もふもふに導かれて、愛する人の元へ
聖廟の扉をくぐると、空気が変わった。
どこか胸の奥をざらつかせるような気配。
壁に刻まれた文様が幽かに光を帯びていた。
それは呼吸をしているように脈打ち、彼らを奥へ奥へと誘う。
アシュリーは一歩踏み出し、息を呑んだ。
――どこからともなく、声が聞こえる。
◆
「この仕訳は……」
それは、懐かしい声だった。
前世の自分の声だ。
振り返ると、そこにあるはずのない景色――蛍光灯の光と無機質なデスク。
「……ここは……」
パソコンの画面に映る自分の名が並んでいる。
キーボードを叩く音、プリンターの音、そして誰もいないオフィス。
机の上には冷めたコーヒーと、未開封の誕生日ケーキ。
誰も祝ってくれなかった夜。
愛されたことのない人生。
(……これが、私の……前世)
視界が歪む。
心の奥底から、孤独と虚しさが這い上がってくる。
「……もう頑張らなくてもいいよ」
幻の誰かの声がする。
「疲れたでしょ、全部捨ててしまえば?」
アシュリーの手から、魔光石が落ちた。
◆
彼の前には、血に染まった戦場が延々と広がっていた。
砂塵の向こうで炎が立ち上る。
剣を振るうが、悲鳴が常に聞こえてくる。
ふと、アシュリーの声が聞こえた。
振り返ると、彼女が血塗れで倒れている。
「……いやだ……置いていかないでくれ……!」
マルクスは駆け寄るが、どれだけ手を伸ばしてもアシュリーに届かない。
彼女の身体は砂となって崩れてゆき、やっと手が届いたというのに、それは指の間からこぼれ落ちていった。
「また……失ってしまうのか……」
幾度も守るものを失ってきた記憶。
友を、部下を、そして父を。
それでもようやく手に入れた“愛する人”までも――。
手が震え、握っていた剣を落とした。
マルクスの身体は完全に力を失っていた。
◆
その頃、現実のアシュリーたちはそれぞれ別々の場所に立ち、まるで眠るように動かなくなっていた。
ケイトが彼らの名を呼ぶ。
「アシュリー様! マルクス様!」
しかし返事はない。
キリアンが辺りを見回した。
「……まるで幻に囚われたようですね」
「幻……?」
イゴールの表情が険しくなる。
その瞳の奥に、揺らぎが走った。
「でも……私たちがいる! 大丈夫、必ず――」
ケイトが固まるイゴールをばしっと叩いた。
その時、足元の紋様が青白く輝き始める。
風が渦巻き、祈りのような声が空間を満たす。
「……幻視の回廊」
キリアンが、床の古いアルバの言葉を読んだ。
――絶え間ない祈りの声が示すのは、〈幻視の回廊〉が完全に目を覚ましたという事実だった。
◆
暗闇の中で、アシュリーは歩いていた。
暗く、終わりのない廊下が続いている。
呼吸が浅くなり、耳の奥で誰かが囁く。
「私は報われなかった。努力しても、誰も見ていなかった」
「また同じだよ。何をしても、無意味で、誰も救えない」
――違う。
アシュリーは唇を噛み、歩みを止めない。
けれども、足が重く、何かが絡みついて前に進めなくなる。
その時だった。
前方で、白い光が揺れた。
光の粒が舞い上がり、そこから――銀色の影が現れる。
「……ハティ?」
銀狼が静かに彼女を見つめていた。
耳を伏せ、やさしく尻尾をふる。
そして、アシュリーの頬をぺろりと舐めた。
懐かしい温もりに胸の奥が切なくなる。
「……迎えに来てくれたの?」
ハティルは短く鳴き、振り返る。
暗闇の奥へと駆けていく。
その背中を追って、アシュリーは走り出した。
闇が揺れ、幻にヒビが入る。
前世の記憶が、剥がれて消えていった。
――その瞬間、どこか遠くからケイトの声が響いた。
「アシュリー様っ!早く戻ってきてください!」
その声が、胸の奥を貫く。
ハティルの姿が光に包まれた。
最後にもう一度、彼は嬉しそうに「わんっ!」と吠えた。
