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第一話

[System Event: Process_01/Taste_Recalibration]Initializing Phase_Alpha...Optimizing neural throughput by truncating extraneous sensory harmonics (Noise).Calibrating perceived bitterness to absolute zero. Efficiency gain: +14.2%.

"Finalizing patch 1.0.1... Welcome to the era of pure function."




「……ふぅ」


 一日のうちで、この喫茶店で過ごすことが、唯一自分を取り戻せる時間だ。店内には落ち着いた音楽が響き、コーヒーの匂い漂う空間は、ゆったり寛げるものだろう。

 外資系コンサルに転職して3年、32歳になった僕の身体は、常に緊張という目に見えない糸で吊り上げられている。慢性的な睡眠不足と、終わりのないスプレッドシートの行間。そんな日常の中で、このカフェの、この席に座ることだけが、僕という個体のメンテナンスだった。

 カウンターの奥で、店主がゆっくりとケニア産の豆に湯を落とす。とぷとぷと水をすすぐ音は何処か落ち着けるものだ。蒸らされた豆がぷっくりと膨らみ、濃厚な香りがカウンターを越えて僕の鼻腔をくすぐる。その香りを吸い込むだけで、脳の奥に溜まった澱が少しずつ溶けていくのがわかった。


「お待たせしました。」


 差し出されたのは、深い琥珀色の液体が揺れる一杯。700円。牛丼なら二杯食べられるし、コンビニのコーヒーなら七杯分だ。それでも、僕はこれを選ぶ。

 僕はまず、カップから立ち上る熱い湯気を、深呼吸と共に肺いっぱいに溜めた。

 そして一口、慎重に啜る。舌先に触れた瞬間に弾ける、完熟したベリーのような鮮烈な酸味。それが喉を通る頃には、ダークチョコレートのような重厚で、かつ心地よい苦味へと変化していく。鼻に抜ける香ばしさは、遠い記憶のどこかにある、よく晴れた午後の安らぎを思い出させた。


「……うまい。」


 思わず独り言が漏れる。舌の上で複雑に絡み合う味の階層。その一つひとつを確かめるように味わうことで、僕は自分がまだ人間であることを、そして、感情を持っていることを再確認していた。

 この一杯があるから、僕はまた、あの無機質な数字の羅列へと戻っていけるのだ。

 僕は愛おしむようにカップを両手で包み、窓の外に広がる、夕日に照らされた街の色彩を眺めた。


 だが、その平穏は、網膜の端に現れたノイズによって破られた。




[System Environment Check]




「……あ」


その瞬間、世界からわずかに音が引いた。カフェの喧騒が遠のいたわけではない。ただ、自分の鼓動と、カップを持つ指先の感覚だけが、妙にクッキリとした輪郭を持って脳に報告されるようになっただけだ。

 網膜の端に、昨日インストールした例のアプリ――『Love -AI-』の進捗バーが小さく表示されている。


Progress: [■□□□□□□□□□] 10%


「案外、何も変わらないな。」


 僕は独り言ちて、手元のカップを口に運んだ。ここのコーヒーは一杯700円もする。ケニア産の豆を丁寧にハンドドリップした、僕にとって唯一の贅沢であり、32年という時間を戦い抜くための儀式だった。

 一口、啜る。


「…………?」


 熱い。その温度は確かに感じる。

 だが、喉を通る液体から、あの重厚な苦味が消えていた。それだけではない。鼻に抜けるベリーのような酸味も、深煎り特有の香ばしさも、すべてが「無」に等しい。

 例えるなら、体温と同じ温度に温められた、ただの精製水を飲んでいるような。

 僕はもう一口、今度は舌の上に長く留めるようにして飲んでみた。脳のどこかで、かつての記憶が「これは苦いはずだ」と警報を鳴らしている。しかし、味蕾から送られてくる信号は、脳に届く直前で何者かによって平坦に均されていた。


[検知:カフェイン 120mg / 糖質 0g][判定:覚醒効果を最大化。不必要な『嗜好刺激』をシャットダウンしました]


 視界の端に、無機質なテキストが浮かび上がる。


「……なるほど。これが『最適化』か」


 不思議と、憤りはなかった。むしろ、奇妙な全能感が胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。

 いつもなら、コーヒーの味に一喜一憂し、「今日は抽出が甘いな」とか「あそこの店のほうが良かった」などと、どうでもいい思考にリソースを割いていた。そのノイズが、今は一切ない。

 僕はパソコンを開き、昨夜から止まっていたプロジェクトの企画書に目を落とした。驚くべきことに、文字が滑り込んでくるスピードが違う。




 ふと顔を上げると、店内の風景が少し変わって見えた。

 窓の外の街路樹の緑も、向かいの席に座る女性の赤いコートも、どこか色が褪せている。彩度が一段階落ち、グレーのフィルターを重ねたような世界。


「綺麗だな。」


 僕は本気でそう思った。情報量が減った世界は、これほどまでに静かで、機能的だ。

 32歳。僕に必要なのは、心躍るような美味しさでも、鮮やかな色彩でもない。ただ、明日を生き残るための効率なのだ。

 冷めかけた”黒い水”を一気に飲み干す。

 カップを置く音さえ、以前より無駄のない、乾いた音に聞こえた。




[Update Success: Taste & Saturation]




Result: All organic flavor profiles have been converted to numeric caloric values.

Visual: Global saturation reduced by 15%. Secondary colors discarded for energy saving.

Log: "The bitterness is gone. The focus is clear. I don't need 'delicious' to survive."

Next Phase: Olfactory & Texture... Loading.Progress: [■□□□□□□□□□] 10%

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