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もふもふに導かれて、愛する人の元へ

 聖廟の扉をくぐると、空気が変わった。


 どこか胸の奥をざらつかせるような気配。


 壁に刻まれた文様が幽かに光を帯びていた。

 それは呼吸をしているように脈打ち、彼らを奥へ奥へと誘う。


 アシュリーは一歩踏み出し、息を呑んだ。


 ――どこからともなく、声が聞こえる。



「この仕訳は……」

 それは、懐かしい声だった。

 前世の自分の声だ。


 振り返ると、そこにあるはずのない景色――蛍光灯の光と無機質なデスク。


「……ここは……」

 パソコンの画面に映る自分の名が並んでいる。

 

 キーボードを叩く音、プリンターの音、そして誰もいないオフィス。


 机の上には冷めたコーヒーと、未開封の誕生日ケーキ。


 誰も祝ってくれなかった夜。

 愛されたことのない人生。


(……これが、私の……前世)


 視界が歪む。

 心の奥底から、孤独と虚しさが這い上がってくる。


「……もう頑張らなくてもいいよ」

 幻の誰かの声がする。

「疲れたでしょ、全部捨ててしまえば?」


 アシュリーの手から、魔光石が落ちた。



 彼の前には、血に染まった戦場が延々と広がっていた。


 砂塵の向こうで炎が立ち上る。

 剣を振るうが、悲鳴が常に聞こえてくる。


 ふと、アシュリーの声が聞こえた。

 振り返ると、彼女が血塗れで倒れている。


「……いやだ……置いていかないでくれ……!」

 マルクスは駆け寄るが、どれだけ手を伸ばしてもアシュリーに届かない。


 彼女の身体は砂となって崩れてゆき、やっと手が届いたというのに、それは指の間からこぼれ落ちていった。


「また……失ってしまうのか……」

 幾度も守るものを失ってきた記憶。

 友を、部下を、そして父を。


 それでもようやく手に入れた“愛する人”までも――。


 手が震え、握っていた剣を落とした。

 マルクスの身体は完全に力を失っていた。



 その頃、現実のアシュリーたちはそれぞれ別々の場所に立ち、まるで眠るように動かなくなっていた。


 ケイトが彼らの名を呼ぶ。

「アシュリー様! マルクス様!」

 しかし返事はない。


 キリアンが辺りを見回した。

「……まるで幻に囚われたようですね」


「幻……?」

 イゴールの表情が険しくなる。

 その瞳の奥に、揺らぎが走った。


「でも……私たちがいる! 大丈夫、必ず――」

 ケイトが固まるイゴールをばしっと叩いた。


 その時、足元の紋様が青白く輝き始める。

 風が渦巻き、祈りのような声が空間を満たす。


「……幻視の回廊」

 キリアンが、床の古いアルバの言葉を読んだ。


 ――絶え間ない祈りの声が示すのは、〈幻視の回廊〉が完全に目を覚ましたという事実だった。



 暗闇の中で、アシュリーは歩いていた。

 暗く、終わりのない廊下が続いている。


 呼吸が浅くなり、耳の奥で誰かが囁く。


「私は報われなかった。努力しても、誰も見ていなかった」

「また同じだよ。何をしても、無意味で、誰も救えない」


 ――違う。


 アシュリーは唇を噛み、歩みを止めない。

 けれども、足が重く、何かが絡みついて前に進めなくなる。


 その時だった。


 前方で、白い光が揺れた。


 光の粒が舞い上がり、そこから――銀色の影が現れる。


「……ハティ?」


 銀狼が静かに彼女を見つめていた。

耳を伏せ、やさしく尻尾をふる。


 そして、アシュリーの頬をぺろりと舐めた。

 懐かしい温もりに胸の奥が切なくなる。


「……迎えに来てくれたの?」


 ハティルは短く鳴き、振り返る。

 暗闇の奥へと駆けていく。


 その背中を追って、アシュリーは走り出した。


 闇が揺れ、幻にヒビが入る。

 前世の記憶が、剥がれて消えていった。


 ――その瞬間、どこか遠くからケイトの声が響いた。


「アシュリー様っ!早く戻ってきてください!」


 その声が、胸の奥を貫く。


 ハティルの姿が光に包まれた。


 最後にもう一度、彼は嬉しそうに「わんっ!」と吠えた。


