初雪
〇
「た、単位落とすの怖くないんですか」、と、僕はのんきにあくびをしている彼女の、白いスニーカーをすぐに履けるようにくるりと向きを正して置いてあげる。「いやわたしには合わなかったというか、はわ、自分の博識をひけらかすおとなって無理だよー」、と間延びした口調で話す彼女は、なんと今日に迫った期末試験のうちの一つ、『基礎心理学』の科目を”捨てる”らしかった。
大学に運よく受かってから間もない、前期試験で、僕は何一つ単位を落とすつもりはなかった。
だから彼女の考えが僕には理解できないというか、本当に僕とはちがう価値観を持っているのだなと、むしろ感心した。「なんか”ユキサン”、達観してますよ、ふつう、たぶん、単位落とすってなったら、怖いですよ」、と僕が玄関の扉を開けると、「いやそれくらいで怖くなるほど単純じゃないよ」
そう言って、彼女はのそのそと、両方のスニーカーにようやく足を入れて、「それに来週から夏休みなんだからさ、君のその、超マジメな感じのほうが怖いよ」、と続ける声には、なんの動揺もあらわれていなくて、僕は徹夜して覚えた単語を頭でくりかえす自分の焦りぐあいのほうが間違っている気がしてきて、何が何だかわからなくなった。「そろそろ急がないと、遅刻したらまずいですよ」
「あ、でも、ノートはありがとう。サボってたぶん見せてもらえて助かった」「いえいえ…」「わたしも、心理学以外は落とす気ないから」「はい」「それにしてもノートめっちゃ見やすかった字がすごい」
カバンのとってに腕を通す彼女から、日焼け止めの匂いがする。二人で海に行きたいとか思う。
今年の夏の暑さは異常で、ただでさえ朝の弱い彼女と、これからちゃんとやっていけるだろうかと先が思いやられる。
…はやくきりっと目が覚めた美人な彼女に”会いたい”し、はやく冬になってくれたらいいとも願う。
ネットニュースを確認すると、全国で熱中症による病院への救急搬送者がすでに一万人を超えたという報せが、目にとびこんできた。それを彼女に伝えると、「どうせ大半が、高齢者とかでしょ、わたしたちには関係ない」、とすこし鼻にかかるような声で言い返された。僕はそのとき冷たいなと思った。そんなことまで言わなくてもいいのではないかと思った。だけど、彼女がときおり見せるそんな冷たさには理由があった。
〇
彼女の名前は節野優貴といった。
その「ゆき」という音にちなんでだろう、「あの…、高等学校では、雪女と呼ばれていました」、と、今年の春に行われた【新入生歓迎コンパ】で優貴が挨拶をしていた光景を、僕は懐かしくおもう。
そのとき対面していた同じ一年生も、後ろのほうにいた先輩たちも、みな優貴の”顔”をみて息をのんでいたに違いない。
雨女でもあるのだけど、ほらゆきって名前ですし、あと冬になれば雪が降るので、そう呼ばれていたのだと思います、みたいなことを、ひとつひとつ恥ずかしそうに声にだす優貴の表情に、僕は、一目惚れをした。本人は、場を和ませようと頑張っておどけていたのだろうけど、なるほど雪女か、と僕には納得してしまう部分もあった。
優貴はとにかく色が白く、そこに黒い髪がはっきりと際立ちすぎて、やや目が痛いくらいだった。
なんだか将来は有名人にでもなりそうな予感がした。
そんな精巧な美術品みたいな優貴が、まさか以前から、僕のことが気になっていたなんて思いもしなかった。
僕は字を書くことが好きで、大学では書道のサークルに所属した。優貴は映像研究のサークルを選んだ。
優貴はことあるごとにカメラを構えて【今の世界】を撮りだめていた。その、色々なサークル同士(他にどのサークルが参加していたのかを今はほとんど思い出せないけれど)の合コンの帰り道で、
「好きです、友達になってもらえませんか」、と僕は優貴に告げられたのだった。
僕は二つの意味でどきりとした。
一つは、こんなにも可愛らしい女性に、人生で”初めて”好意を伝えてもらえた嬉しさだった。
もう一つ。…
それは、合コンでさっきまで見せていた恥じらうような表情とはうって変わって、優貴がとっくに、冷めたような目になっていたという、かすかな怖さだった。
「これからいつか、別れることになるかもしれないけど、お願いします」
優貴の口紅で鮮やかに赤くなった口もとがゆっくりと動いた。
「いやそんなことは別に言わなくてもいいと思いますよ」
と、僕は言いかけたけれど、
「こちらこそお願いします」、やはりそういう言葉を選んで、僕は優貴と手を繋いで駅まで歩いた。
夏の日は長い。その日は午後八時を過ぎるまで空は暗くなりきらなかった。
今はアスファルトに伸びる頭一つぶん低い優貴の影すらも、愛おしく感じられるほどだった。
〇
「変化するのと現状維持ならどっちとる?」、と優貴が、部屋の窓から雨を眺めながら座っている。
僕はぼうっとエアコンの冷房の風を受けながら、「そういえば、優貴は”雨女”でもあるんだっけ」、などと、僕は絶対に言わない。
「いやその変化っていうのは、何のことを指してるんです?」人間関係? 季節? 自分の性格?…
