終話 夫婦になっても変わらない、お砂糖より甘い愛!
ヴァルトリアに戻ってから三日。
吹雪の記憶も、星の泉で見た幻もまだ胸の奥に残っている。
けれど、辺境の空には確かに春の匂いが漂い始めていた。
雪解けの水が石畳を流れ、城下の屋根から雫が滴る。
――世界が少しずつ、動き出している。
アシュリーは辺境城の庭の回廊を歩いていた。
久々に感じる穏やかな日差しに目を細めていると、背後から柔らかな声がした。
「もう寒くないかい?」
振り向けば、マルクスが外套を手に立っていた。
濃紺の衣の襟を少し開け、穏やかな笑みを浮かべている。
「いえ、少しだけ……でも、気持ちがいいです」
「そうか。君がそう言うと、冬も悪くない気がするね」
彼は外套をアシュリーの肩にかけ、髪についた葉を払ってくれる。
その仕草に、胸がふっと温かくなる。
「今日は体調は問題ない?」
「はい。あの日は、本当に皆さんにご心配をおかけしました」
「……君が吹雪に消えた時、心臓が止まるかと思った」
「…ごめんなさい」
マルクスは穏やかに言いながらも、その瞳は真剣だった。
「だから、次は私も巻き込んでくれ」
「……そんなこと、約束できません」
「では、私が必ずどこにいても君を捕まえよう」
「……もう、マルクス様」
笑う声が、春の光の中に溶けた。
◆
執務室の机には、封蝋された書簡が置かれていた。
王太子の印章。宛先は王城。
「……王都への報告書ですね」
「ああ。兄上に簡単な報告だけ送る。正式な報告は後にして、今は――一刻も早く出発しよう」
マルクスは筆を置き、封を閉じる。
書簡の文は、ほとんどが弟としての言葉だった。
「アルザス陛下は、何とおっしゃるでしょう」
「きっと笑うだろう。“お前らしい”とね」
そう言って、マルクスは微笑んだ。
「……君が妹を救いたいと願うなら、私がそれを止める理由は何もない」
「マルクス様……」
「君の願いは、私の願いだよ。それが夫婦というものだろう?」
アシュリーは言葉を失い、そっとその手を握った。
掌に伝わる温もりは、何よりも確かだった。
◆
辺境城の一角では、使用人と兵たちが忙しく動き回っていた。
その中心で、ケイトとイゴールが荷をまとめている。
「旅支度、すべて整いました。魔石灯と医薬箱、温石も追加済みです」
ケイトが帳面を閉じて言う。
「それと――今回は私たちも同行させていただきます」
イゴールがマルクスの前に跪き、頭を下げた。
「……陛下の命でもあります」
「……兄上が?」
「“お前が無茶をするなら、せめて見張りを増やせ”とのことです」
イゴールが苦笑し、ケイトも肩をすくめる。
「心強い叱責ですね」
アシュリーが微笑むと、ケイトがからかうように言った。
「アシュリー様こそ、旦那様を守って差し上げてください」
「……私が、ですか?」
「はい。うちの人もそうですが、辺境出身の男は必ずと言っていいほど無茶をなさるので」
イゴールが咳払いをした。
「……君、その“うちの人”って誰のことだ」
「他に誰がいます?」
夫婦のやりとりに、アシュリーがくすっと笑い、マルクスも笑った。
そのとき、銀狼ハティルがやってきてマルクスの足元にすり寄る。
ヨルムガルドは中庭で翼を広げ、白い雪を舞い上げた。
辺境の空に、春の風が吹く。
◆
夜。
暖炉の火が静かに燃えている。
アシュリーはソファに座り、膝の上に一冊の古書を開いていた。
マルクスが向かいの椅子から身を寄せる。
「まだ眠れない?」
「……考えごとを」
「妹のこと?」
「……はい。ルーチェの……これからを」
アシュリーの瞳が震える。
マルクスはその手を取り、唇を寄せた。
「……世界にたったひとりでも心から案じてくれる人がいることは、彼女にとって幸せなことだと思うよ」
炎の光が揺れ、二人の影を重ねる。
「マルクス様……怖くないですか」
「いや、君といると不思議と恐れはすべて消える」
「……私もです」
アシュリーが微笑むと、マルクスがそっと彼女を引き寄せた。
「では、ずっと共にいなければ」
「……はい」
アシュリーが頬を寄せ、マルクスの腕がその背を包む。
二人は唇を重ね、静かに息を溶かした。
「寝室に行こうか」
「……ずっと、手を握っていてもいいですか」
「君がそう望むなら、朝まででも」
「……朝になっても、離れません」
「それは最高だね」
囁き合う声が重なり、外の風が窓を優しく揺らした。
◆
翌朝。
雪原に薄い朝日が差し、金色に染まる。
中庭ではヨルムガルドが伸びをするように翼を広げ、ハティルがその横で雪をふるふると落としていた。
ケイトとイゴール、キリアンが馬に跨がり、マルクスとアシュリーの到着を待っている。
アシュリーは白い外套を翻し、マルクスの差し出した手を取った。
その瞬間、太陽の光で雪原がきらきらと煌めいた。
「行きましょう。ルーチェを――そして、この世界を救うために」
「……ああ。共に」
マルクスがハティルに跨り、アシュリーがその後ろに続く。
ケイトとイゴール、キリアンも馬を進め、ヨルムガルドの影が大地を横切る。
――ヴァルトリアの冬が終わり、南へ続く道が開けていた。
それは、希望という名の雪解けだった。
三章が無事、終わりました。四章はようやくヒロインVS元悪役令嬢の喧嘩の予定です!(マルクスが黙ってないでしょうが)
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