大空と最後のエール
「ダラァァァァァッ!!」
轟音が酒場に響いた。
姫の拳が壁を粉砕し、砕け散った石片が向こうの肉屋の壁をぶち抜く。
吹っ飛ばされた大柄の漢は、奥の肉塊の陰で震えていた。
「姫様!もう勘弁してください!! 本当に酒癖が悪いんだ……! 店を壊すの、これで何度目ですか!」
呑んだくれの姫は、気品はあるのに酒癖だけが最悪で、気性も荒い。
女はグラスを片手にくるりと振り返った。
「クリフ。帰るわよ」
「姫……。鬼神王様のお耳に入れば、今回ばかりは……」
「心配いらないって言ってるでしょ。あんたの心配することじゃないわ」
クリフ――眼鏡に白手袋、鷹の刻印が入ったステッキを持つ端正な青年――はため息をひとつつき、胸元から金貨を十枚取り出してカウンターに置く。
「亭主。度々申し訳ない」
「いくら姫様でも三度目です……さすがに、もう……」
「わかっている。だが偃月会の件もある。今日だけは頼む」
亭主は頭を抱えたまま呻いた。
「……なんで引き受けちまったんだ……。とにかく今日はお引き取りを」
姫はむすっとしながら残りのエールを一気にあおる。
「クリフ、遅い!」
「只今」
クリフはステッキで石畳をコンコン、と小突いた。
瞬く間に彼の身体は羽に包まれ、巨大な大鷹の姿へと変わる。
「姫様、どうぞ」
「遅いって言ってるでしょ!」
姫はふわりと大鷹の背にまたがり、鷹は勢いよく羽ばたいた。
地面を蹴り上げ、次の瞬間には満月の夜空へ舞い上がっていた。
星は満天に散らばり、黄金の月は手を伸ばせば掴めそうだ。
「クリフ、気持ちいいわ! もっと飛ばして!」
「御意」
大鷹はさらに速度を増し、王城へ向かう。
***
城では、鬼神王が“黄玉の間”で苛立ちを募らせていた。
フードを被った老人が静かに進み出る。
「鬼神王様。姫様が戻られましたぞ」
鬼神王――片目が潰れ、顔の半分が爛れ、ゴブリンのような禍々しい容貌。
上半身は裸で、腰には竜皮の腰巻。王座には金棒が立て掛けられている。
姫は堂々と大広間に踏み込んだ。
「父上、今戻りました!」
大鷹は着地と同時に人の姿へ戻る。
王はクリフへ視線を向けると、低く問う。
「……クリフ。貴様、余に仕えて何年だ」
「二十三年と半月でございます」
「そうか。……大鷹となり、夜空を飛ぶ気分はどうだ」
「最高の気分でございます」
「では――世に貴様の羽をくれ」
静寂。
クリフの表情がわずかに揺らぐ。だが、迷いはない。
「御意にございます」
彼は左腕を右手で掴み、ミシミシと音を立てながら自らの翼を捧げようとした。
姫は悲鳴を上げる。
「お父様、おやめください! 悪いのは私です!」
だが王は無言で指をひと振り。
次の瞬間、クリフの左腕は根元から弾け飛び、宙を舞い、フード男の足元に転がった。
「クリフ!!」
姫が駆け寄るが、すでに虫の息だった。
王は淡々と吐き捨てる。
「クリフ。貴様、姫の面倒も見れんのか。街の者が手を拱いていたと聞くが……相違ないな?」
「……相違ございません……」
「そうか。ならばこれが最後の餞別だ」
王はクリフの頭蓋を掴み、そのままバルコニーへ引きずった。
次の瞬間、
金棒が魔力を帯びて唸り、
クリフの身体は――まるで壊れた木偶の坊のように――夜空へ吹き飛んだ。
姫は泣き叫び、震え崩れる。
王はその娘を見下ろし、呟いた。
「哀れよ。我が娘。この世界の子であり、次代の女王でもある……その器、見せてみよ」
フードの老人が一歩進む。
「……グローワーム・ケイブ……」
老人の口元が裂けるように笑い、呪詛を吐く。
姫の足元に五重の魔法陣が現れ、ドス黒い光が彼女を包み込んだ。
王は裏庭へ向かうと、
樹齢一億年とも言われる世界樹を――ただ虚無のまま――金棒でフルスイングした。
夜空は白ばみ、光が瞬き始めていた。