僕も優貴のとなりで本降りになりだした雨を見ながら、変化変化と頭を悩ませていると、そういえば優貴と僕がこうして、おなじアパートを借りて当たり前のように同居をしているというのも、以前の暮らしからは予想ができなかった、一つの”変化”ではあるかなと、僕は偉そうなことを想像した。
ただしそれは自然と状況が、偶然にもそこに移り収まったというだけの話で、けして僕の意志が揺らぎやすくなったとか、僕自身がどうしても、”変化”というものを望んで手にしたかった、というような話ではない。
僕はなぜか、今の自分の考えというものを、強く保ち続けたかった。
久々にそこに気がついた。
ざあっと外の雨音が聞こえるほど、部屋の中は無音だった。それでも優貴との日々は、気まずい空気とは無縁で、それぞれの生活をそれぞれが尊重しあえていて、やはり優貴のことを想う気持ちは、今もなお僕のなかに熱くともっている。
「僕はやっぱり現状維持ですね」、そう、整えた声で言いながら、僕が振り向いたとき、そこにいたはずの優貴はいなかった。僕はすこし恥ずかしくなった。なぜか優貴はカメラで台所の壁を撮っていた。クリーム色の暖色系の壁には、今朝はがし忘れてしまっていた昨日のままの日めくりカレンダーが掛けてある。
「え、なにか言った?」
靴下に吸収された足音を聞きながら、僕はカメラを持って近づいて来る優貴にもう一度、「ぼ、僕だったら、それはもう、現状維持を選びますよ」、と、かなりカタコトになりつつ口にした。
僕の心臓がはやく動いた。本当はさっきみたいに自然に格好をつけて言いたかったのに。僕はまだ、優貴の前だけでは嘘でもかっこいい人でいたいのに。
じーんと熱くなった僕は、ネコにも似た優貴の目鼻をみることができない。
ただ、僕の顔につうっと汗が流れた。
とつぜん遅くなったような時間の流れが鬱陶しく、
じめじめとした湿気が憎らしく感じた。
熱い熱いと思いながら、僕はテーブルにあったコップのむぎ茶をいっきに飲み干した。
「あ」、と思った。
思った時にはおそかった。「それわたしのコップなんだけど」
酷暑が飛来した。僕にだけに今、一瞬でうるおったばかりの喉がかわく。脇腹にぬるい汗が伝う。
「はじめてのキスが間接キスとかね。つまらんね」
え! ちがうそうじゃない、というか、またそんなこと、言わなくたっていいじゃないか。
「い、ち、がう、ちがうちがいます、あつい暑いですね、ほんとはやく冬になればいいんですけどね」
本当にはやく! この瞬間にも、このじりじりとした暑さから抜け出したい。はやく、なんで優貴のコップのマークが見えなかったのか。涙出そう。はやく雪でも降らせて冬にしてくださいよもう。…
”雪女”だったら。…
俺の顔はいま相当真っ赤であるにちがいない。
「いいね」
「……………」
「わたしは、どう願おうと、変わってしまうから、だからどっちでもいいと思うようにしてる。さっきの話」
そう、珍しく初めて出会ったときのように、ほんのすこし頬を赤らめながら、優貴は口を動かした。
ぱしゃ、と優貴が構えたカメラから音がした。それ以来優貴がその表情を見せることはなかった。
〇
『ほんとはやく冬になればいいんですけどね』、僕がそう優貴に言い放ったあの日のことを、うっすらと思い返しながら、僕はというと、夜の空を見ていた。よく澄んだ空の星は、まるで生き物が呼吸をするように、生々しく瞬いており、次の瞬間には、すべてが白い線になって降ってきそうなほどの、存在感を放っていた。ふるえる僕は隣でつないでいる優貴の手の温かさに、意味もなく感動をした。このまま全人類が消滅しても、優貴と二人きりなら安心して生きていける気がした。
僕は優貴をみた。
優貴も僕をみていた。
「星きれいだね、すごいね」、と優貴があえて驚きをおさえるようにして言う。
「いや優貴さんのほうが綺麗ですよ」
…なんて言おうかと迷った。けれど、そもそも僕は、そんなことは絶対に言わないようにしている。
優貴の前では。…
だけどこの頃の僕には、ほんとうに優貴に言うべきかどうかを、迷っている悩みの種があった。
それは日が経つにつれて、膨らんでいき、このままではぱんぱんになってしまいそうだった。
遠慮という名の空気で。
僕たちは恋人同士なのか。それともまだ友達のままの関係なのか。
優貴自身はそういうことを考えてくれているのか。
たとえ真剣でも、ふざけていても構わない。とにかく僕のことをどう思っているかを、聞いてみたかった。
そしてこれから先も、”今の関係”は続いていくのかどうかを、純粋に知りたかった。
けれど。
もし、優貴にそれを聞いて確かめてしまったら、”風船”は割れてしまうのだろうか。
この、純粋な子供のような気持ちは、永遠に胸の底に隠しておくべきだろうか。
僕は、自分たちがいま夜と名付けられている”時間”に、”バス停前”と呼ばれているこの場所に、ふわふわと、さまよっているような想いがした。それを確かめることは罪なことのように思えた。
