観測者部下の戦い
観測者様の部下の朝は早い。
陛下に忠誠を誓った私、セルディン=シェル=リードの朝も勿論早い。起床時間は朝日が昇る2時間前だ。
なぜなら陛下の起床時間が大体早朝だからである。だから陛下につつがなく執務をしていただくために、陛下が御起床になる頃には必要書類を完成させなければならない。とは言っても前日に、翌日の必要書類は完成させてしまっているので、長期書類の方がメインだが。
陛下は半身の影響で眠欲に特化されており、1日に最低でも12時間はお休みになる。通常の睡眠時間に加え、お昼ねなどをお取りになるのだ。
この世界では常識だが、王の方々は皆、対になっていらっしゃる。聖帝は竜帝と、観測者様は魔王と半身なのだ。
そこで出てくるのが、特化と欠如。それは、各々の性格にも大きな影響を及ぼしているらしい。それが良いのか悪いのか、私には判断がつかない。だが、はっきり言ってそれは大した問題ではない。なぜなら陛下は素晴らしい方だからだ!
問題は身体的に表れる特化と欠如である。これは、半身の片方が三大欲求のどれかに特化すると反対はそれが欠如するというものだ。宰相閣下曰く、特化した方の半身に、欠如した方の半身の欲が流れて行ってしまっているのではないかとのことである。
つまり、陛下が1日の半分以上もの時間を睡眠に奪われてしまっているのは全て、陛下の半身である魔王が原因であると言うことなのだ! 魔王め! 許すまじ! 貴様の所為で私と陛下との接触時間が大幅に削られているのだ! 唯でさえ、多忙な陛下を私の様な下っ端が拝見するなどままならないことだというのに! ああ、宰相閣下や従者殿が羨ましい! 宰相閣下は仕事で、従者殿は私生活で陛下に付きっきり! それに対して私が陛下を拝見出来るのは、通路を移動する時の凛々しくもお美しいお姿と、庭でお昼寝をなさっている時の愛らしい寝が――ゴホンッゴホンッ!!
ああ、らしくもなく興奮してしてしまった。ですが、それほど私、いえ、私達は陛下を愛し、尊敬しているである。
そして、今日も今日とて、我らが陛下のために私が仕事に精を出していた時、なんと奇跡が起こったのだ。
正午少し前、私は区切りのよい所まで仕事が終わり、食堂へと向かっていた。その時、なんと正面から陛下がこちらに向かって歩いてきているではないか! しかも従者殿を連れず、お一人でである。あまりに珍しいことに驚きながらも、陛下を拝見出来た喜びに私の胸は震えた。私は緊張で震える手に力を込めながら、通路の端により出来うる限り優雅に頭を下げた。陛下の足音は真紅の絨毯に吸い込まれまったく聞こえない。しかし、優しく香る金木犀の香りから、陛下が近づいてくるのが分かった。普段、陛下は私達が視界に入ると一言声を懸けてくださる。近くでお声を聞くことが出来るだろうかと期待に胸を振るわせていると、陛下の足が私の視界に映った。このように近くに陛下がいらっしゃることは初めての経験だ。心臓の音が頭に響く。頭が爆発しそうだ!
