元悪役令嬢と神秘の泉のお告げ
雪が深く積もり、世界は息を潜めていた。
風は細く、空の底で氷の粒が鳴っている。
アシュリーたちは高山山羊に乗り、白銀の岩場を登っていた。
息を吐くたびに霧が生まれ、空気に溶ける。
遠くの稜線の向こうで、微かに青白い輝きが瞬いていた。
「……あの光が恐らく、“星の泉”です」
キリアンが囁く。
「我が国に伝わるこの地方の伝承で、“魂が通う道”と呼ばれています。
未来を読む一族――“先見の民”が代々この地を護ってきた」
マルクスが目を細める。
「彼らに会えるだろうか」
「試すしかありません」
アシュリーは風の中で頷いた。
高山山羊の蹄が雪を蹴り、岩場の裂け目を抜ける。
風が止んだ瞬間、世界が変わった。
遠くで氷が落ちるような響き――それが、音楽のように聞こえた。
◆
谷は円を描くように沈み、雪に囲まれていた。
家屋はあまり多くはなく、昔ながらの木で出来た家が並ぶ。
質素だが、全て白い木で造られており、どこか神秘的だった。
その村の中央に、黒曜石のような色をした大きな泉が広がっている。
空の星々がそのまま水面に瞬いていた。
冷気は澄み切っている。
雪の結晶が音もなく落ち、水面に触れて消える。
キリアンが馬を降り、泉の前に膝をつく。
マルクスとアシュリーもその後に続いた。
――祈りを捧げようとした、そのとき。
対岸に、人影が現れた。
真っ白なふわふわした長い外套に、耳当てのある白い帽子を纏った少女。
その背後には、同じ装束の者たちが十数名、静かに並んでいた。
「……先見の一族」
キリアンが低く呟いた。
最前に立つ白髪のひとりの少女が、静かに歩み出る。
雪明かりを受け、その髪が淡く光を帯びた。
「地上より来たる者よ。
汝ら、影を探す者」
不思議な声は水面に波紋をつくり、泉全体が微かに震えた。
マルクスが静かに答えた。
「先見の一族よ。私はマルクス・ヴァルトリア辺境伯、この地の領主です。
私たちはあなた方の力を借りに来ました」
巫女は一度、まぶたを閉じた。
「……お待ちしておりました。私は先見の一族の巫女。星の泉の導きを伝える者。
星が映すは未来にあらず――それは、予兆」
指先が水面に触れる。
透明な波紋が広がり、光が泉の奥から生まれた。
◆
泉が色を変える。
黒から白へ――白い砂が揺らめき、光が水の底で脈打つ。
そこに、焼けつくような砂の大地が現れた。
祈りを捧げる群衆。
崩れ落ちる白い聖堂。
そして、その中心に立つ女――ルーチェ。
風が彼女の髪を攫い、黒い光が背に広がる。
唇が何かを唱え、砂が渦を巻く。
暗闇に爆発が起こり、人々が祈り、同時に泣いていた。
「……南方の、今は亡き国」
キリアンが呟く。
「アルバ。かつて聖女が滅びをもたらした国」
巫女が静かに言葉を継ぐ。
「彼女は“過去の栄光”を呼び戻そうとしている。
そのために、“異なる知識”を再びこの地に持ち込もうとしているのです」
マルクスが低く呟く。
「……彼らは、自分だけは壊さないと、そう信じているんだね」
アシュリーの声が震えた。
「でも、それは――きっと、誰かを傷付けてしまう」
巫女は歌うように言った。
「今世の聖女の過ちは、この世界そのものを壊すだろう。
さすれば全ての世界から追放され――どの世界にも、死して尚、還れぬ」
倒れそうになるアシュリーを、マルクスが支えた。
「……ルーチェ……」
巫女は首を傾け、微笑んだ。
「姫君はすでに未来を選んだ。その妹もまた。
けれど、恐れる事なかれ。人はいつの時代も、未来を選び、変えることが出来る」
泉の光が消え、水面に満天の星が落ちる。
鏡のように三人を映していた。
◆
アシュリーはその光景が頭から離れなかった。
ルーチェの姿が溶け、砂と共に消えていく――あの光景が。
「……この世界を、私は愛しています。
だから、彼女を止めなければ」
その声は悲痛だった。
マルクスは穏やかに言う。
「共に、この世界を守ろう。
聖女ルーチェのことも、君と一緒に考える。
――私は、君の夫だからね」
その声に、アシュリーは震えながら頷いた。
巫女の背後に立っていた先見の一族たちが、一斉に両手を空へ掲げる。
風が雪を巻き上げ、白い光が空へ昇る。
巫女の鈴のような声が響く。
「お行きなさい、南へ。手を取り合う者と共に。
この泉は汝らを見送ろう。光の方へ、還るその時まで」
マルクスがアシュリーの肩を抱き、静かに言った。
「夜明けは近い。……行こう」
空がわずかに赤く染まる。
星の泉は静かに沈黙し、
ただ三人の背を見送っていた。