ただし、今はたとえ友達でも、恋人同士でも、そのどちらであったとしても、永遠に優貴とは別れたくないという気持ちがある。仕事したくないけど、仕事しながら、あわよくば夢だった書道家になり食べていきながら、優貴と一緒にいたい。そんな未来を思い描く自分が幼稚に思えて情けない。
そういう、”夢”といえば聞こえのいい幼い願いを、いつか優貴と話せる日がくるだろうか。
いや、話さなければならない日が来るのだろうな。
そういえば夜になるとずいぶんと涼しくなった風が、優貴の腰のあたりで切り揃えられたままの髪をゆらしたとき、「そういえば君は、将来何になりたいとかあるの」、と、よく通った声がして、僕ははっとなった。
「将来というのは、それはつまり”夢”の話ですかね」僕は暗くてよく見えない優貴の横顔を見た。
「何でも。今、空にある星が、アシタの光で消えるでしょ? それからの話。みたいな感じ」
「みたいな感じ。…そんなことを優貴さんはいつもお考えですか」
「うん」、と言って頷きながら、優貴は僕の手を放した。ゆるゆると明後日の方向へ歩いた。夜の闇の中、どこからかカメラを(それはカメラであろう黒い影にしか見えなかった)をとりだし、「今はね、見えるよね、はっきりと、美しく」
「今は、ですか?」
「そうそう、夢というか、このさき”そうあって欲しい”っていう願い、みたいなね」、優貴はまるで子供を諭すような優しい声でそう言った。一拍おいて、ぱしゃ、という音が夜の静寂に響きわたった。
「え、今のは、星を撮ったんですか?」、と僕はまるでAI生成の偽物の画像のように、あまりに綺麗な星空を見上げていた。その首を、下に向け、ぐっと息をのんで、覚悟を決めて、優貴に迫った。
「撮ったよ」
「僕と優貴さんは、今、友達なのでしょうか、それとも、こ、恋人同士なのでしょうか」、声が震えた。
「好きだよ。私は。今の君には、もどかしいかもしれないけれど、私は今の”友達以上、恋人未満”みたいな関係を、続けていたいよ」、優貴の声も震えていた。
本当にこの人は、僕と同い年なのかと、僕の頭は勝手に自分の平凡な人生を振り返りはじめた。
そして。
このときの僕は、優貴の言葉上の矛盾にばかり気を取られてしまった。
このあいだ優貴は現状維持よりも、変化をとる―?―みたいなことを言っていたし、そもそも、
「そんな、友達でも恋人でもないという、いっそう見えずらいものを、維持するなんて、できますか?」
「そうだね。難しいね…」優貴のカメラを持った腕の影が、ぶらんと下におちた。「”今はそう信じていても”、変わっていってしまう。月並みな言い方だけど、状況次第でね。もうね。気持ちも、ね」
「僕は絶対に優貴さんのことを好きでい続けます。今の気持ちだって忘れません」心臓が跳ねる。
「ありがとう。私も好きだよ」
何が、
…ですか?
「やっぱり夜でも、あつくなってきましたね。そろそろ部屋に戻りませんか」
「私も熱い。キミに今告白されちゃったからね、苦しいくらい熱いよ」
「あ、いや、だから、いつもいつもなんでそういうこと言うんですか」
「わたし”雪女”だから、今から雪でも降らせちゃおうかなー」、優貴の声は久々に笑っているようだったけど、僕には暗がりでその表情がみえない。優貴は両手を広げて、満天の星を見上げた。
「はい」僕はだせる限りの優しい声をだした。「暑いのは嫌なんで、冬にしてもらえると助かります」
「冬になっても?」、なぜかものすごく声が、高くて、僕の何かを試しているような声が飛んでくる。
「あの、さっき撮っていた星の写真、こんど見せてくださいよ」、実際に、それは気にはなった。
「機会があったらね。いいよ」
おなかすいた、と呟きながら優貴は僕の前を歩いていく。
でもまあたしかに、落ち着いてみると、だいぶ外も涼しくなった。靴のうらで踏んだ葉っぱが、わずかに、かりと音をたてた。僕はすぐに優貴の真横にならぶ。しかし”告白”の件で動揺していたのだろう、僕は不覚にも、習慣にしていた、「優貴と手を繋いで歩くこと」をすっかり忘れてしまっていた。
この日も僕たちの関係は、ふらふらと友達と恋人のあいだを往ったり来たりするだけだった――
と、その日の締めくくりの一言みたいなことを妄想していると、どこかで子供の泣き声がきこえた。
「あーあ」、とため息をつく優貴が向いているほうを、ちらりと見ると、夜空に風船が浮かんでいる。
なんかよくわからないけれど、今、「冬になっても?」、のさっきの優貴の言葉をもしも否定したら、その瞬間に僕にはあの風船を割ることができる気がした。やってみたい好奇心でどきどきする。
〇
くしっ、とくしゃみがでた。
誰かが僕の噂でもしているのかな、とか、優貴の風邪がうつったのかも、なんてことを想像しながら、寒暖差がはげしくなってきた気候を前に、僕は人間の力の及ばなさを痛感するしかなかった。
もし神様がいるのなら、神様はどうしてこんなにも、ものごとの移り変わりが激しい世界を創ったのだろう。