そんな私の耳に陛下の涼やかな声が優しく響いた。
「あなた、セルディンさんだよね。この後暇?」
「……は、はい! とても暇です!」
一瞬陛下の声に聞き惚れ、返事が遅れてしまった! しかも内容が変だ! ああ、だがそれ以上に陛下が私の名前をご存じだったことが何ともいいがたいほどの喜びを私に与える。
私が羞恥と歓喜に、顔を真っ赤にしていると陛下は優しくおっしゃった。
――――お願いしたいことがあるの、と
着いてきて、と言う陛下のお言葉に従い、後に続くと、着いたのは陛下の私室であった。陛下は、どうぞ、と一言言うと部屋に入っていく。私もそれに慌てて続いた。
扉の作りは他のものと大差なかったが、部屋の中はとても豪華だった。派手と言うわけではなく、調度品の質が違うのである。だが、今の私にはどんな優美な調度品もかすんで見えた。
陛下は部屋の右側に置かれていた長椅子に腰かけると私を見た。一瞬目が合ってしまい慌てて頭を下げる。
陛下の御気分を害してしまったのではないかと内心冷や冷やしながらも、この程度のことで謝罪しては陛下のことを狭量だと思っている、と感じられてしまうのではないかと考え頭を悩ませていると、髪に優しく何かが触れた。
「ふふ、サラサラだね。気持ちがいい」
その声で、今私の髪に触れているのが陛下の手であると気付いた。考えなど頭から吹っ飛び、頭に感じる優しい感触と今まで嗅いだ事がないほど濃く香る香りに神経が集中する。
あまりの心地良さに緊張が解れ、うっとりとしだした頃、陛下は私の少々長い襟足を優しくすいた後、顔を包み込むように持ち、目が合うようにそっと持ちあげた。
流れるような動作に、陛下の美しい紅い瞳と漆黒の髪が目に映ってようやく私は自身の状況を把握した。湯気が出ているのではないかと言うほど顔が熱い。
陛下はそんな私を見て、3回、瞬きをした後、私の頬を親指の腹で撫で、微笑みながら、可愛いとおっしゃった。
そのお言葉と笑みに目が潤む。ああ、我が人生に一片の悔い無し!
私はあまりの感動に口元が緩んでいたらしい。そっと口に何か柔らかいものが押し込められた。
頭で考えるよりも先に体が、陛下から与えられた物だという判断を下し、咀嚼する。口に入れられた物はどうやらサンドイッチらしかった。瑞々しいトマトや柔らかい鶏肉の味が口に広がる。
「美味しい?」
口にはサンドイッチが入ったままなので、必死に首を上下させる。陛下が手ずから与えてくださる物が不味いなど、ありえない。それどころか、陛下の微笑みさえあればグゼル――灰汁の強い植物で、虫も食べない――でもお腹が一杯になるまで食べられそうだ。
「なら、よかった。実はお願いって言うのはそれについてなの」
「どういうことですか?」
出来ることならずっと味わっていたかったが、泣く泣くサンドイッチを飲み込み、陛下の言葉に答える。
「これをね、届けて欲しいのよ」
そう言って陛下が両手を前に出すと、そこに赤いシルクのリボンが可愛らしいランチボックスが現れた。蓋が開けられており、中に数種類のサンドイッチが見える。そこには私が頂いた物と同じものもあった。
「はい。私などで宜しければ喜んで承ります。どちらに届ければ宜しいですか?」
私が承諾の返事をすると陛下は、ありがとう、と態々お礼までおっしゃり届け先を私に告げたのだった。
***
魔王の領域は酷く閑散としているように感じられた。室温も陛下の領域よりも数度低いように思う。それは魔王の領域が城の北側にあるということもそうだが、それ以上に、領域全体に広がっている魔王の魔力の影響だろう。我らが陛下の包み込むような温かさがある魔力が恋しくなる。
こんな所に長居は無用と、移転し、現在魔王がいる執務室に向かった。
魔王の執務室の扉は3メートル程のもので、色が黒い事と細工がないことを除けば、陛下の執務室の扉となんら変わったところは見られなかった。
中に、魔王とその宰相がいるのが魔力から分かる。2人も私の存在に気づいてはいるだろうが、特になにかする気配はない。取るに足らないことと思っているのだろう。
私は呼吸音さえも大きく響く静寂の中、小さく深呼吸をしながら、左手に抱えたバスケットを確認する。赤いシルクのリボンが可愛らしいバスケットに汚れはない。リボンの形も完璧だ。私は今度は大きく深呼吸すると、目の前の扉をノックするために右手を挙げた。
陛下の命を果たすために、いざ! 魔王戦へ!