アシュリーは涙をこぼして笑った。
「……ありがとう。あなたがいたから、ここまで来られたの」
光が爆ぜ、彼女は愛する人の元へと還っていった。
◆
一方、マルクスも幻の中を彷徨っていた。
アシュリーを探し、歩き回る。
「……君がいないこの世界に生きるくらいなら、私は――」
その時、轟くような風が吹いた。
マルクスは飛ばされそうになりながら必死に耐える。
巨大な影が降り立った。
竜は大地を揺らすほどの咆哮を上げる。
そして小首を傾げ、「くぅ」と鳴くと、マルクスの前に顔を寄せた。
大きな瞳が、どこか誇らしげに輝いている。
「……ヨルムガルド……?」
ヨルムガルドは鼻先でマルクスの胸をぐいぐいと強く押した。
“戻れ”とでも言うように。
マルクスが息を呑むと、空に光が差した。
遠くでイゴールの怒鳴り声が聞こえる。
「マルクス、起きろっ!ここはもう戦場じゃない!あんたの隣にいるのは――アシュリー様だろう!」
マルクスは目を見開き、拳を握り締めた。
幻の戦火が光に溶けて消えていく。
「……そうだ。私はもう、孤独じゃない」
彼の足元から光が立ち上る。
ヨルムガルドがもう一度だけ低く鳴き、翼を広げた。
「……ありがとう、ヨルムガルド。もう迷わないから」
竜の影は一気に上空へと駆けてゆき、黒い点になった。
◆
大きな光が弾け、回廊に静寂が戻る。
足元の青白い紋様が、ゆっくりと消えていく。
アシュリーは荒い息を吐きながら、震える手で胸を押さえた。
隣では、マルクスが立ち上がろうとしていた。
ケイトとイゴールが駆け寄ってくる。
「アシュリー様!」
「マルクス!」
二人の声に、アシュリーとマルクスは顔を上げ、安堵の表情を浮かべた。
キリアンが目を閉じ、静かに祈りの印を切った。彼は低い声で告げる。
「……ハティルとヨルムガルドは、もう聖廟の外です」
ケイトが首を傾げた。
「何故……?」
「主を救うために魔力を使い切り、今――ヴァルトリアへ帰還しようとしています」
その言葉に、アシュリーが目を瞬かせた。
「……おうちに?」
「ええ。彼らの家――辺境の城へ」
キリアンが穏やかに頷く。
イゴールが静かに笑った。
「まったく……あの竜と狼も、主人に似て勝手なもんだ」
◆
アシュリーとマルクスは、外の光の差し込む方へと走っていく。
二つの影が見えた。
ヨルムガルドが翼を広げ、風を巻き上げていた。
その風がマルクスの外套を揺らす。
「……帰ったら一緒に空を飛ぼう」
マルクスが呟く。
ヨルムガルドはその言葉に応えるように、ばさりと翼を揺らす。
喉を鳴らすように低く唸ると、巨大な翼が風を切り、竜は空へ昇っていく。
ハティルがアシュリーの前に歩み寄った。
前脚をぽふ、とアシュリーに乗せる。
「……ありがとう、ハティ。帰ったらまた私と遊んでね」
アシュリーの声は少しだけ震えていた。
ハティルは小さく「わふ」と鳴き、尾をぶんぶんと振った。
そして彼もまた、白砂の方へと駆けていった。
上空を旋回していた竜が、それを追いかけるように小さくなっていく。
「……行っちゃいましたね」
アシュリーが静かに呟く。
「城が恋しくなったんでしょう」
イゴールが肩をすくめる。
キリアンが小さく笑った。
「彼ら、満足そうでしたね」
アシュリーは胸に手を当て、微笑んだ。
「……あの子たちは、私たちの家族です」
マルクスが穏やかに言う。
「そうだね。帰ったら褒めてあげなければ」
その瞬間、風が吹き抜けた。
まるで――返事をするかのように。
◆
アシュリーは心に残る温もりを確かめながら、顔を上げ、前を向いた。
「……行きましょう。皆が待っている、おうちに帰るために」
マルクスが頷き、剣を抜いた。
イゴールがそれに続く。
ケイトが短剣を出し、キリアンは杖を握る。
――彼らは迷いなく先へ、聖廟の最奥へと向かっていく。




