異世界転生した、悪役令嬢とヒロインたち
霧の切れ間に、白い尖塔の影が薄らと浮かんでいた。
丘の上――かつて信徒が跪いた教会。
今は、風だけが祈る廃墟になっている。
屋根は半ば落ち、壁に蔦が巻き付いていた。
砕けたステンドグラスが散らばり、光を受けるたび、虹の欠片が壁の上を静かに揺れる。
「政教分離の改革で予算が削減され、真っ先に廃棄になった施設です。
……皮肉ですが、神官たちによって“神”が最初に切り捨てられたのです。
そしてここは、ゲルト神官が拠点にしていた場所でもあります」
キリアンが小声で告げる。
「ゲルトはここを“沈黙の聖域”と呼び、地下を改造して研究室にしていたそうです。
――恐らく、彼と聖女ルーチェの目論む〈Code of Eden〉の記録が残っているでしょう」
アシュリーは歩みを緩め、崩れた聖壇の前で立ち止まった。
香炉の陶片が散り、長椅子は横倒しのまま。
ほこりの粒が光を受けて、きらきらと宙を漂っている。
けれど、不思議と空気は澄んでいた。
崩れた祭壇の石には、膝をついた跡がいくつも刻まれている。
――誰かが、神のいないこの場所で、それでも祈り続けたのだ。
「……静かですね」
「人が去っても、場所は覚えているのかもしれないね」
マルクスの声が穏やかに響いた。
光の粒が彼の銀髪と横顔を淡く照らす。
アシュリーは一瞬、その姿に見入ってしまった。
◆
教会の奥へ進む。
壁の聖女画には、誰かの手で上書きがされていた。
黒い染料で塗りつぶされ、その上から王冠が描き足されている。
アシュリーは背筋が冷たくなるのを感じた。
「……王妃であった初代聖女ですね」
キリアンが低く呟く。
「癒しの力で多くを救ったと言われていますが、同時に、その奔放さが人々を混乱させたとも言われています」
アシュリーは小さく息を呑んだ。
――妹、ルーチェもまた、かつて学園で同じように人を惹きつけ、混乱を招いた。
廊下の突き当たりに、黒い絨毯が敷かれている。
踏みしめると柔らかく沈み、下から空洞の音が返ってきた。
マルクスが絨毯をめくると、比較的新しい金属の取っ手が現れる。
「……地下室があるな」
「行ってみましょう」
風がひと筋、階段の下から吹き上がった。
まるで、誰かが“待っている”ようだった。
◆
石の階段は長く、壁には黒い蝋の跡が続いている。
マルクスの魔法の灯が、湿った壁を照らしながらゆらめいた。
壁面には古い祈りの文と、聖女の浮彫。
笑っているのか泣いているのか分からない、その微笑が闇の中に浮かんでいる。
最下層に着くと、ひやりとした冷気が肌を撫でた。
そこは書庫のような空間だった。
崩れた本棚の間に古文書が散らばり、床一面に紙が積もっている。
アシュリーが一枚拾い上げる。
それは、ルーチェが使っていた術式と同じだった。
「……同じです。ルーチェが使っていたものと」
「つまり、ここが“聖女の奇跡”を造り出した研究所というわけだ」
マルクスの声が低く響く。
奥の石台の上には、灰色の布が一枚。
それを外すと、古びた革の表紙――血のような赤で刻まれた文字が目に飛び込んだ。
〈Code of Eden〉――神のゲート。
アシュリーの手が震えた。
ページをめくると、転送の術式が細かく記されている。
血を用い、記憶から“何か”を呼び出す。
それは声であり、幻影であり――人が“奇跡”と呼ぶものの形だった。
「……黒い光。あの奇跡は、これ……」
キリアンの顔が険しくなる。
「“奇跡”ではなく、“再現”です。神の御業を装った、過去の再生」
焦げた紙片が挟まっていた。
アシュリーが拾い上げると、殴り書きのような文字が見える。
PHASE 1:COORDINATE FIX
"異世界の兵器を転送し、神の雷とする"
さらに、別のページ。
そこに描かれていたのは巨大な円陣と、供血の儀式。
アシュリーの胸がきゅっと締めつけられた。
「……このまま発動すれば、異界の物質が転送される。
兵器や毒――そんなものが持ち込まれれば、この世界は……壊れてしまう」
声が震え、アシュリーはその場に座り込む。
「私は何も知らない……前世でただ数字を処理していただけ。
どうすれば……止められるのか……」
マルクスが隣にしゃがみこみ、そっと肩を抱き寄せた。
彼の手が、彼女の背を撫でる。
「信じよう。君を、私を、この世界を。
君が十年かけて見せてくれた“諦めない力”は、この世界にも必ずある。
……君はもう、恐れる側じゃない」
アシュリーの肩を引き寄せながら、彼は囁いた。
「出来るまでやる――そう言って、立ち上がってきた君が教えてくれたんだ」
その声は、地下の冷気を溶かすように穏やかだった。
「君を信じる私を、信じてほしい」
アシュリーは静かに頷き、マルクスの胸に顔を埋めた。
その体温が、凍えた心を少しずつ溶かしていく。
◆
その時――棚の奥で、一冊の本がひとりでに落ちた。
開かれたページに焦げ跡が走り、文字が淡く光を放つ。
Phase 2:Gate Link――開門準備
アシュリーが息を呑む。
キリアンが顔を上げ、紙片を拾い上げた瞬間、地上から鐘の音が響いた。
――誰もいないはずの鐘楼が、風もないのに鳴り始める。
アシュリーがマルクスの腕の中で顔を上げた。
地下室の入り口の隙間から光が差し込み、塵が金色に舞っている。
「……聖女が、呼んでいるのかもしれません」
マルクスが低く答える。
「……私が君を連れて行かせるものか」
アシュリーは静かに頷き、〈Code of Eden〉の本を胸に抱く。
鐘の音が止む。
代わりに、遠くで聖歌が聞こえた。
まるで神が再び降りたような――けれど、その旋律はどこか不吉だった。
――奇跡の名を借りた“脅威”が、今、世界を変えようとしている。




