溺愛される辺境の日々と、新しい物語への使者
辺境の城の庭にはまだ雪が残っている。
息を吐くと、窓硝子が白く曇るほど寒い。
アシュリーは窓から遠くの森を見つめた。銀狼が雪の上に足跡をつけ、空には大きな竜の影が風を切って飛んでいる。――今日もヴァルトリアは、いつも通り静かだ。
「可愛い私の姫君、お茶はどうかな?」
背後から穏やかな声がした。
マルクスが自ら盆に紅茶を二つのせてやって来る。
彼は何も言わず、片方を差し出した。指先がふっと触れた瞬間、心まであたたかくなるようだった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。……君の頬、少し赤いね」
「……窓辺は少し冷えますね」
「紅茶と、私の熱で温まって」
冗談めかして言うと、彼はアシュリーの額に軽く口づけた。
こういう何でもない時間が、何より落ち着く。
マルクス奪還はまだついこの前の出来事だというのに、いまだ現実味がない。
アシュリーは、前世を含めても、こんなに穏やかな気持ちになれたのは初めてのような気がした。
――けれど、その穏やかさを破るように、廊下の向こうから足音が近づいてくる。
扉を叩く音。侍従が一礼して告げた。
「王都オスヴァイン経由、ルーメニア聖国より使者が到着いたしました」
アシュリーの胸の奥が、きゅっと縮む。
――妹、聖女ルーチェの件だ。
◆
石造りの謁見の間に入ってきたのは、白い外套をまとった一行。
先頭の男は金髪の短髪に明るい若草色の瞳をした、生真面目そうな青年。
緑と白の神官服――ルーメニア聖国の高位神官、女王の側近キリアンと名乗った。
彼は静かに膝をつき、落ち着いた声で言う。
「ヴァルトリア辺境伯兼アストリア王国王太子殿下、並びに辺境伯夫人兼王太子妃殿下、拝謁いたします。
――この度は、アストリア王国出身の聖女ルーチェ様に関する共同調査のお願いに参りました」
空気が痛いほど張りつめる。
アシュリーの指先が、ほんの少しだけ震えた。
「先の戦の死者が家族の前に黒い光を纏った姿で現れるという奇跡を、我が国で神官ゲルトと共にルーチェ様が行っております。
教会には人が殺到し、聖都は何週間も祈りの歌に包まれているのです」
――黒い光。
アシュリーの脳裏に、あの夜の光がよみがえる。
ルーチェの魔法だ。
マルクスが言う。
「女王陛下のご意向は」
「……政教分離を掲げ、宗教と政を分ける政策を進めていた矢先に聖女信仰が高まり、陛下は民の心を案じておられます」
言葉の端に、焦りがわずかに滲む。
アシュリーが何か言いかけて、やめた。
その手を、マルクスがそっと包む。
「大丈夫だよ」
誰にも聞こえないほど小さな声で。
「君が感じたことを、大切にすればいい」
胸の奥の張りつめた糸が、少しだけ緩む。
「……マルクス様、聖女ルーチェの調査を共同で行いたく存じます。
書面を王都に上げ、少人数で調査を行いたいです」
アシュリーが答えると、キリアンは深く頭を下げた。
使者が去り、扉が閉まる。
静けさの中、アシュリーは小さく息を吐いた。
「……ルーチェ自身も、救いたいと思うのは間違っているでしょうか」
「間違ってはいないよ。とても難しいだろうけど」
マルクスの言葉は一瞬、厳しく響いた。
けれど、そのあとに続いた声は、やさしかった。
「でも……それでも君は、きっと努力する。それは確かだ」
アシュリーは思わず笑ってしまう。
「……そうですね。でも、変わった励まし方ですね」
「妻のことはよくわかっているつもりだよ」
「……ええ」
マルクスの手に、自分の手をそっと重ねた。
謁見の間の大きなステンドグラスから光が差し込む。
雲の切れ間からの陽光が、色とりどりの光となってアシュリーに降り注いだ。
――十年分の愛は、まだ続いていく。
この手を離さない限り、何度でも。