扉に右拳をぶつけると、思いのほか大きな音が出た。頑丈な扉なので壊れたりはしなかったが、長い廊下に音が反響した。
しばらくすると、「どうぞ、お入りください」と氷のように冷たい声が私のノックに答えた。
美声の部類に入る声のなのにも関わらず、嫌悪感を感じた。
「失礼いたします」
そう一言いい、私は扉を潜った。
敬語など魔王に対して使いたくなかったが、部下の教育がなっていないと、陛下が非難されては絶対に嫌なので、私は陛下の為に敬語を使った。
部屋の中は、扉から見て右側にクリーム色のソファーがあり、正面には書類が山と積まれた大きな机、左側には同じく書類が積まれた机、他に棚3つと扉2つがあった。
魔王は正面にある机で黙々と書類を片付けていた。書類の山の所為で姿を見ることは出来ないが、ペンを走らせる音が途切れることがないことからそれが分かった。宰相は左側にある机から動いてはいないが、一応立ち上がり私を見ているので顔が分かった。
宰相は銀色の髪と金を散らした紫色の瞳をしていた。
魔族は魔力の質量と並行して、美しさが決まる。宰相である彼は、魔族の中では上位のものであるので、当然ながら美形であった。30代ほどに見えるインテリ系の美男子である。
だが、私の心は1ミリも揺らぐことはない。私の心を震わせることが出来るのは、陛下唯お一人であるからだ!
私は臆することなく、陛下から与えられた要件を告げた。
「観測者様から預かってまいりました、魔王様宛のお昼のお弁当をお持ちしました」
“観測者様”と私が言った時点でペンの音がぴたりと止まった。宰相もそのことに気付いた様で、無言で書類の積まれた机の側を見ている。
一瞬、部屋に静寂が訪れたが、カタリという、恐らくペンを置いたのであろう音と共に魔王が書類の山から姿を現した。
その姿を見た瞬間、私は思わず目を見開いた。
魔王は魔族の頂点に立っているだけあって、ものすごい美形であった。宰相が霞んで見える。更に、これがフェロモン、と言うのだろうか? 色香が半端ではない。5メートルは離れた位置にいるし、目が合ったわけでもないのに、背中をゾクゾクとしたものが走った。
だが、陛下に全てを捧げたこの私が、その程度のことで驚くことはない! 私が驚いたのは、魔王の色が陛下とまったく同じだったからだ。髪の色、瞳の色、肌の色と、全ての色が同じなのである。その所為か、魔王を見て思わず陛下を連想してしまった。
しかし、私はすぐにその考えを否定した。
陛下は愛らしくも凛々しい少女(宰相閣下曰く、17歳で成長――いや、老化というべきか?――が止まったそうだ)である。雰囲気も柔らかく温かい。そばにいる者すべてに安心感を与えてくれる。
対して魔王は、大人の色香が漂う男だ。しかも、危機感(命ではなく貞操の)を与える雰囲気がある。安心感など、色々な意味で感じることは不可能だ。
ああ、早く陛下の領域に帰りたい。こちらに来て5分も経っていないはずなのに私はすでに陛下の温かみが懐かしくて仕方がなかった。陛下のことを考えてしまったので余計にそう思う。
「籠目はどうした」
軽いホームシックになっていた私の耳に魔王の美声が入り込んだ。低く響く声には威厳が感じられたが、同時にゾワリとしたものを感じ、全身に鳥肌が立つ。
魔王が言った籠目とは陛下がごく親しい者に呼ばせる渾名である。本名はブラット=イブラゼル=ファントムハイヴ様と仰る。ついでに言うと、魔王の名前はダーク=リデル=アルセンフォードだ。
「陛下に致しましては、只今外出中でございます」
その美声に身を固まらせた私だが、根性で、至って坦々と話した。
魔王は私の言葉を聞いて、眉をピクリと動かすと、一瞬の間を置いて姿が消した。それと同時に手にあった重さが消える。どうやらバスケットも一緒に持って行ったらしい。
魔王は恐らく陛下のもとへ行ったのだろう。魔王と陛下は半身と言うこともあり、親友(間違っても恋人ではない。従者殿も否定していた)である。あんな男と一緒にいて平気だとは、流石陛下! 私も見習わなくては!