”神”を信じていないくせにそんな究極テキトーなことを考えながら僕は、優貴の風邪薬を買ったあとの、帰りがけにいた。そういえばさっきドラッグストアで薬を選んでいたら、春のあの【合コン】のときみかけた、優貴とおなじ映像研究サークルの(たしか部長だった)男性と、ばったりと出くわした。
その男性は黒縁の太いフレームの眼鏡をかけていて、長い全身にスーツを纏っていた。
このときの僕はまだ就活とは無縁でいたいというか、”そういうもの”とは、距離を置きたかった。
だから僕は失礼のないように、極力、彼には気付かないふりをして、買い物を済ませようとした。
が、もう手遅れだった。男性は僕と目が合うやいなや、こつこつと革靴を鳴らして近づいてきた。
「キミは、えっと…、それより何か探してる?」、と男性は早口にそう言って、そう言ったかと思えば、僕が手に持っていた走り書きの買い物リストに、骨ばった顔を近づけてきた。
その、やたらと大人びている目もとは、まあまあ優しそうだけど、
ぐいぐいくるなこの人。…
面倒だな。
そう思った矢先、「達筆じゃん! オレ字綺麗な人尊敬するわ」と言われて、僕は警戒をといた。「これっすか」、と、【風邪薬、スポーツドリンク、領収証】、とてきとうに書いた買い物リストのメモ紙を、僕は胸の前でひらひらと揺らした。
「見せて見せて見たい見たい」とはしゃがれて、それだけで僕は気を良くしてしまった。
「あ、どうも沼田です。キミはえっとコンパのときの書道サークルの子だ。そりゃ字が上手いわけだ。うわさは聞いてるよ、節野ちゃんと付き合ってるらしいね、俺ね、あの子に告ったんです、コンパの間に、一瞬でフラれたけど、「彼氏とかいるの?」って聞く余裕さえなかった、俺あのとき酒飲みすぎて、酔っちゃってたから、第一印象が悪くなってたのかも、あはは、まあいいや、これもなにかの縁でしょ、教えといてあげる、俺はいまあの大学で三浪中で、夢は映画監督なの」
と、間髪を容れずに、噛むこともなく、沼田先輩はすらすらと何かを読みあげるように喋った。
「おお」、と思わず僕の口から声がでた。
それからしばらくのあいだ僕たちは、「優貴が風邪をひいてしまった」、という話を皮切りに、あたり障りのない会話をして、時間をつぶした。沼田先輩は妙に親切で、風邪薬を一緒に選んでくれたりした。
優貴はリンゴが好きだということも教えてくれた。全部優貴のための世話焼きだろうな、でも、少しありがたい、とも思いつつ、僕は買い物かごにリンゴをごろっと落とした。
ドラッグストアを出ると、僕が入店する前よりも、あきらかに外が寒くなっているように感じた。
朝の太陽の光が気持ちいいと感じるくらいで、僕はすこし口の中におかしな味をみつける。
先輩は、「まだ時間あるなら自販機よらない?」、と、ポケットから高価そうな長い財布をだした。
「おごるよ話聞いてくれたお礼」、先輩は千円札を一枚、自販機に入れて、微糖のコーヒーのボタンを連打した。するとがこんがこんと、缶が三つ落ちてきた。
「まあいいや、はい」、キミと節野ちゃんのぶん、と先輩は缶コーヒーを二本、僕に手渡してくれた。
缶は温かかった。いや熱いくらいだった。でも悴みかけた手にはそれが僥倖だった。
「あ、ありがとうございます、優貴さんにも渡しておきます」僕は本当にこの時は、せっかくの先輩の好意なのだから、帰ったらちゃんと缶コーヒーを優貴に渡してあげなきゃと思っていた。
「さん付け!」
先輩が笑ってコーヒーを飲むタイミングを見計らい、そのあとに続いて僕も飲んだ。
うまかった。久々に僕は優貴以外の人と、こうして、長話をしながら楽しい時間を過ごしている。
でもこの時間が素直に楽しいのは、絶対に口にできないけれど、先輩が優貴にフラれたからだ。
もしも先輩が優貴と付き合っていて、僕だけが蚊帳の外だったらどうするだろう。
僕は先輩みたいに明るく振る舞えるだろうか。
僕だったら、嫉妬心で、学内で先輩を見かけてもきっかりと無視をしてしまうかもしれない。
なんて。考えすぎだろうか。
「先輩はあの空に、星、みえます?」、と、僕はこのとき、本当に無意識にそんなことを言っていた。
「え、朝だけど、待てよ。ああ、そういうこと。うん、見えるよ、見える。やっぱいいねキミ、面白いよ」
「優貴の言葉の受け売りなんです」、なんて言えないけれど、たしかに先輩には見えているのだと思った。今の青空に、いくつも。今日の朝日とともに見えなくなってしまった夜空の星が、いくつも。
「天才ですね」
「いやいや、キミってまだ一年生でしょ」
「はい。映画監督の夢叶うといいですね」このときの僕の、その、熱い気持ちと言葉は本心だった。
「なるよ。まずは”現場”に就職して、それになれなかったらマジで三浪ぶんの学費が水の泡だし」
最後に、先輩がコーヒーをぐいっと飲むのを真似るようにして、僕もコーヒーを飲みほした。
僕も、先輩の自由さが欲しいと思った。
僕だって、いつまでも将来のことを遠ざけたままではいられないのかもしれない。
”変わらず”には、いられないのかもしれない。
