魔王と小さな観測者
“ダーク、これ欲しい”
籠目は右手の人差し指で本の挿絵を指さし、振り返りながら言った。俺の腰までしか身長の無い籠目は、俺の膝に乗っていても胸辺りに頭が来る。
“……三頭犬?”
籠目が指さしていたのは頭が三つあり、背中に何匹もの蛇の頭、さらに尻尾も蛇という魔獣だ。
“うん! 可愛いでしょう?”
瞳を輝かせて言う籠目に俺は内心首を傾げた。本に描かれている三頭犬ははっきり言って可愛さの欠片もない。現実的な描写のそれは三頭犬を恐ろしい化け物として描いている。
もしかして説明文が可愛らしいのかと、挿絵の横の文章を読んでみた。けれども、その内容は挿絵を裏切らないものだ。
『ケルベロス。名の意味は底無し穴の霊。50の声と青銅の――』
つらつらと説明が書かれているその本を籠目の手から取り、表紙を見た。『世界の魔獣100選』と言う題名と低級悪魔の召喚陣が書かれている。
恐らく観測者の仕事で読んでいるのだろう。俺は何とも言えない気持ちになった。何となく窓の方を見る。開け放たれた窓の向こうには青い空と白い雲、時々通り過ぎていく竜が見えた。
“ダーク、どうかした?”
頬を叩かれる感触と共に籠目が言った。俺の感情が映ったのだろう。眉間に皺が寄せられている。
“いや、これのどこが可愛いのか分からないだけだ”
俺は笑みを浮かべてそう言った。笑み、と言っても最近覚えたばかりなので美味くできているか分からない。
“顔が可愛い”
笑顔は成功したようだ。籠目は笑顔を浮かべて楽しそうに言う。
“ねえ、ダークの所にはいないの?”
本を俺の手から取り返すと、籠目は跨ぐように座りなおして体ごと俺の方を向いた。左手で本を抱えながら右の掌で俺の胸を興奮気味に叩く。
その感情が映ったのだろう。俺は籠目の背中と頭を撫で頬に数回キスを落とすと“今から見に行くか?”と言った。
籠目は本を近くの机に置いて、俺の首に細い腕を回す。その瞳は好奇心と期待でキラキラと輝いていた。目は口ほどにものを言うと言うが、今の籠目はまさにそれだ。その背中と膝裏に腕を回すと俺は籠目を連れて移転した。
移転したのは魔王の領域の入り口。この世界に来て間もない籠目は城の周りを見たことがないのだろう。不思議そうな表情を浮かべて辺りを見回している。海に面している魔王の領域の空気は潮の香りが強くした。
「ライドライラート」
海に背を向け、扉に向かって言う。俺の身長の四倍はある黒い扉にはさらに濃い黒で魔法陣が描かれている。その魔法陣が一瞬黒く光ったと思うと、そこには俺より三十センチは背の高い男が立っていた。
「陛下、何かご用でしょうか?」
ライドライラートは少々ぎこちない動作で膝を付くと、カサついた声でそう言った。白に近い金の髪が地面に付く。
「籠目がお前の種族に興味を持っている。本性を見せてやれ」
ライドライラートは俺の言葉に顔を上げると籠目を見た。真っ黒い肌の中で青い目が異常に目立つ。
「お兄さん、こんにちは。ブラット=イブラゼル=ファントムハイヴです。籠目って呼んでくれると嬉しいです」
籠目はライドライラートの視線を受け止めながら、満面の笑みでそう言った。とても可愛い。
その言葉に対してライドライラートは目を大きく見開いた。そして微妙な顔をして俺の方を見る。この流れで俺を見てくる理由が全く分からない。
“たぶん返答に困っているんだと思うよ”
内心首を傾げると籠目が念話で俺の疑問に答えた。横目で見ると苦笑気味な表情が目に映る。こういう表情を見るたび、籠目が本当に四歳なのか疑問に思ってしまうのは仕方がないだろう。
“私、何か間違えたかな?”
