白亜の都はヒロインに魅了されて
国境付近の森を抜けるとがらりと空気が変わった。雪の冷たさを残した風の向こうに、白く霞む街が見えてくる。
――それはまるで雲の上に築かれた都。
丘陵の上にそびえる白大理石の城壁。
無数の尖塔が黄金の先端で朝陽を受け、神の冠のように輝く。
鐘の音が幾重にも重なり、空に響き、白い鳩が舞い上がり、風に香の煙が揺れる。
この空気そのものが信仰という形を作っているようだった。
「……これが、ルーメニア」
アシュリーの声がかすかに震える。
その瞳に映るのは、白と金の世界――“信仰”が形になったような街だった。
◆
眩しさに目が慣れるまで少し時間がかかった。
石畳は鏡のように磨かれ歩くたびに靴音が鳴る。
教会の外回廊の柱に聖人の像が並びどれも淡い光を放ち、白衣の神官たちが香炉を揺らしながら通りを進む。
乳香の甘い煙が街全体を淡く霞ませていた。
鐘の音、聖歌の旋律、鳩の羽音――全てが一つの調和に包まれている。
通りの両脇には民の長い列。
誰もが両手を胸に当て、丘の上の大聖堂を見上げている。
「“奇跡の聖女ルーチェ”様に祈りを!」
合唱のような祈祷が幾重にも響き渡る。
教会の白い壁に掲げられた金糸の旗に“死者に安らぎを与えし聖女”の文字。
朝の光を受けて、まるで神そのもののように輝いていた。
アシュリーは立ち止まり、息を呑んだ。
「……まるで国全体が教会のようです」
マルクスとキリアンが静かに頷く。
「信仰がこの国そのものだからな」
穏やかな声の奥にかすかな冷たさが混じっていた。
◆
中央広場では説法が行われていた。
黄金の壇上の前で、神官が白い聖布を掲げて語る。その下では、光る黒い紋様――魔法陣のようなものがちらりと覗く。
「――ルーチェ様は先の戦の死者に“最後の言葉”を与えられました!」
「家族の前に現れた兵士たちは、黒き光に包まれ、微笑んで消えたのです!」
神官が手を上げたその瞬間、黒く発光する光に包まれる。
群衆がざわめく。大きな声で泣き声をあげる者もいた。聖歌が波のように広がり、光の粒が舞い上がる。
乳香の香りが強くなり、空気が甘く重く変わっていく。
アシュリーはその光を見つめていた。
神聖というより――どこか、人ではない“意志”を感じる。
「……あれは、ルーチェの黒い光……」
無意識に口をつく。
マルクスがわずかに視線を向ける。
長い間、沈黙していたキリアンが口を開いた。
「ええ、あれが聖女の――」
彼は短く息を吐いた。
「心を病んだ者ほど、のめり込んでしまって…」
アシュリーは黙ってキリアンの横顔を見つめた。その瞳の奥には暗い影が落ちていた。
◆
香の煙が渦を巻き、白衣の列が揺れる。
人々が奇跡を一目見ようと押し寄せていた。
アシュリーは息を吸おうとして――人の波に足を取られた。
「――アシュリー」
低い声とともにマルクスの腕が伸びる。
腰をしっかり抱き寄せられ、大理石の柱の陰へ引き寄せられた。
ざわめきが遠のき、彼の胸の鼓動がすぐ近くで響く。
「……怪我はない?」
耳元で囁かれる。
「だ、大丈夫です……」
アシュリーが小さく答えると、マルクスは一息ついて微笑む。
「……君を甘やかすくらいで、ちょうどいいのかもしれないね」
冗談のように言いながらも、その瞳は真剣だった。アシュリーは頬を染めて小さくうなずく。
「……すみません。でも、ありがとうございます」
「謝ることはない。君を守るのは私の特権だからね」
その声はどこか誇らしげだった。
◆
群衆を離れ、教会の外回廊を抜ける。
高い天井の下、陽光が反射して白い波紋のように揺れた。
そこには外の喧騒とは違う閉ざされた静寂が広がっていた。
「……あの“奇跡”は一体何が目的なのでしょう」
アシュリーの声が静かに落ちる。
「女王陛下から後ほどご説明がありますが――」
前を歩くキリアンが振り返らずに言う。
「……我が国は宗教と政を切り離す、政教分離を進めておりました。そこに聖女ルーチェをつれて神官ゲルトが現れたのです」
その言葉にアシュリーは目を伏せる。
遠くで聖歌の旋律が、風に運ばれて響いた。
「……まるで、聖女に支配されているようです」
「我が国もこうなる未来はきっとあっただろうね」
マルクスの手が彼女の手を包む。
アシュリーはそっと握り返した。
――白亜の都。
そこにあるのは、祈りと祝福。
その光の奥で、誰も知らぬ“歪み”が芽吹き始めていた。