空になったコーヒーの缶は、初めの熱なんて嘘だったように、寒さを吸収してしまう。いともたやすく、ただの冷たい金属になり、みるみるうちに僕の手まで冷やしていく。「ありがとうございました」
「またね」
青信号の点滅に走っていく先輩を見送る僕は、やっぱり優貴に缶コーヒーを渡さないことを決めた。
〇
帰宅後、玄関に脱いだ靴をそろえて置く。消臭スプレーを吹きかけたあと、廊下にあがると、くつした越しにでもフローリングのつめたさがやわらかく伝わってきた。
くしっ、とまたくしゃみが出て、そういえば僕と優貴は「付き合っている」、と噂されているのだなと、さっきの先輩の言葉を思いだした。周囲からは”カップル”だと思われているのだろうか。
そういう気恥ずかしいことを、初めて考えさせられた。
不釣り合いなカップルだと思われていないかなどと、僕はすこし、卑屈な気持ちにおそわれる。
ひとまずは、買いもの袋を廊下に置いて、僕はたんたんと洗面台にむかった。
手の甲で、蛇口のレバーを押すようにして、まわす。
僕が、優貴のように風邪をひいたり、季節性のインフルエンザに感染するわけにはいかない。
手洗いは徹底しようと、どことなく幼稚なきまりごとを心に留める。
もしかすると優貴の風邪は長引くかもしれない。僕が動けなくなったら誰が優貴の看病をするのだ。
そんなことを考えていたら、「つめた」、と指に触れた流水が冷たくて、びくりと体がしりぞいた。
そしてその瞬間、このするどく冷たい水を、猛暑の間、自分ががぶがぶと飲んでいたという事実をほんとうに信じられない気持ちになった。
今年の春以降はじめてお湯をだして、手を洗うと、その心地よさに感動してしまうほどだった。
先輩にもらった缶コーヒーは、とりあえず自分の外出用のカバンにしまっておいた。
”罪悪感”を忘れるため、僕はすぐに優貴の顔を見ようと思った。買ってきたリンゴをちゃんと冷水で洗い、かんたんに包丁で剥いて、切りわけた。優貴が笑うかなと想像して、何個か耳に見立てて赤い皮をのこして、兎の形にきってみた。
優貴の風邪はべつだん悪化してはいなさそうだった。
リンゴを載せた皿を手に持って、リビングへ行くと、まっさきに優貴の安らかな寝顔が目に入った。 それで僕は、唾をのみこんだ。自分の喉が、ぎゅっと鳴った。広いスペースの真んなかに、それはもう無防備に、大事に敷かれた布団の上に、おとぎ話のお姫様のように、胸の上に両手をにぎって優貴は眠っていた。
その汗ばんだ白い顔に、寝返りを打ったのだろう何本かの髪のすじが貼りついていた。
僕はそれだけが気になって、ゆびでそっと優貴のほっぺたから髪の毛をはらいのけた。
そして立ち上がった瞬間、僕はテーブルの上にあった、優貴の愛用のカメラに気がついた。
僕はなぜかすばやい動作で、リンゴを載せた皿を、テーブルの空いた所に、音をたてずに置いた。
「ゆ、ゆき……。ゆきー」
僕はそう、小声で呼んでみた。優貴の口からは、かわいい寝息がかえってくるだけだった。
一定のリズムで上下する、優貴の豊かな胸を、不躾にじっと見つめる。本当に優貴は眠っているのか。…
もう少し待とう。
テーブルの上には他にも、飲みかけの水が入ったコップがあった。その横には、数枚のプリントが並んでいる。それは優貴が風邪で休んで出られなかった講義(僕はたまたまその講義を取っていなかった)で、誰かが板書をして、親切にコピーをしてくれたものだった。僕は学内の食堂で、それを受け取ったのだが、優貴にもそういう女友達がいるのだ。すごく微笑ましい気持ちになる。
それなのに。…
でもなあ。…とも僕は思ってしまうのだ。
自分の笑った口元から、すうっと、悪人のように力が抜けていくのを感じる。
その女友達といまの僕には、優貴にとって、一体どれほどの差があるというのか。
僕は優貴の”彼氏”ではないのだ。
「ゆき」、ともう一度しっかりと呼んで、優貴の眠りが深いことを確認したあと、僕はテーブルの上の優貴のデジタルカメラに手を伸ばした。優貴は一度、大学生対象の写真コンクールで優秀賞を獲ったことがあった。(それは朝日の逆光でとおくに伸ばした人の手指に見える鳥の群れの写真だった)。
そんな優貴が、普段からどのような写真を撮っているのか。湧いてでる興味を抑えようとしたが、このときの僕にはそれすらも難しいことだった。
電源を入れると、明るい画面に、開けそうなフォルダがぽつんと一つだけあった。
あれ、と変に思った。フォルダを複数に分けたりしないのだな、と思いつつ、僕はそのたった一つ中央に固定された、無名のフォルダを開いてみた。
すると撮られた写真の、個々のファイルに繋がった。
と、思ったけど、実際に開かれたファイルは、一つしかなく、それはつまりこのカメラに保存された写真は、たった一枚だけだという事実に、僕は意味もなくまばたきを繰り返すしかできなかった。
そうして僕はこの瞬間にようやくとてつもない”罪悪感”をおぼえた。
画像名は『今』となっていた。