 アシュリーは涙をこぼして笑った。

「……ありがとう。あなたがいたから、ここまで来られたの」


 光が爆ぜ、彼女は愛する人の元へと還っていった。



 一方、マルクスも幻の中を彷徨っていた。

 アシュリーを探し、歩き回る。


「……君がいないこの世界に生きるくらいなら、私は――」


 その時、轟くような風が吹いた。

 マルクスは飛ばされそうになりながら必死に耐える。


 巨大な影が降り立った。

 竜は大地を揺らすほどの咆哮を上げる。


 そして小首を傾げ、「くぅ」と鳴くと、マルクスの前に顔を寄せた。


 大きな瞳が、どこか誇らしげに輝いている。


「……ヨルムガルド……?」


 ヨルムガルドは鼻先でマルクスの胸をぐいぐいと強く押した。


 “戻れ”とでも言うように。


 マルクスが息を呑むと、空に光が差した。

 遠くでイゴールの怒鳴り声が聞こえる。


「マルクス、起きろっ!ここはもう戦場じゃない!あんたの隣にいるのは――アシュリー様だろう!」


マルクスは目を見開き、拳を握り締めた。


 幻の戦火が光に溶けて消えていく。


「……そうだ。私はもう、孤独じゃない」

 彼の足元から光が立ち上る。

 ヨルムガルドがもう一度だけ低く鳴き、翼を広げた。


「……ありがとう、ヨルムガルド。もう迷わないから」


 竜の影は一気に上空へと駆けてゆき、黒い点になった。



 大きな光が弾け、回廊に静寂が戻る。

 足元の青白い紋様が、ゆっくりと消えていく。


 アシュリーは荒い息を吐きながら、震える手で胸を押さえた。

 隣では、マルクスが立ち上がろうとしていた。


 ケイトとイゴールが駆け寄ってくる。

「アシュリー様!」

「マルクス!」


 二人の声に、アシュリーとマルクスは顔を上げ、安堵の表情を浮かべた。


 キリアンが目を閉じ、静かに祈りの印を切った。彼は低い声で告げる。


「……ハティルとヨルムガルドは、もう聖廟の外です」

 ケイトが首を傾げた。

「何故……?」


「主を救うために魔力を使い切り、今――ヴァルトリアへ帰還しようとしています」


 その言葉に、アシュリーが目を瞬かせた。

「……おうちに?」

「ええ。彼らの家――辺境の城へ」

 キリアンが穏やかに頷く。


 イゴールが静かに笑った。

「まったく……あの竜と狼も、主人に似て勝手なもんだ」



 アシュリーとマルクスは、外の光の差し込む方へと走っていく。


 二つの影が見えた。


 ヨルムガルドが翼を広げ、風を巻き上げていた。

 その風がマルクスの外套を揺らす。


「……帰ったら一緒に空を飛ぼう」

 マルクスが呟く。


 ヨルムガルドはその言葉に応えるように、ばさりと翼を揺らす。


 喉を鳴らすように低く唸ると、巨大な翼が風を切り、竜は空へ昇っていく。


 ハティルがアシュリーの前に歩み寄った。

 前脚をぽふ、とアシュリーに乗せる。


「……ありがとう、ハティ。帰ったらまた私と遊んでね」

 アシュリーの声は少しだけ震えていた。


 ハティルは小さく「わふ」と鳴き、尾をぶんぶんと振った。


 そして彼もまた、白砂の方へと駆けていった。

 上空を旋回していた竜が、それを追いかけるように小さくなっていく。


「……行っちゃいましたね」

 アシュリーが静かに呟く。


「城が恋しくなったんでしょう」

 イゴールが肩をすくめる。


 キリアンが小さく笑った。

「彼ら、満足そうでしたね」


 アシュリーは胸に手を当て、微笑んだ。

「……あの子たちは、私たちの家族です」


 マルクスが穏やかに言う。

「そうだね。帰ったら褒めてあげなければ」


 その瞬間、風が吹き抜けた。


 まるで――返事をするかのように。



 アシュリーは心に残る温もりを確かめながら、顔を上げ、前を向いた。


「……行きましょう。皆が待っている、おうちに帰るために」


 マルクスが頷き、剣を抜いた。

 イゴールがそれに続く。

 ケイトが短剣を出し、キリアンは杖を握る。


 ――彼らは迷いなく先へ、聖廟の最奥へと向かっていく。


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