元悪役令嬢、うっかりして彼を泣かせる
ルーメニアの滞在は、もう十日をゆうに越えていた。
聖堂を巡り、聞き込みをしても、ルーチェとゲルトの行方は一向に掴めない。
「……まるで、足跡ごと消えたようです」
アシュリーの声がかすかに震えた。
マルクスも黙って頷く。
広場に満ちる祈りの歌が、逆に不気味だった。
キリアンが古い文書を取り出した。
「――そういえば、王城の古い記録に“先見の一族”という名がありました。
辺境の白霧の峰に暮らし、未来を読むと伝えられています。
もしかしたら彼らであれば、聖女の行方を視られるかもしれません」
マルクスは短く息を吐く。
「……では、一度ヴァルトリアへ戻ろうか。補給を整えてから、そこへ向かう」
その言葉に、アシュリーは小さく頷いた。
◆
帰路についたのは、灰色の雲が空を覆い始めた頃。
ルーメニアの眩い空気がやがて冷たく変わり、雪がちらつきだす。
山道は険しく、風が次第に強くなっていく。
マルクスが頭上を確かめて、声を張った。
「峠を越えたら野営しよう。風向きが変わる」
その予感はすぐに現実となった。
空が裂けたように、突風が吹き荒れる。
世界が一瞬で白に沈み始める。
「吹雪だ!」
キリアンが馬を抑え、叫ぶ。
「凌げる場所へ急ぎましょう!」
「結界を展開します!」
アシュリーも馬を降り、両手を掲げる。
光の結界が生まれ、雪の壁を押し返す。
しかし風はそれ以上に強く、少しずつ光が軋むように揺れた。
大木の根元へ三人は進むが、結界は壊れかけていた。
「もう少し……もう少しだけ!」
「アシュリー! 無茶を……!」
マルクスが手を伸ばした瞬間、光が弾ける。
雪煙の向こうで、彼女の姿が消えた。
「――アシュリー!」
◆
マルクスが振り返ると、視界にはもう白しかなかった。
風が獣のように唸り、馬の嘶きも掻き消える。
アシュリーがいた方向に足を踏み出そうとする彼の腕を、キリアンが掴んだ。
「駄目です!視界がない!閣下まで――!」
「行きなさい!」
マルクスの声が鋭く響く。
「貴方は城へ戻って事情を!すぐに救援を頼んで下さい!」
「閣下――!」
「これは命令です!」
キリアンは歯を食いしばり、頷く。
そして馬を連れ、雪の中へ消えた。
マルクスはただ一人、嵐の中を進む。
風が肌を裂き、息は凍る。
それでも、止まれなかった。
「アシュリー!返事をしてくれ!」
叫びは風に飲まれ、かき消される。
――そのとき、雪の中で銀色の色が揺れた。
マルクスは駆け寄る。
雪の上、アシュリーが倒れていた。
頬も唇も青白い。
「……アシュリー!」
彼は跪き、彼女を抱き寄せた。
額を寄せると、かすかな呼吸がある。
「大丈夫だよ……絶対に助けるから」
アシュリーを横抱きに抱え込むと、自分の外套で包み込む。
風に背を向け、雪を踏みしめて進む。
凍える空気の中、腕の中の体温だけが確かなものだった。
◆
ヴァルトリア城の門が開かれたのは、それから数刻後。
到着したキリアンの報告を受け、ケイトとイゴールがすでに救助の支度を整えていた。
「捜索隊出動――!」
ケイトが声を上げたその時、見張り台から叫びが上がる。
「閣下が戻られました!」
吹雪を裂くように、マルクスが現れた。
外套に雪をまとい、腕の中にはアシュリーの姿。
顔は真っ青でも、目だけが爛々と燃えている。
「医師を!」
イゴールが叫び、すぐに従者たちが走る。
マルクスはそのまま寝台のある部屋へ運び込み、アシュリーから手を放さなかった。
「……魔力枯渇と低体温ですね。大丈夫です、命に別状はないでしょう」
医師の言葉に、マルクスはようやく彼女から手を離した。
顔色は悪く、唇も紫がかっている。
イゴールが眉をひそめる。
「閣下も凍傷です。今、動ける状態じゃありません!」
「後でいい。彼女の側に……」
「マルクス!」
イゴールの臣下ではなく、幼馴染としての叱責の声に、マルクスはかすかに笑って首を振った。
「私より彼女を。――アシュリーが目を覚まさなかったらと思うと、死にそうな気分だよ」
◆
夜が明けるころ。
雪はようやくやみ、窓から淡い光が差し込む。
アシュリーは眩しさにゆっくりとまぶたを開けた。
目に入ったのは、見慣れた天井。
そして、椅子に座ったまま手を握っていたマルクスの姿。
冷たいマルクスの手の温度に驚く。
「……マルクスさま?」
その声に、彼がはっと目を開けた。
次の瞬間、椅子を倒して立ち上がる。
「アシュリー……!」
声が震えていた。
アシュリーが微笑もうとした時、マルクスは言葉を飲み込むように息を吐いた。
「……どうして、あんな無茶を…」
震える声にアシュリーもまた動揺する。
アシュリーは俯いて小さく答えた。
「……守りたかったんです。あなた達を」
マルクスの表情が崩れる。
そして次の瞬間、彼は彼女を強く抱きしめた。
「もう二度と離さない。君を置いていくくらいなら、この命ごと――」
「……ごめんなさい!」
「謝らないで。……帰ってきてくれて、ありがとう」
アシュリーは彼の胸に顔を埋め、ゆっくりその背を撫でた。
◆
嵐の夜は去り、辺境の空に朝日が昇る。
三人は束の間の休息。
――そして再び、彼らは歩き出す。
“未来を視る一族”のもとへ。
まだ見ぬ運命を聞きに。