ここから先は絶対に見てはいけないし知ってはいけない。そういう秘密が隠されている。
そういう怖い予感がさあっと僕の脳を灰色の電流で満たしていく。
僕はびっと、冷たい反射のような挙動で、しかし熱く震える指でファイルを開いた。
僕の目に飛び込んできた画像には、「自分自身」が映っていた。
画面一面に。…
鮮明に思いだせる。あの日、僕が優貴のコップと自分のコップを間違えて”間接キス”をした日の一瞬だ。僕の顔は赤くて、目は半分閉じていて、口元が歪んでいて、頬の筋肉は固まっていた。
いっきに僕の体が熱くなった。エアコンのリモコンを手に取ってぴぴと暖房の温度を二度下げた。
どうして。…
なんでこんな変な写真を、しかも一枚だけ残しておくのだ。優貴は、何を考えているのだ。何を想って、”カメラからこの一枚以外の写真を消した”のだ。
今すぐに僕の手で、この最後の一枚も消したい衝動にかられた。でもそんなことができるはずがない。そんなことをすれば僕が勝手にカメラのデータを盗み見たことがばれてしまう。それに優貴がまだ悪意を持って、この顔写真を記録に残していたなんて、そんなことまでは判らないのだ。
僕は一旦、なにもかもをぎゅっと我慢して、冷静さを、取り繕ってみた。
丁寧に、『今』という画像のファイルを、最初の無名のフォルダにもどして、慎重に電源を切った。
画面が暗くなったとき、ふと自分を呼ぶ優貴の声が聞こえた。
僕はものすごい速さで首を、優貴のほうに向けた。が、優貴はまだ気持ちよさそうに、眠っているようだった。それでも、その小さい口は動いていて、たまに吐息になったり、声になったりしている。
僕は息を浅くしながら、横たわる彼女を見おろす。
寝言だろうか…、
そうやって、安心しようとした瞬間、優貴の口がふたたび僕の名前を呼んだ。
それから、
「――は、いま、何をしていますか?」と、はっきりと言った。
その声は今まで聞いたことがないくらいに、なんだか悲しそうで、なぜか遠のいて聞こえる。
優貴の顔がちょっと引きつっている。
その顔がまた僕の名前をちいさく呼んだ。
その光景はどことなくだけれど、
”僕と別れた後の優貴のこれから”を、僕の脳裏にうかびあがらせた。
これから、
これから先のどこかで、今は予想できない事情で、僕と離れ離れになってしまった優貴が、その別れを惜しんでいる。(自分で言うのはあれだけど)それで、とっくに離れているけれど、この世界のどこかにいる”僕”という人間を思いだしながら、「いま、何をしていますか?」と懐かしむように、今みたいな小さな声で遠くに話しかけているのだ。
僕は怖くなってなんどか真横に頭をふった。
だから。
というわけではない。僕は卑怯なことをしてしまった。
優貴はまだ眠っている。
そんなものは僕の勝手な憶測でしかないのだけれど。…
そういう、わからない将来のことを考えてみると、一瞬でどっと体が重たくなったようになる。
かるくめまいがして、僕は、行き場のない指で意味もなく、兎のリンゴを二個向きあわせた。
熱は、まだ下がらないのだろう、優貴のつるんとした額に、汗が流れた。風邪とたたかっている。
なんだか僕も、逃げてはいけないような気持ちになる。
優貴のカメラを、テーブルのもとあった位置にもどす。
もどす。
「僕は…」、と口にして、一所懸命に思いをはせてみる。まずは、頑張る。無事に二年生にあがる。
僕の手が震える。書道のサークルで、なんでもいい、優貴みたいに、賞を獲れるような、何か作品を書きあげたい。それからちゃんと講義に出席する。サボらない。卒業まで続ける。それから、あの沼田先輩は…まだそのときには大学にいるのか判らない。けれどいつか何かを成す気がする。
本当に映画監督になってしまうかもしれない。
「……………」
そのとき僕は、なんだろう。…
ひとまず、勝手にカメラのデータを見てしまって、ごめんなさい。えっと、それ以外は。…
何も浮かばないな。なんでもない、何の変哲もない、だって、書道家になって食べていけるほど、僕には才能が無いし…なんでもない仕事を、僕は、生まれ変わってしまったように、一生懸命にギラギラとした目で、やっているのかもしれない。それで、そんな僕の傍に優貴はいてくれるのか。
「わからないです」
僕がそう、自信なさげに言うと、優貴の長いまつげが動いた。
『いま、何をしていますか?』
「でもそうだなあ、とりあえず今は、優貴のそばにいるから」
優貴がいま夢のなかであるのを、良いことに、僕はたった一時の気分で丁寧語をなくしてみる。
僕が微笑むと、まるですでに目をさましているかのように、優貴の顔もにこりと穏やかにみえた。
〇
「なんでこんな寒いの」
「寒いですね」
最近はコートのポケットに手を入れていないと、指が芯まで冷えてしまうほどの、寒さのきびしい日々が続いている。
コンビニからの帰り道、凍ったように冷たい親指を握りこみながら、僕は優貴と一緒に「寒い寒い」と言いあって、一歩一歩をふみしめてあるいた。
もうすでに深夜を回っていた。
