晴天の宝物
とある漁師町で、兄カイトと妹エリナは汗を流しながら漁をしていた。
前日の雨に洗われた町は、宝石を散りばめたかのようにきらめいている。
「兄さん! 今日は大漁だね!」
「あぁ。有難いな」
カイトは黙々と網を引いていたが、思いがけない大漁に、張りつめていた表情がわずかに緩んだ。汗をぬぐい、魚を手際よく船上へと放り上げていく。
網を引き切った、そのときだった。エリナが短く息を呑む。
「あ……!」
七色に光る大きな宝石が嵌め込まれたペンダントが、指先をすり抜け、海へ落ちた。
カイトは苦笑し、「またか」と言わんばかりに肩をすくめると、そのまま海へ身を投げた。
この辺りの海は深い。重いペンダントは、暗い暗い海の底へ、光を引きずりながら沈んでいく。
水中は、地上よりもなお眩しく、同時に胸騒ぎを覚えさせた。サンゴに引っかかったペンダントが、星のように瞬いている。
それへ手を伸ばした瞬間――。
真っ青な海蛇が、ぬうっとサンゴの隙間から姿を現した。
カイトは反射的にペンダントを掴み、岩肌を蹴って船へ戻ろうとする。だが海蛇は大口を開き、喉を鳴らして噛みついてきた。
「……チッ、まずいな」
腰のナイフを抜き、自らの太ももを浅く切る。次の瞬間、脚はみるみる鱗状の皮膚に覆われ、背骨のあたりから鋭い背びれがせり出した。
それでも海蛇は執拗だった。胴体が絡みつき、力任せに締め上げてくる。
息が詰まり、視界が揺れる。その刹那、もがく腕が偶然ナイフを振り抜き、海蛇の体を裂いた。
わずかに緩んだ拘束。カイトはそれを逃さず、全身をしならせて脱出する。
勢いよく泳ぎ出すと、もう止まらない。魚のように水を切り、追いすがる海蛇を一気に引き離す。浜辺で遊ぶ子供たちの笑顔が脳裏をよぎり、さらに速度を上げた。
魚人化したカイトは、胸いっぱいに海水を溜め、喉元の鰓から一気に吐き出す。その姿は、まるで鳥が水中を翔けているかのようだった。
彼は海蛇を掴み、そのまま海上へ躍り出る。
「グアアアアア!」
咆哮が空を裂く。だがカイトは構わず、太陽へ向かって海蛇を投げ放った。肺に溜めた海水を限界まで圧縮し、刃のように吹きつける。
水は一閃となり、海蛇の胴体を断ち切った。
それでも首だけとなった海蛇は、怨嗟を宿した瞳で迫ってくる。
カイトはヒレの生えた脚で海面を踏み抜き、叩き落とした。
―――――
海上では、エリナが兄の帰りを待っていた。しかし、いくら時が過ぎても船影は戻らない。
近くで漁をしていた者たちが異変に気づき、エリナを連れて陸へ上がった。
その夜は満月だった。海は異様なほど静まり返り、胸の奥に冷たいものが差し込む。
漁師たちは手分けして捜索を続けたが、カイトの姿は見つからなかった。
陸では、村長とその妻が、泣き崩れるエリナを必死になだめている。
「エリナや。大丈夫じゃ」
「そうよ。カイトは強いわ。少しくらい沖へ流されても、きっと助かる。どこかの島に辿り着いているはず」
「……兄さん。無事でいて」
その夜、潮の満ち引きの音すら聞こえなかった。林の虫も、鳥も、息を潜めたように沈黙している。
やがて、扉を激しく叩く音が響いた。
「村長様! いらっしゃいますか!」
「村長様!」
「なんじゃ、騒々しい」
「虫も鳥も鳴いておりません! 波が……潮が、止まっております!」
「なんじゃと……!」
「すぐに村の者を集め、山小屋へ避難させるのじゃ! 急げ!」
「近隣の村々にも知らせるのじゃ!」
ほどなく、ギャイン、ギャインと鐘が鳴り響き、村人たちは教会へと集められた。
村長は声を張り上げる。
「竜神様がおいでになる! すぐに避難せい!」
人々は家財も顧みず、我先にと山へ駆け上がっていった。
―――――
一方、カイトは近くの無人島に身を寄せていた。
魚人化してしまうと、しばらくは元の姿へ戻れないらしい。
ペンダントを強く握りしめ、岩に腰掛け、満月の浮かぶ海を見つめる。
そのとき、大地がうなりを上げた。瞬く間に海が荒れ、遠くの山が崩れ落ちる。空では稲光が連なり、夜を白く裂いた。
「……まさか……」
思考が追いつくより早く、山をも呑み込みかねない巨躯が、海面を割って現れる。
大海蛇だった。
ぎらつく眼光が、カイトを射抜く。
「貴様。真っ青な海蛇を見なかったか」
圧倒的な威圧に、喉が鳴る。カイトはとっさに嘘を選んだ。
「……いいえ。見ておりません」
「そうか。では、これは何だ」
光に包まれた球体が、海中から浮かび上がる。その中には、青い海蛇の首が収められていた。
「……申し訳ありません。私が、殺しました」
「ほう。我に嘘を申すか」
「その海蛇は、我が子だ」
「待ってください!」
叫びと同時に、水平線の彼方に、天を遮るほどの水の壁が立ち上がった。
大海蛇は低く、呪うように言葉を紡ぐ。
カイトは背を向け、漁師町の方角へ走った。
だが辿り着くことはなかった。天を衝く大波がすべてを呑み込み、町は跡形もなく消え失せた。
―――――
ガツン。ガツン。
鈍い痛みで、カイトは目を覚ました。体が、鉛のように重い。
子供たちが、彼に向かって石を投げていた。
「こら、やめんか!」
村長が前に立つ。周囲には、力を失った村人たちの姿があった。
村長は、絞り出すように言う。
「カイトや……すまん。わしらでは、どうにもならんかった」
「村も……このありさまじゃ。それに……エリナが……」
「エリナが、どうした!」
「エリナは……大海蛇様のもとへ行った。すまん……すまんのぉ……」
なぜ、行かせた――。
その思いが胸を貫いた瞬間、視界が滲んだ。
見上げた空は、雲ひとつない晴天だった。
カイトの胸中では、怒りが雷鳴のように轟き、
握りしめたペンダントは、血が滲んだかのような色に光を放っていた。




