた次の問題へ。そうして、一通りの問題をこなして、また始めから総復習。そして、長い時間が経過した頃。
「疲れた…」
床に仰向けに寝転がる。
「これで明日のテストは大丈夫だよ」
「そうだね。なんだか、九十五点以上取れそうな気がするよ」
仲睦まじい二人には、いつの間にか他人という垣根は存在しなくなっていた。
「そうだ。未来って、どんなところなの?」
「綺麗なところだよ。便利で、みんな笑顔で、幸せで…お父さんが守っていてくれたんだ」
二人とも寝転がり、天井を見ながら想像にふける。
「白夜のお父さんって、どんな人なの?」
「僕のお父さんは、すごい人だよ。優しくて、不器用だけど、一生懸命で…それに、お父さんも昔、勉強が苦手だったって、言ってた」
「でも、天才科学者なんでしょ?」
「うん。確かに皆からはそう言われていたけど、誰も知らないところでお父さんは、人一倍努力していた。努力家だったんだよ。悔しかったら、それをばねにしたって。たとえ勝てなくても、別のことで見返してやろうって」
誇らしげな顔で、十夜を見つめる。
「僕も、そんなお父さんを目指すんだ」
白夜の力強い声。
「うん、僕も」
「なれるよ、十夜なら」
白夜は柔らかい笑みを浮かべる。
「…きっと、ね」
そして、テスト当日。
「いよいよだね…」
「本当に取れるかな…もし取れなかったら」
「そんなことは、考えちゃ駄目だ。昨日あんなに勉強したじゃない」
不安を払拭する白夜の視線、清廉な瞳。
「大丈夫だよ」
不思議と説得力がある。
「こいつには無理だよ」
その声は、二人のうちどちらでもない。
「こいつ馬鹿だから、今回もきっと――」
クラスメイトの一人が、言葉を続けようとするが、白夜の猛烈な言葉に遮られる。
「そんなことない! お父さんは、今必死に頑張っているんだ! ここにいる誰よりも! 努力している人を笑うのは、馬鹿のすることだ!」
すさまじい怒気と剣幕は、クラスにいる白夜を除いた全ての人間を唖然とさせ、加えて『お父さん』という言葉は、生徒たちに怪訝の波紋を広げた。
ここまで十夜をかばってくれた人はいない。そんな白夜の行動に、十夜は涙が出そうになった。
そこへ、先生の声が飛び込んでくる。
「ほら、みんな何しているの。席に着きなさい、テストを始めるわよ」
何事も無かったように、クラスは静まり返った。
テスト答案配布当日。十夜と白夜は隣同士の席に座り、静かにそのときを待っていた。答案が返却される時を。
未来が変わるその時を。
「ねえ、白夜」
愛らしい微笑が、十夜に向けられる。
「白夜は…もし僕が九十五点を取ったらどうするの? 未来に帰るの?」
白夜の微笑が寂寥を帯びる。
「未来には…帰れない」
それは白夜にとって絶望を意味する言葉だった。帰るべき場所が無いということなのだから。
「それじゃあ、これからもずっと一緒だね」
朗色に頬を染める十夜だが、白夜の言ったそれがどんなにつらいことなのか、までには気が回らない。それでも、白夜は無理に笑顔を作って見せる。
「…うん。ずっと一緒だよ」
かしましいクラス内に埋もれた一瞬の哀切。
「あのね、十夜…もしかしたら…」
喉まで上り詰めた言葉を口に出そうとするが、白夜自身がそれを拒否していた。十夜の悲しむ顔を見たくない。だから、嘘をついてしまった。
――九十五点を取ってしまうと、未来が変わり白夜が存在しなくなる。
事実は伝えられなかった。十夜の言葉を聞いたあとでは。
「…なんでもないんだ…なんでも」
悲しみに顔を歪める。
「どうしたの?」
「ほんとうに、なんでもないんだよ…」
出来ることなら一緒にいたい。そんな気持ちが、白夜の胸の奥から延々とこみ上げてくる。
そこへ、運命の声が響く。
「それじゃあ、テストを返します。今回のテストは、今までよりも難しいので、みんな点数が悪いです」
「いよいよだね…」
十夜の手を握り締める白夜。二人の視線が重なる。十夜が声と一緒に笑いかける。
「今日、帰ったら一緒に遊ぼうね」
白夜は大きく首肯する。浮かべた涙をそのままに。
名前を呼ばれて立ち上がる十夜は、元気良く第一歩を踏み出す。
クラスメイトの視線を撥ね退け、教卓に向かう。背中には、優しい、誰よりも優しい白夜の視線があった。
「砂直十夜くん――」
十夜の心臓は大きく波打っている。
白夜は、勢い良く立ち上がった。そして、ある言葉を紡いでいた。
「――良く頑張ったわね、百点よ」
先生の言葉を皮切りに、信じられないような感動と快哉が、体中を駆け巡った。同時に、クラス中にどよめきが起こる。
「すごいじゃん」
「やればできるんだ」
「十夜くん、すごいんだね」
皆が感嘆の言葉を口々に呟く。空気が暖かかった。瞳の色が違っていた。先生が頭を撫でてくれた。
――うれしい。
その言葉を伝えたい。
「白夜!」
自分の席の隣に目を向ける。喜びに満ち満ちた顔で――。
「……あ…れ?」
白夜は、いなかった。
「誰? 白夜って」
クラスメイトが十夜に問う。
「…誰だろう…おかしいよ…誰だろう…どうしてだろう…」
うつむいた十夜にも、記憶がすでになくなっていた。未来が変わり、世界は整合されてしまったのだ。
思い起こしても、思い起こしても、もう思い出せなかった。
十夜は大粒の涙をこぼしていた。訳も分からずに。
流しても流しても、涙は止まらない。
「だって…聞いたんだ…」
――やったね。
「だって…」
――おめでとう…お父さん。
「だって…」
もう、声は聞こえない。
【終わり】
興味を持っていただいた方、読んでいただいた方、ありがとうございます。機会があれば、またお会いしましょう。