だから二人の声ははりつめて、ちらほらとイルミネーションがともった街中にどこまでも響き通っていった。
もうそろそろ”ハタチ”になろうとしているのに、二人のやりとりはまだどことなく子供っぽい気がする。
それでも、「寒い寒い」と言いあっているだけでも、痛いくらいの寒さがまぎれる。
なんだかそういう嘘というか、おまじない的な”強がり?…”は、大人になっても必要な気がした。
僕はふと後ろをふり向いていた。
もしそこに誰かいるのだとしたら”オトナ”になることを恨んでいた幼い自分のような気がする。
が、誰もいなかった。
でも自然と寂しさは感じなかった。
「どうした?」
「いやいや、なんでもないんです」
久々にコンビニに寄ったのは「今日の夜ごはんはすこし贅沢をしよう」、と優貴が言いだしたからだ。
僕が初めて書道コンクールで最優秀賞、を…、目指していたのだが…特別賞を取ったということで、少し高いワイン(『お酒は二十歳になってから』という文句が心苦しいが…』)や、生ハム(なぜか今大学の仲間内で流行っているから)や、カットフルーツのリンゴや、ポテトチップなどを買った。
僕はすでに温かいアパートの部屋に帰った気分で、二人でワインに気持ちよく酔って、特別賞を獲った余韻に浸りながら、いつもより饒舌な優貴としゃべりながら、眠たくなる自分が、想像できた。特別賞を獲ったとき、優貴が「君の字のフォントが欲しい」、と言ってくれた。僕は素直に喜んだ。それを思い出すだけでも、幸福感で頭がしびれて、イルミネーションがより綺麗になって見える。
…が、ふと、「あのとき、はやく冬になればいい、みたいなこと言ってたの覚えてる?」と、優貴が、いつにもまして真面目な口調で言うものだから、僕の緩み切っていた心は一気に緊張してしまった。
「あ、べつに、深い含みはないよ。でもさ、言ってたでしょ、冬になればいい…って」
たしか、
「はい、言いました」
「今はどう思う?」
そう、言われて、僕はすごくすごく寂しくなった。ポケットに入れている手がみるみる冷たくなった。誰かの温もりが欲しかった。でもそれはきっと目の前の、優貴という女性でなければならない。
「ちょっと手をつなぎませんか」、そういえばこの頃、優貴と手を繋ぐことをよく忘れるようになった。
「いいけど」、優貴はふっと吹きだした。
「話の続きですけど、今はですね、夏になってほしいと思っています」
「え」
「薄情な、人間だと…、お思いですか」
「うん、すこし、思う。だって、君がそうやって、時の状況次第で、気分が変わってしまうのなら……」
「僕はいつか――」、と、僕もその先を言うのは、かなり躊躇われた。けれど、逃げていてもだめだと思った。だっていつか、来るのだ、将来というものは、近づいている、ならば悩まないといけない。
「でも、この場合は違うんですよ、優貴さん。僕はあの暑かった夏には、はやく冬になればいいと言いました。それなのに、早くもこう冬に近づくだけで、夏がいいと言ってしまうし、そう信じてしまう」
「そう、そこなんだよ」、と、優貴の吐息はより白くなり、その声は小さく、泣く寸前のように震えた。
「わたしは、君が、わたしを好きでい続ける、その気持ちを忘れない、って言ってくれたこと、ずっと覚えている。信じている。だから…だから怖いんだ」
「僕が、状況次第で、気分を変えてしまうような人間だからですか」
優貴はだんだんとゆっくりになってきた足の歩みを止めて、頷こうかどうか迷っているようである。
「ごめん」
弱々しく言う優貴の背後に、何かが広がった気がした。優貴は本当にかわいいし、優しい。「口だけ」というような男がたくさん近づいて、もしかしたらその数だけ裏切られてきたのかもしれない。
「優貴さん」、そういえば優貴とつないでいた手が、ほんのりと温かくなってきた。
僕にはそれが何か重要な、意味のあることのように思えた。
「僕は変わりませんよ」、僕はこのとき、優貴が風邪をひいて、眠っていた日のことを思い出していた。優貴は、僕が間接キスをして本気で恥ずかしがっていた顔写真を、記録していた。夢の中で、僕との別れを惜しんでくれているように、「いま、何をしていますか?」、と、語りかけてくれた。
それがもし、”僕だけ”が信じたい、”僕だけ”にとって都合のいい未来だとしても、
「わたしは、君を信じたい。このさきも、君は自分を「僕」と言ってくれる? ずっと丁寧語で話してくれる? わたしが風邪をひいたとき看病してくれる? あの日の気持ちを、ずっと忘れない?…」
「優貴さん…」そうじゃないよ、と僕はコンビニの袋を落とさないように、けれど、両手で優貴を抱きしめた。強く。優貴の匂いが近くでして、僕は一瞬で、どきどきとして、だからこそ安心をした。
