辺境のんびりスローライフ見学
石畳には薄く雪が積もり、軒先には氷柱がきらきらと光っていた。
パン窯の煙がまっすぐ空へと昇っていく。
開いたパン屋の戸口からは麦の香りが漂い、鍛冶場では火花の音が陽気に跳ねていた。
布屋の店先には、冬籠りの毛糸が山のように積まれている。
先導の銀狼ハティルがすっと人波に鼻先を突っ込む。自然に道が開いた。
「姫さま、きれい!」
「閣下、お気をつけて!」
アシュリーは微笑んで手を振った。
キリアンは馬上で町を眺め、目を細める。
「賑やかな朝ですね」
「冬は仕度の季節なのです」
銀狼に乗るアシュリーが並んだ。
「パン屋は春に備えて果実漬けの瓶を洗い、農具も春夏の衣服も今のうちに整えています。冬でも皆さん、働き者なんですよ」
◆
丘を越えると、広い牧羊地が現れた。
雪に覆われた大地の上を、白い羊たちが毛を揺らしながら群れを成して歩いている。
遠くでは、魔水牛が角から淡い光を流し、凍った水路をゆっくりと溶かしていた。
その傍らで子どもたちが声を上げ、飛び跳ねながら手を振っている。
アシュリーは微笑み、手袋越しにその小さな手を振り返した。
「本当に、魔物と人が共に暮らしているのですね」
キリアンが感嘆の声を漏らす。
「ええ。ヴァルトリアでは、魔物も仲間として働いています」
アシュリーが応えた。
「冬のあいだは魔水牛が水を運び、春には畑を耕してくれるんです。
あの高山山羊は、雪山の村へ荷物を届けに行くところでしょう」
雪の斜面を、高山山羊が荷籠を背にゆっくりと登っていく。
その背には布や薬草の包みが揺れていた。
森鹿の群れがその横を雪を散らしながら駆け抜ける。
道端の老婆が袋から乾草を取り出し、鹿の群れに投げ与えていた。
マルクスはその光景を眺め、静かに微笑む。
「君がこの地を愛してくれて……本当に嬉しい」
「ええ。……みんなが、誰かを助けながら生きている気がして。
マルクス様が治めるここが、大好きです」
「……私も、君が好きだよ」
その一言に、アシュリーは頬を染めた。
◆
道を進むにつれ、雪が深くなる。
冷たい風が吹き抜け、共に歩く馬のたてがみがふわりと揺れた。
アシュリーが足を取られかけた瞬間、マルクスが腕を伸ばした。
腰を支えられ、強く引き寄せられる。
「危ない。……私のそばから離れないで」
低い声が耳のすぐそばで囁かれた。
アシュリーの心臓が跳ねる。
「……マルクス様、キリアン様がいるのに」
「誰が見ていようと、私は君を守ると決めている」
そう言って彼は彼女を軽々と抱き上げ、馬に乗せた。
雪明りの中、彼の灰銀の瞳が一瞬、光を帯びて見えた。
アシュリーはどきどきする心臓をおさえて視線を逸らす。
「……自分で乗れます」
「私が妻を甘やかしたいだけだよ」
彼は笑みを浮かべ、手綱を握った。
その横顔には、大人の余裕が滲んでいた。
◆
国境沿いの森が近づく。
木々の間から差し込む陽が、雪面に反射して眩しい。
冷たい空気の中で、吐く息が白く重なった。
やがて、山のほうに影が見えた。
銀狼ハティルが静かに立ち、頭上ではヨルムガルドの大きな影が旋回している。
風にたなびく銀色の毛並み、空の光に反射する鱗。
二人の旅立ちを見守るかのように、高らかに鳴いた。
アシュリーは馬上からそっと手を伸ばす。
「行ってきます、ヨルちゃん、ハティ……お留守番をお願いね」
銀狼が短く鳴き、雪を蹴った。
ヨルムガルドがゆるやかに翼を広げると、粉雪がきらめき、空へ舞い上がった。
光の粒がふたりの肩に降り、アシュリーは微笑む。
「さあ、行こう」
マルクスが手綱を引く。
雪原の先には森の入口が待っていた。
陽が少し傾き、空が淡く橙色に染まりはじめる。
城の夕刻を告げる鐘の音が遠くに響いた。
それはまるで、辺境ヴァルトリアが三人の無事を祈る音のようだった。




