外伝3 吾輩は竜である③ 子竜もいる辺境はのんびりスローライフ!
吾輩は竜である。
名は…ある。フィオルという。
まだ若く、翼も小さく、咆哮も控えめ。
けれども、立派な辺境城の竜のつもりである。
食べること、そして寝ることにおいては、誰にも負けない自信がある。
……たぶん!
本日も雪をかぶった山々が遠くに光る。
でも、春が近くなってかすかに草の匂いが混じり、陽射しはほんの少し柔らかくなってきている。
アシュリー様たちは朝早くから公務で王都へ向かわれるらしい。
ケイトたちもその準備で、城の中はばたばたしている。
(……ということは、本日も吾輩は“お留守番”である!)
ヨルムガルド先輩は空の見回り。
ハティル殿は警備兵の巡回に同行。
立派に役目を果たしている。
吾輩も、何かしたい!
……けれど、何をすればよいのだろう。
しばし考え、結論に至る。
(見回りを、すればいいのだ!)
これでも吾輩は竜。空を飛べば遠くまで見渡せる。
マルクス殿が留守の間、城を守るのは吾輩の使命である。
胸を張り、翼をふぁさーと広げる。
風が吹き抜けた。
藁の上の寝床がふわりと舞い上がる。
(よし、出発!)
――そうして、吾輩の“大冒険”は始まった。
◆
最初は完璧だった。
城壁をぐるりと回り、見張り塔の上空を、厨房の匂いを我慢して、吾輩は誇り高く飛んでいた。
風は心地いいし、日差しも暖かい。
これこそ竜の仕事。
吾輩は胸を張り、さらに高度を上げた。
……が。
下を見る。
丘の向こうに見たことのない花畑が広がっていた。
まるで飴玉のように色とりどりの花が咲いている。風に乗って、甘い匂いがふわりと届く。
「……少しくらい、見てもいいよね?」
翼をたたみ、ひらりと降りる。
足元に咲いた白いまんまるの花をひとつ、そっと嗅ぐ。
少し蜂蜜の匂いがした。
(ああ……アシュリー様にも見せたいな)
そんなふうに思って、顔を上げる。
そこは見慣れない森の縁。
木々の影が濃く、奥の方は少し暗い。
それでも深い緑の香りにうっとりする。
吾輩はつい、もう一歩、また一歩と進んだ。
気づけば深い森の中。
振り返ってみる。
さっきまで見えていた城の塔が、もう見えない。
(……あれ?)
ぐるりと首を回す。
同じ高い木が何本も立っている。
木が阻み、空が見えない。飛べない…。
どっちが北?どっちが南?
(……ま、ま、まよったぁ!!)
◆
森は心の中とちぐはぐに静かだった。
風の音も、鳥の声も、なんだか遠い。
葉の隙間から漏れる光が、ゆらゆら揺れている。
吾輩は歩きながら、心の中がきゅっと縮むのを感じた。
ここにいない、アシュリー様の匂い。マルクス殿の声。
ハティル殿の尻尾の音も、ヨルムガルド先輩の大きな影も届かない。
胸の奥が、しーんと冷たくなる。
小さく鼻を鳴らす。その音が妙に大きく響いた。
(……帰りたいよぅ…)
ちょっと目から雫がこぼれそうになった、そのとき。
ふわり、と光が降りた。
目の前に、銀の蝶が舞っている。
ひらひら、羽根の縁が、まるで星のようにきらきら光る。
精霊蝶だ。
星月夜の夜にしか現れないはずの、光の蝶。
今は昼。
(……ついてこい、って言ってる気がする)
吾輩は低空飛行しながら蝶の後を追った。
木々の隙間から差し込む光が、やさしく頬を撫でていく。
やがて、森の奥に小さな泉が見えた。
水面は鏡のように澄み、そこには、アシュリー様の姿が映っていた。
花を抱き、吾輩の鼻先を撫でている。
その姿が、波に揺れて消える。
胸がぎゅっと痛む。
(帰らなきゃ……!)
翼を広げる。
風が背を押す。
一気に空へ――
翼に枝が叩きつけられる。
それでも、飛んだ。
◆
空の上はまぶしかった。
夕陽が山を染め、雲の端が金色に輝いている。
遠くから、聞き覚えのある声がした。
長く響く大地を揺るがすような咆哮――ヨルムガルド先輩。
続いて、遠くまで聞こえる低い狼の遠吠え――ハティル殿だ。
(探してくれてる!)
心臓がどきどきする。
吾輩は力いっぱい翼を打った。
咆哮で揺れる空気の方へ、遠吠えの聞こえる方へ。
やっと、城の塔が見えた。
そして、中庭に立つ二人の人影――
アシュリー様とマルクス殿。
「フィオル!」
アシュリー様の声が届く。
吾輩は翼を傾け、風に乗った。
砂埃と花弁が巻き上がり、
地面に降り立つと、アシュリー様が駆け寄ってくる。
「フィオル……心配しましたよ!」
彼女の腕がぎゅうっと強く吾輩の首を絞める。マルクス殿が優しく頭を撫でた。
「はあ、無事でよかったよ。よく帰ってきたね」
どーーーん。
ハティル殿が吾輩に頭突きした。
腹にささり、くぇっと間抜けな声が出る。
ヨルムガルド先輩が、大きく翼を広げて降りてきた。
がぶっと尻尾を噛まれる。
……怒られている。
「きゅううううう」
めそめそ鳴くと、ハティル殿にぼふっと肉球を乗せられた。
皆が笑っている。
怒られているのに、温かくて、なんだか困った。
◆
夜。
竜舎の隅の寝床で、吾輩は丸くなっていた。
空気は少し冷たいけれど、心はあたたかい。
今日は、迷って、怖かった。
でも、帰る場所があって、探してくれる人が、待っていてくれる人がいると知った。
吾輩は竜である!
まだ若いが、これから成長する竜である。
遠くで、精霊蝶が、ふわりと光った。
それはまるで、「がんばれー」と言っているようで――
吾輩は鼻をすんと鳴らし、
目を閉じた。
――明日は、きっと今日より成長するんだ。




