外伝3 元ヒロインと元悪役令嬢の、ほっこり夜の恋噺
雨上がりの夜、風が庭の薔薇を揺らしている。
窓の向こうで月灯りに照らされた薔薇の白い花びらは春の象徴のように見えた。
アシュリーは机の上のランプに灯をともす。
ほのかな金の光が、部屋の輪郭を静かに浮かび上がらせた。
扉が、かすかにノックされた。
「お姉さま、起きてる?」
妹のルーチェの小さな声。
アシュリーは微笑みながら、そっとドアを開けた。
「眠れないの?」
「うん……夜になったら静かすぎて、なんだか不安になっちゃって」
ルーチェはリネンの寝間着姿のまま、ベッドの端に腰を下ろした。
頬は透きとおるように白い。
金の髪が、光を受けてふわりと揺れる。
アシュリーは彼女の隣に座り、櫛を手に取った。
ゆっくりと優しく髪を梳いていく。
「……ねえ、お姉さま。恋って、どんな感じなの?」
櫛の動きが一瞬止まる。
アシュリーは目を細め、ルーチェの肩越しに月を見た。
「そうね……その人のことを想うとね。心に、小さな灯がともるの」
「灯?」
「ええ。風が吹けば消えてしまいそうなくらい、
小さくて、儚くて……それでも、その光は私の道を照らしてくれるの」
ルーチェは鏡の中の姉を見上げた。
姉の美しい翠の瞳は月を映して、深い森のように澄んでいた。
「お姉さまには、もうその光があるんでしょう?」
「……秘密よ」
「やっぱりあるのね!」
ルーチェの声が少し弾み、アシュリーは思わず笑った。
けれどその笑みには、どこか切なさが滲む。
「恋ってね、きれいなだけじゃないの。
時々不安になったり胸が痛くなったりして。
その人を思って泣きたくなる夜もあるの」
「ええ〜!ちょっと怖い」
「そうね。でも……消えてしまうかもしれない光ほど、人は大切にしたくなるから」
ルーチェは少し黙ってアシュリーの手を見つめた。
櫛の上で金の髪がほどけて、ランプの光を反射する。
「……前世でもそんなこと思ったことないなぁ…。私も、そんなふうに誰かを想えるようになるかな」
アシュリーが微笑んだ。
「きっとなれるわ。ルーチェには、人を照らす力があるもの」
「照らす……」
ルーチェは小さく呟いた。
その言葉が、胸の奥にそっと滲んでいく。
アシュリーは櫛を置き、妹の肩を抱いた。
窓の外の月が二人を同じ色の光で包んでいる。
「お姉さま」
「なあに」
「私、もし恋をしたら――その人をたくさん笑顔にしたいです」
「……それはとっても素敵な恋ね」
二人はそのまま静かに月を見上げていた。
薔薇の香りが風に乗り、灯が小さく揺れる。
アシュリーはそっとルーチェの髪を撫でた。
「おやすみ、ルーチェ」
「おやすみなさい、お姉さま」
灯が消える直前、月光に照らされる庭の薔薇が、小さな祈りのように揺れていた。
◆
小鳥の声が、遠くでやさしく響いている。
窓から射し込む光が、レースのカーテンを透かして床に模様を描く。
光の中で、ルーチェはゆっくりとまぶたを開けた。
ルーチェは、なんだかとても悲しい夢を見た気がしていた。
夢でアシュリーとルーチェはあまり話さなかった。ルーチェの世界は前世と同じく寂しくて、モノクロだった。
――お姉さまと夜、お話をしたのに。
しかし、昨日の記憶が戻ると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
アシュリーが櫛を通してくれたときの指先のぬくもり。「素敵な恋ね」と言った声のやわらかさ。
そのすべてが、まだ身体のどこかに残っている気がした。
隣のベッドでアシュリーが眠っている。
白いシーツに頬を埋めて、静かな呼吸を立てている。
朝の光に照らされた横顔は夢とは違い、穏やかだった。
ルーチェは、そっとその姿を見つめた。
胸の奥が不思議なくらい満たされていく。
――ああ、私は、お姉さまにとても愛されている。
昨夜、髪を梳いてくれた手の優しさは、“あなたは大切だ”と告げてくれるようだった。
言葉にしなくても、いつもアシュリーの想いはちゃんと伝わっている。
それを感じるとルーチェは涙が出そうになるほど嬉しかった。
恋がどんなものかはまだ分からない。
けれど。
“誰かの幸せを願うこと”が愛の形なら。
愛を知った今のルーチェは、きっともう誰かを愛することが出来る。
そう思った。
窓の外では、薔薇の花びらが風に乗って舞っている。
金色の朝陽が庭を満たし、露がきらきらと光る。
ルーチェは小さく息を吸い込み、胸に手を当てた。
(お姉さまのように、誰かを優しく照らせる人になりたい)
アシュリーの静かな寝息が穏やかに響いている。
ルーチェは微笑み、小さく囁いた。
「お姉さま、私、あなたが大好き!」
アシュリーがまぶたを動かす。
目を覚ましたわけではない。
けれど、その唇がかすかに動いた。
――「わたしも」
ルーチェの胸がきゅっと鳴った。
涙がこぼれそうになって、慌てて笑う。
朝の光が二人の間に落ちて、白いシーツが輝いた。
窓の外で鳥が鳴く。
世界は今日も、美しく始まる。
ルーチェは小さく呟いた。
「お姉さま……私、がんばる」
その声は風に乗り、世界へと流れていった。
――愛される幸福のなかで、ルーチェは初めて、自分の中に灯った“あたたかな光”に気づいた。




