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元悪役令嬢、十年分の熱い愛にとろける

 森の夜は、しんと静まりかえっていた。

 枝に積もった雪が時おり落ちて、ふわり、ふわり、焚火の明かりに溶けていく。


 旅の三日目の夜。

 冷たい空気の中、吐く息は白く凍る。

 それでも焚火の前は暖かい。


 キリアンはもう眠っている。

 穏やかな寝息がテントの中から微かに漏れ、外にはアシュリーとマルクスだけが残っていた。


 雪を踏む音も、風の音もない。

 ただ、焚火がぱちりと弾ける音だけが続く。


 アシュリーは炎を見つめていた。

 頬に映る橙の光がゆらぎ、まつ毛の先に落ちた雪がすぐに溶けて消える。


「……眠れないのかい?」

 低く、穏やかな声。

 マルクスが隣で彼女を見ていた。


「……少し、考えごとをしていました」

「長旅だからね。無理もない」

 その声は、火の音に溶けるようだった。


 アシュリーはかすかに笑ったが、瞳の奥には陰が落ちていた。


「……前世のことも、知っていたのに」

 俯いて、声を震わせる。


「私がこの世界で生きようと思えたのは、ルーチェが話してくれた“あなた”のことがきっかけでした。

 なのに……姉なのに、自分のことばかりで、ルーチェが壊れていくのを見ていることしかできませんでした」


 マルクスがそっと手を伸ばす。

 焚火の光が、覗き込む灰銀の瞳をちらちらと淡く照らす。


「……私はいつも遅いんです。

 気づいたときには、もう誰かが傷ついていて。

 努力しても届かないなら、私は何を信じて歩けばいいのか……」


 言葉の終わりは闇に吸い込まれてく。


 ぱち、と火の粉が弾ける。


「君の十年の努力は、きっといつだって君の味方をするよ」


 マルクスが強く言い切った。


 アシュリーが顔を上げる。

 炎に照らされた灰銀の瞳が、まっすぐに自分を見ていた。


「君はいつも前を向いていた。

 一人で転んでも、報われなくても、誰にも褒められなくても……それでも立ち上がっていた。

 ――その姿を、私はずっと見てきた」


「……ずっと、見守ってくださっていたんですか」

 かすれた声で問う。


「外からできることは限られていたけれど、君のそばに置いたケイトから何度も聞いていた。

 王都でも、時おり見かけていたよ」


 マルクスはアシュリーの手を少し強く握った。

「知っている。君がどんなに孤独でも、未来を諦めなかったこと。私が思うより、君はずっと強かった」


  彼の体温でアシュリーの冷えた手がゆっくりゆっくり温もりを取り戻していた


「だから……君の努力は、誰にも見られなかったわけじゃない」


重ねた指がアシュリーの強張った指を解いてゆく。


「君は知らないけど…そんな君のひたむきさが、私の凍った心を溶かしてくれたんだ」


 アシュリーの瞳が揺れ、溢れて、涙が頬を伝う。


 それは――雪解けのようだった。


「……っ」

 体を丸めて泣くアシュリーをマルクスは抱き止める。


「泣いていい」

 背中をゆっくり撫でながら、やさしく囁く。

「君はずっと、泣く暇もなかったから」


 焚火に照らされた二人の影は、ひとつに重なっていた。


「……学園にいた頃、悪役令嬢と呼ばれる君に、私はせいぜい嫌がらせを止めることくらいしかできなかった。

 でも君は、妹のために、そして見ぬ未来のために……それでもずっと努力を続けていた」


 マルクスが少し笑う。

 アシュリーも涙をこぼしながら微笑んだ。


「……ずっと、助けてくださっていたんですね」


「……大したことじゃないよ。今の私は、君が出会ってくれたからこそあるんだ」


 アシュリーはその胸に顔を埋め、震える声で言った。

「……そんな言葉をもらうなんて、思ってもみませんでした」


「ふふ……私は君に救われたから、たくさん返さないといけない」

 マルクスは彼女の髪を撫でる。


 響くのは焚火の音だけ。

 世界中がまるで二人だけのためにあるようだった。


 少しの沈黙のあと、マルクスがふっと息を吐く。

「……不思議だね」


「……?」

「この旅が、まるで新婚旅行みたいだ」


 アシュリーが涙を拭い、目を瞬かせる。

「……こんな森の中で?」


「そう。危険も寒さもあるけれど、十年もの間、遠くから見ていた君が、今は隣にいる。

 それだけで、もう十分に幸せだ」


 マルクスが微笑み、アシュリーを抱き寄せた。

 甘くすこし強引な口付け。


 アシュリーはただ彼の胸元を掴む。

 深く、長く、二人は抱き合っていた。


 ようやく呼吸を許され、アシュリーは真っ赤な顔で呟く。

「……もう眠れません」

「なら、朝までこうしていよう」


 マルクスは肩を抱き、額にまた唇を落とす。


 風はいつの間にか止んでいて、木々も静まり返った。焚火の灯だけが音もなくちらちらと揺れていた。


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