“何もないと思うが”
籠目に悪い所なんてない。俺はほぼ反射的にそう答えていた。その返答に籠目は瞬きを数回繰り返した後、頬を染めて嬉しそうに笑う。何が嬉しかったのか分からなかったが、籠目が笑っているならいい。
「ライドライラートと言います。家名はございません。自由にお呼びください」
ライドライラートの視線はいつの間にか俺から籠目に移っていた。籠目に向かってそう言う。
「じゃあ、ライドライラートさん、今日は宜しくお願いします」
ライドライラートは籠目の言葉に「こちらこそ宜しくお願いいたします」と返すと、また俺を見た。流石にこれは分かる。俺は許可を求めているのだろうライドライラートに一つ頷いた。
俺の頷きを合図にライドライラートの周りに黒い光が渦巻く。そしてその光が弾けたと思うとそこには三頭犬がいた。白金の短い毛に全身を覆われた、青い瞳の犬だ。真っ黒い肌は毛に隠されて見えなくなった。右の頭は俺を見、中央の頭は籠目を見、左の頭は俺と籠目を交互に見ている。
「可愛い!」
興奮気味に籠目は言った。俺の胸を叩き、「下ろして」と言う。視線はライドライラートに釘付けで俺に一瞥も寄越さない。胸の奥の方で何とも言えない感覚がした。知らず知らずに眉間に皺が寄る。
籠目は「下ろして」と言ったものの、待ちきれず自分で飛び降りた。腕から地面まで一メートル以上あったが、籠目は着地音も立てずに降りる。そして一目散にライドライラートに抱きついた。
「わう!」
「……」
「くう」
抱きつかれた中央の頭は黙り、右の頭は俺に何かを訴える様に吠え、左の頭は鼻先で籠目を突く。
「もふもふ!」
けれども籠目はそんなことお構いなしに中央の頭の頬に体を擦り付ける。嬉しい、楽しいと言った感情が俺の中に溢れたが、胸の中の感覚は消えない。
“籠目、もう気は済んだだろう? 部屋に戻ろう”
俺は早足で籠目に近づきながらそう言った。前かがみになり籠目の両脇に手を添える。
“まだ少ししか触ってないよ。もう少しだけ”
籠目は中央の頭を撫でながら、左の頭の鼻先に小さな掌で触れた。視線は相変わらずで俺には寄越さない。
俺は少し考えた後、先ほどの本を召喚した。一端三頭犬のページを開いた後、その後のページを捲っていく。
あった、俺は内心呟いた。効果があるかは分からないが少しは籠目の興味をこちらに向けられるはずだ。
“籠目、竜は見たことあるか?”
俺はそう聞きながら変身する。籠目の体が目に入ってしまうくらい大きな俺の体は、殆どが背後の海に沈んだ。黒い、けれども光が当たると白く反射する腕が目に入る。
“竜?”
籠目は呟くようにそう言うと振り返り、俺を見た。籠目の目が大きく開かれる。歓声が上がった。
“可愛い!”
***
ライドライラートへの興味は失せたようで、籠目はその後ずっと竜体の俺と遊んだ。剃刀のように鋭い鱗で一度指が落ちそうになったが、魔力の薄い膜で皮膚を保護した後は一切そんなことは無かった。
籠目は予想外に竜が好きだったようで――好きになった、と言ったほうが正しいのだろうか?――それ以後、俺に他の魔獣を見せて欲しいとは言わなくなった。代わりに時折、俺に竜体に成って欲しいと言うが問題はない。抱きついたまま眠られた時は潰してしまうのではないかと不安になったが、ライドライラートに抱きついている籠目を見た時の感情よりはずっとマシだ。
数年後、竜体と俺のどちらが好きなのだろうかと悩むことになるのだが、きっとあの感情に比べれば些事だろう。