「えっと、僕はですね、たぶん寒くなった今になって、夏のほうがよかった、なんて、手のひらを反してしまうような、軽薄者なんです」、僕がそう言うと、優貴がすこし、僕のことを手のひらで押そうとしたが、それでも僕は諦めずに優貴のことを離さなかった。「それに、僕はこの先、自分のことを「俺」と言うようになるかもしれません。いつのまにか丁寧語でもなくなるかもしれません」かすかに優貴の嗚咽がきこえる。「ですが、このさきも優貴さんが風邪をひいたら看病しますよ! 今だってあのとき優貴さんのこと好きだって思ったこと、覚えています、これからも忘れないんですよ」、と、言ってなお、僕自身でさえ、身をきり裂かれるように、不安だった。だって、何があるかなんて判らない。
将来のことなんて。どうせ何度考えてもわからない。
だからそうやって初めの気持ちを何度も、何度も、言いきるしか方法がないのだ。
だから、今しかない。
「そっか……」優貴が『今』という題名を付けて、僕の顔写真を残していたその意味が、この瞬間、やっと僕にも見出せたような気がした。
そっか、
すこしして、「ほんとに?」と、優貴はいちど僕の目を見つめた。僕は恥ずかしくてその目を見つめ返せない。けど一生懸命に逸らさないようにした。優貴に何かが伝わったのかもしれない、優貴のほうからも強く抱きしめてきた。優貴の手から、がさっとコンビニのおつまみが入った袋が落ちた。
そこでふすっと、僕は吹きだした。
今度は僕のほうから優貴の顔をみた。
今この瞬間に確かめたいことがある。
僕は自分の顔を優貴に近づけた。優貴は目を瞑り、僕らの唇は触れ合った。ああ、と思った。ただ、ああ、と、熱くて、恥ずかしくて、何とも言いようがない”正しさ”というようなねっとりとしたどろどろが、気持ちよく僕の体じゅうをかけめぐった。そうして何も見えない中、鼻からふかく息を吸った。
正しかった。
卵の膜を割らないような感じで、僕はできるだけそっと、自分の口を優貴の唇からはなした。
「キス。二回目」、と優貴の声色はいつもの調子にもどっていた。
「どうしてまたそういうことを言うんですか」、と僕の声色も意外と明るくて、自分でも愉快だった。
そしてひたすらに漠然と。
それでいいと思えた。
もうほんの少し部屋に戻りたくなくて、僕らはアパートの近くにある、児童公園に立ち寄った。
コンビニの袋には、なま物も入っていたけれど、この寒さなら全然平気だろうと判断をした。
僕たちは手を繋いでいた。
なんだかポケットに入れるよりも温かく感じるのは、気のせいなのかもしれないけど。…
これからもこういう風に、冬になれば。冬でなくとも。ふたりで手を繋いでいけたら幸せだ。
なんて。
幸せは言い過ぎだろうな。
べつにブランコにのって漕ぐわけでもない。滑り台を滑るわけでもない。ただそういう遊具を眺めながら、僕はそこで幼いころの自分が遊んでいるような光景を、まぼろしに見た。優貴もそうだったのかもしれない。「小さい頃の夢はなんだったの」、と急に優貴が聞いてきたけれど、僕はおどろくほど瞬時に「仮面ライダー」、と答えられた。「かわいいね」、と優貴が、「でも大事だよね」、と続けた。
「優貴さんのほうがかわいいですけどね」、と僕は自分でも珍しくおどけてみた。
あはは、とその”かわいい”のベクトルの差に優貴も子供らしい、かわいらしい笑い声をだした。
「そうだよね! いつか別れてしまうから、とかじゃないよね」
その、優貴の『いつか別れてしまうかもしれないけど』、という言葉には、聞き覚えがあった。
優貴と初めて出会った日、それを思うだけで、あの合コンの日にもどれそうな気さえした。
「はい」
そうおだやかに返事をした僕は、目が覚めるような冬の空気を、味わうようにして大事に吸って、
「そんな将来が訪れるとか、訪れないとか、わからないことで比較しあうから、もっとわからなくなって…不安になるん…ですよね。立ち位置。僕たちはここに立ってます。ちゃんと、今が大事です!」
僕はそれを、自分自身に言い聞かせるように、最後まで言い切った。
そしてそれは。…
友達でも恋人でもないような、いまの僕たちの尊い間柄を、言い当てているようにも聞こえた。
ふわふわと。
そのとき空から何かが降ってきた。
見上げると、自分の白くなった吐息がのぼっていき、反対に、ちいさい粒が降ってくる。
まもなく雪だとわかった、「ゆきですよ」、とも僕は口にした。
「ゆき、ゆき」、と、彼女がしきりに自分の胸元を指さしている。
あ。…
いや。…
うん。…
と、雪が、降る。
「いや、べつにさ、もう僕たち恋人同士でよくないですか?」
「うん! それがいい。これからもよろしくお願いします!」
この瞬間、きらきらと口いっぱいに甘い味がひろがった。
今だけはこの瞬間に降った雪も、街のイルミネーションも、ふたりを祝福してくれている気がして、
いや言い過ぎではない。そう思った。僕らは幸せだ。ほんとうに。
だってこんなにも未来が怖くない。偶然、「帰ろう」「帰りましょう」、と二人の声がかさなった。
「これから、もっと寒くなりますね」、僕は初めて優貴の頭を手のひらで大切に撫でた。
「でも、いまのわたしもいいでしょ」、優貴の大きな瞳がこれまでで一番輝いてみえる。
お読みいただき、ありがとうございます。




