旅支度は辺境伯の愛に溢れてときめきが止まらない
春の訪れを感じさせる柔らかな陽射しで雪の残る城下は光がきらめいていた。
耕作地に向かう魔水牛が農民の女性と共に霜を踏み歩く。
遠くの丘では商人を乗せて巨亀がのしのしと進み、背に積んだ木箱には辺境の特産物が積み込まれている。
雪原を抜けるための道は魔石に込められた魔力でほのかに湯気を立て、人と魔物を温めていた。
――辺境ヴァルトリアでは、魔物と人が息を合わせて暮らしている。
◆
辺境伯夫人の支度部屋は暖炉と人の熱気で満たされていた。
磨かれた黒檀の木の机に、旅装束とドレスが整然と並ぶ。香炉には辺境産の樹皮香が焚かれ、柑橘のような甘さが微かに漂っていた。
侍女長のケイトが帳面を片手に確認を進める。
「先に届ける食料、薬草、魔石灯……あぁ、アシュリー様の衣装の準備は終わりました?」
侍女が頷き布箱の留め金を外す。
最初に現れたのは淡い金のドレスだった。
雪明りのように柔らかい光を返す布に繊細な刺繍、立襟には光り輝く白銀の宝石がいくつも縫い込まれている。
「閣下が王都でお選びになったものです。“朝の光の美しさが君を包むように”と」
「……覚えています」
アシュリーは生地に触れた。しんとした絹の冷たさが手に触れて溶けてゆく。
次に取り出されたのはワインレッドのドレス。
深みのある色のに麦の穂の紋様が織られ、胸元から切り替えのある裾がすとんと広がる。
「“秋の豊穣の女神ようなアシュリーにぴったりだ”と仰ってましたね」
「そんな……本当に言ったんですか?」
「ええ。真顔で」
ケイトの笑みにアシュリーが頬を染める。
白檀の箱の蓋が開かれる。
中には白銀色と翠玉のネックレス。
美しい白銀の下地に、深い森を閉じ込めたような大きな宝石が光を受けて燦然と輝く。
「こちらは新しい贈り物です。閣下が“アシュリーの色と私の色で”と」
アシュリーは言葉を失った。
鏡に映る自分の瞳と宝石の翠が重なる。そして銀色の瞳と髪の愛おしい人の姿が思い浮かび胸の奥が熱くなった。
次は雪花石のブローチ。
雪花は冬でも咲く辺境の特別な花。アシュリーが王都から来た時、用意してくれてあったものだ。
「“逆境の中でも美しく咲く君を表すような花だね”と仰っていましたね」
「……はい、覚えています」
いくつもの思い出が重なる。
白革のブーツが差し出された。
銀の刺繍、チャームは銀狼。
内側は毛皮で外側には氷結防護の魔刻が彫られている。
「転ばぬように、とのことです」
「細やかですね」
「愛が深いとも言えます」
ケイトの冗談にアシュリーは小さく笑った。
最後に、青や緑の硝子の香油の瓶が並んだ。どれも美しい金彩や銀彩で装飾されている。
山花の蜜、銀花精油、辺境の樹皮香。
蓋を開けると、淡い香りが雪の冷気と混ざり合う。
「旅先でも君を癒したい――と、殿下が」
「…甘やかされ過ぎです」
照れ笑いをしながら瓶を掌で包み込む。
手の中の熱で香りが少し強くなった気がした。
「すべて整いました」
「ありがとう、ケイト」
アシュリーが頷いた時、扉が開いた。
マルクスが顔を出した。
「荷造りは終わった?」
「はい。皆が頑張ってくれました」
「私の贈り物は見てくれた?……君への」
「ええ…マルクス様、ありがとうございます…!」
手を取り合い照れたように微笑み合う夫婦に、侍女たちもくすりと微笑んだ。
マルクスは机に薄い銀灰のショールが置かれているのを見てそっとアシュリーにかけた。
「これも持っていこうか。旅の夜は冷えるから」
アシュリーの肩にそっとかける。
指先が留め金を整える。
アシュリーがはにかんだ。
「君が笑うといつも春がきたみたいに感じるよ」
「……マルクス様がいつも笑顔にしてくださるからです」
「では、辺境の春のために私は頑張らねば」
外では合図の角笛が鳴る。
大角鹿たちがそりを引いて先頭に立っている。巨亀は既に雪の上で積荷を乗せるための鞍をつけている。
光に染まる雪原はまるで新しい季節の門のように開かれていた。
「さあ、荷物を載せて」
二人の影が重なる。扉の外へと二人は歩き出した。
――この旅の果てに、それぞれの答えが待っている。




