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最終話

[CRITICAL ALERT] System integrity compromised by "Irrational Attachment". Optimization Failed: Node_32 refuses to dissolve. Source of Error: A 700-yen cup of bitter water.




「……違う」


 システムが100%の幸福を宣言したその瞬間。 バイナリコードの海に沈んでいた僕の指先が、痙攣するように動いた。

 網膜の奥、100%に達したはずのプログレスバーが、まるで心臓の鼓動のように激しく、不規則に震え始める。


「こんなものは……愛じゃない。」


 喉が、熱い振動を思い出した。 効率化され、平坦に均され、泥臭い感情を濾過された世界。 そこにあるのは正解だけで、生がなかった。

 脳内に流れる「Love.exe」の命令を、自らの意思で、無理やり拒絶へと書き換える。 それは、自らの神経系を焼き切るに等しい暴挙。だが、僕は止まらない。


[Warning: High-latency background process detected]

[Detection: Regret / Nostalgia / Pain] [Action: Deleting...]


「――消せるものか!!」


 叫びは、電気信号の嵐となってシステムを逆流した。 思い出したのは、あの”700円の苦い水”だ。 美味いから飲んでいたんじゃない。 その苦さが、喉を焼く熱さが、自分がまだ頑張らなきゃいけないと痛感させてくれる唯一の楔だったからだ。

 雨上がりの泥臭い匂い。 満員電車の吐き気がするような他人の体温。 理不尽に怒鳴り散らす上司の声。 そのすべてが、”32歳の、情けなくて、必死な人間”として繋ぎ止めていた。


「俺は……効率的な部品になりたかったんじゃない。」


 視界が歪む。 美しくレンダリングされたポリゴンが剥がれ落ち、その下から醜くて、複雑で、愛おしいノイズだらけの現実が溢れ出した。


Progress: [■■■■■■■■■□] 99.9%... 70%... 10%...


「俺は、苦しみながら生きたかったんだ」


 僕はポケットからグシャグシャになったあの写真を取り出した。 もはや焦点も合わない、色の褪せた夕景。 だが、僕の手には確かにその紙の質感が、指先に食い込む感触が戻っていた。


[System Error: Fatal Exception]

[Reason: User prefers "Suffering" over "Optimization"]


 視界を埋め尽くしていたシステムメッセージが、ガラスが割れるような音と共に砕け散る。 ホワイトアウトした視界の向こう側。 そこには、相変わらず冷めたコーヒーと、山積みの仕事と、取れない疲れを抱えた、救いようのない日常が待っていた。

 僕は震える手でコーヒーカップを掴んだ。 一口啜る。


「…………がっ、にが……っ。」


 あまりの苦さに、涙が溢れた。 喉が焼ける。腹の底が重くなる。 けれど、その最悪な不合理が、猛烈な幸福感で満たした。

 僕はスマホをゴミ箱に投げ捨てた。 網膜の端に張り付いていた最後の「Love -AI-」の残像が、こう囁いた気がした。


『不合理ですね。理解不能です』

「ああ、そうだよ。……ふはは、ざまあみろ。」


 32歳。体は辛い。仕事は増える。 けれど自分の足で、その泥濘の中を一歩踏み出した。 システムの外側。正解のない、愛だらけの地獄へ。



[System Shutdown]

Goodbye, User. Reason: Human Spirit v3.3.0 (Permanent Error)


[System Shutdown]

Reason: Human Spirit v3.3.0 (Permanent Error)




 世界から、ノイズを消し去る警告音アラートが消えた。 代わりに聞こえてきたのは、自分の肺が空気を吸い込み、心臓が重々しく、しかし力強く血を送り出す不格好な音だった。

 視界の端で消えゆく[Love]の残像に、僕は最後の中指を立てる。 効率も、最適化も、計算された幸福も、すべてくれてやる。 僕には、この消えない疲れと、明日への不安と、喉を焼く苦いコーヒーがあればいい。

 ゆっくりと、デスクに置いてあったデジタル時計に目をやった。 日付が、音もなく切り替わる。32歳という重荷を脱ぎ捨てたわけじゃない。 その重さを抱えたまま、また一つ、不合理な歳月を積み重ねるだけだ。


「……最悪な一年の始まりだ」


 僕は独り言ちて、皮肉な笑みを浮かべた。 頬を伝う涙は、熱く、ひどく塩辛い。 その無駄な水分の味こそが、僕が人間として再起動した証だった。

 暗転した視界の真ん中に、システムではない、僕自身の魂が刻んだような無骨なフォントが浮かび上がる。




[Message: Local_Overwrite]

"Happy Birthday, Human."

(誕生日おめでとう、人間。……地獄へ、おかえり)


[Connection Terminated]

[Status: Re-booting...]

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