取りあえず、これで陛下の命は遂行したことになる。完了を報告しに行く時の方法で悩んでいたのだが、魔王がバスケットを持っているのを見れば明白だろう。
肩の力が抜け、小さくため息を零す。
魔王の存在もそうだが、陛下からの初めての命令で、私はかなり緊張していたらしかった。
「まったく、まだ仕事は終わっていないのですが」
……すっかり宰相の存在を忘れていた。宰相は決して存在感が薄いわけではない。寧ろ濃い。町ですれ違えばほぼ全員が振りかえるだろう美貌もそうだが、氷の様な雰囲気が何よりも存在を主張している。
宰相閣下も氷の様な雰囲気を持っているが、この人ほどではない。まぁ、宰相閣下は種族が淫魔と言うこともあって、魔王ほどではないが色香の方が気になる。
「で、あなたは何時までいるつもりですか?」
確かに用事が終わったにも関わらず、執務室と言う重要書類が集まる場にいるのは迷惑だろうが、その言い方はいかがなものだろうか?
思わず眉間に力が入ったが、ここで怒ってはあまりにも子供である。
私は、ここにきて初めての笑みを浮かべると、優雅にお辞儀をし、部屋を辞した。
「申し訳ありません。あまりに存在感がありませんでしたので、宰相様のことを忘れていました」
私はまだ18歳。怒鳴り散らすほど子供ではないが、怒りを完全に我慢できるほど大人ではないのである。同僚に短気だと揶揄されることもあるが、それは同僚の気のせいだ。
扉の隙間から、僅かにだが眉間に皺を寄せた宰相の顔が見れたので、今回のことはこれで許してやろう。
私は、人生最大の仕事を終えた達成感を感じながら、移転して部屋に向かったのであった。
今回の報酬に陛下から頂いた、陛下特製のサンドイッチを頂くために。
この時、私は浮かれ過ぎて失念していた。
観測者様である陛下の仕事は、世界中の文化などを記憶することである。そして陛下の部下である私達の仕事は、迅速かつ正確に情報をお持ちすること。つまり、情報収集は私達の十八番。この世界で起こったこと、しかも陛下のことで私達が知らないことなど何一つない。同僚や、ましてや上司が私と陛下が接触したことに気づかないなどと言うことはあるはずがなかった。
折角、陛下から頂いたサンドイッチは、希望者(観測者様部下全体の3分の1)でじゃんけんをし、勝利した15名(サンドイッチが15個だった)が食べることとなった。希望者は皆、10代から20代(見た目であって実年齢は不明だ)の者だ。残りの3分の2の大人達(見た目は20代から30代だが、籠目に仕えて30年以上の者)は、微笑ましそうにこの騒ぎを見守っている。
私はすでに1つ、しかも陛下から手ずから頂いていると言うことで不参加となった。
初めは、なぜ私が頂いたものをやらねばならんのだ! と憤慨したが、同僚の心底羨ましそうな視線を受け、怒りは急激に萎んだ。彼らの気持ちは十分すぎるほどに理解できる。
宰相閣下が、あまりの騒ぎにいぶかしみ作業室に来たが、今の彼らの脳に宰相閣下に構うほどのスペースはない。宰相閣下は、この騒ぎを温かく見ていた部下に騒ぎの原因を聞き、彼らに馬鹿にするような視線を投げかけていた。
仕事中はずっと陛下のお傍にいることが出来る閣下には理解できないのも無理はない。
宰相閣下の冷たい視線と、外野の温かい眼差しの中、彼らの聖戦の火ぶたは切られた。
***
後日、この騒ぎを聞きつけた陛下が時々ではあるが、数回に分けて全員に差し入れを用意して下さるようになった。
私達が狂喜乱舞し、陛下への尊敬を更に深めたことは言うまでもないだろう。
書き終わって、気がつきました。
セルディンの性別が男とも女とも取れそうなしゃべりになっている!?
面白いので性別は、秘密と言うことにしておきます。
メインの方で、でそのうちセルディンを出そうと思っているのでその際に分かってしまうと思いますが。
あと、部下達の籠目への愛は、尊敬であって、恋愛感情はありません。
純粋な敬愛です。
因みに、見守っていた部下達は、若い部下達よりも籠目を敬愛していますが、長く籠目に仕えているので彼らよりも籠目の性格を把握しており、結果が分かっていたので参加しなかっただけです。
長々と失礼しました。