外伝3 焦らされた元悪役令嬢、少し大胆になる!
王都の朝は、辺境とはまるで違う。
朝から昼頃までずっと忙しなく人々が動き出す。辺境では天気や季節によって変わるがここではいつもその調子だった。
アシュリーは侍女ケイトに髪を結われながら、鏡越しに外を見ていた。
窓の外は太陽が柔らかく、空は美しい。
しかし、今日も屋内で公務を続けるだろうと思うと気が滅入る。
それが、最近の彼女の一日の始まり。
「今日も閣下は朝から会議ですか」
ケイトがそっと尋ねる。
「ええ。議院との合同審議が長引くみたいで」
アシュリーは穏やかに笑って見せるが、その微笑みは少しだけ疲れていた。
――最近、目を合わせたのはいつだっただろう。
マルクスはここ数ヶ月は王弟としての公務が忙しく、王都での生活が多くなっていた。
夫婦の時間はほとんどない。
食卓では互いに微笑むものの、彼はすぐに執務室へ戻ってしまう。
ケイトは少しだけ眉を下げた。
「きっとお忙しいのです。でも……マルクス様も寂しそうにしておられますよ」
「……ほんとうに?」
「ええ。それに、文官が言っていました。“昼食もほとんど口にされない”と」
アシュリーは胸の奥が少し苦しくなる。
(……あの方は、いつも自分より何かを優先してしまう)
それが、彼らしいところだと分かっていても。
――マルクスと王城に暮らしているのに、ほとんど顔を合わせない。
朝は外交会議、昼は議院との折衝、夜は各国からの使節との晩餐。
アシュリーも多忙ではあるが、マルクスはその倍以上に日々忙殺されていた。
晩餐会で共立っても、「あとで話そう」と穏やかに微笑むだけ。
けれどその“あとで”は、いつも来なかった。
書類の山を崩しつつ、寂しさを誤魔化す夜。
ふとした瞬間に、彼の香りだけが胸の奥をくすぐる。
(……私、欲張りになったのかもしれません)
泣かないと決めていても、心は沈んだ。
◆
昼下がり。
アシュリーは王立学園の寄付視察を終え、城内の長い回廊を歩いていた。
風が窓から吹き込み心地よい。
どこかアシュリーの心は遠く、涙が滲むのを堪えているような気持ちだった。
その時、背後で足音が鳴る。
「アシュリー」
振り返る間もなく、腕を取られる。
驚いて見上げると、マルクスがいた。
執務服の袖口は少し汚れ、髪も乱れている。しかし、瞳には微かな光が宿っていた。
「すまない、急に」
その声に、胸が跳ねた。
「……マルクス様?公務は――」
「少し抜け出してしまったんだ。ほんの少し、一緒に付き合って」
返事をする前に、彼は彼女の手を引いた。
廊下を過ぎ、階段を抜け、蔦の壁の前で立ち止まる。
◆
蔦の壁の向こう。
そこに隠されるように小さな扉があった。
彼が鍵を外し、重い扉を押し開けた瞬間。
光が溢れた。
薄桃と白の花々が風に揺れ、緑の囲いが美しく整備されている。
白い花が絨毯のように広がる庭。
花びらがひらひらと舞っていた。
「……ここは?」
アシュリーが呟くと、マルクスが嬉しそうに笑った。
「王族だけが知る庭でね。
昔、兄上に教わって息が詰まった時はここに来て、何も考えず空を見上げる」
ここだけが、王都の喧騒とは別の世界のようだった。
マルクスが小さなベンチにハンカチをひいた。
「どうぞ。私の姫君」
手を引かれ、アシュリーは腰掛ける。
マルクスが手をあげると、魔法で空が青と薄桃のマジックアワーに変わる。
「……綺麗……」
その小さな声に、マルクスは微かに目を細めた。
「……君は、可愛いね」
マルクスはそっと白い花をアシュリーの髪に差す。少し冷たい指先が頬に触れる。
耳元で彼は静かに囁いた。
「……寂しかった?私は、寂しかったよ」
言葉を返すよりも先に、マルクスの唇が触れた。
一瞬が、永遠のようだった。
彼が離れてもアシュリーは息を詰めたまま動けなかった。
マルクスはその反応に微笑み、低く言った。
「……今夜は必ず、帰るよ」
耳元で囁かれたその一言に、頬が熱くなる。
マルクスは背を向けて悠然と去って行った。
残されたアシュリーは、放心して暫く座り込んだ。
(……夜?)
顔が熱くてたまらない。
◆
夜。
灯が静かに揺れる。
アシュリーは読書をするふりをしながら、ページをほとんどめくれていなかった。
――扉を叩く音。
「入っていいかな?」
アシュリーは慌てて答える。
「は、はい!」
入ってきたマルクスはシャツのボタンを外しながらひと呼吸ついた。
シルバーグレイの髪の艶が美しく煌めく。
「待っていてくれてありがとう」
彼はアシュリーの隣に腰を下ろした。
二人の影を寄り添わせる。
「昼の庭、驚いた?」
「はい……でも、とても素敵でした」
マルクスが愛おしげにアシュリーの髪を撫でる。
「ああ…君の香りがする。ようやく帰った気分だよ」
アシュリーの頬が赤く染まる。
マルクスはその頬に手を添え、抱きこむようにその額を額に寄せる。
「……ふふ、君に触れると、すぐに理性が脆くなる」
「……っ」
マルクスの胸元のシャツをアシュリーが掴んだ。
「わ、わたしも…寂しかった。だから……愛してください…っ」
アシュリーは震えながらもしっかりと言った。
マルクスは少し驚いたように笑い、そのまま彼女を抱き寄せる。
唇が再び触れ、呼吸が混ざり合う。
静かな衣擦れの響き。
夜の光が、二人のためにだけ存在していた。




