外伝2 吾輩は竜である。名前は、フィヨル。
吾輩は竜である。
名前はまだ……いや、ある。フィオルという。
まだ若い。うっかり木の影で昼寝をして、叱られることも多い。
けれども自分では、わりと頑張っているつもりなのだ。
今日も朝から快晴。
空を裂くように飛び立つ影――それは訓練中のヨルムガルド先輩である。
でっかい。しかも豪快だ。
翼一枚で風が全部持っていかれる。
(今日も全力だなぁ…)
思わず息を呑む。
近くで見ているだけでしっぽが風に流されるのだ。それでも先輩は構わず飛ぶ。
ばっさばっさ。どっかーん。
何度見ても迫力がすごい。
そのたびに、下で飛ばされそうになるハティル殿が深いため息をつく。銀狼のハティル殿は冷静沈着で知られるが、先輩の無茶を前にするとだいたいこの顔だ。
「……はあ」とでも言いたげな瞳。
地面の上から見上げている姿がなぜかちょっと哀れに見えた。
吾輩はというと、今日こそ先輩のように上昇気流に乗るべく、翼をばさりと広げる。
いざ、発進――!
……と思ったら、後ろ脚が引っかかった。
「きゅぅっ」
気づけば、自分のしっぽが石垣の上の旗に絡まっている。ぱたぱた暴れるうちに布はびりりと裂け、見事に倒壊。
風とともに吹き飛ぶのは――干していた洗濯物だった。
「わ、わわっ!アシュリー様のお洋服がぁ!」
使用人の悲鳴が響く。
やってしまった。
降り立ってうつむく吾輩の横で、ハティル殿がしっぽでとん、と石の床を叩いた。
慰めか、呆れか、判断がつかない。
「……す、すみません(たぶん、呆れてる)」
そんなやり取りをしている間に、ヨルムガルド先輩が頭上から急降下してきた。
どおおおん!
風圧で石畳が鳴る。
先輩は悪びれもせず満足そうに鼻を鳴らす。
(多分「どうだー!」くらいのノリだ)
いや、よくないですから。
その巨体の衝撃で、今度は横の桶が転がり、
その中にいたハティル殿が、びしゃっと水をかぶった。
「……」
水浸しの銀毛が朝日に光る。
あれは、怒っている。きっと怒っている。
ヨルムガルド先輩は知らん顔でしっぽをぶんと振り、ばっさりと空へ飛び立った。
その突風で、また布が舞い――吾輩の頭に被さる。
(……うぅ、今日も上手くできなかった……)
◆
昼過ぎ。
干し直された布が、太陽の下でひらひらとはためく。吾輩は水桶のそばで日向ぼっこをしていた。
その時、足音がした。
見上げると、辺境伯――我らが主、マルクス殿が立っていた。
「やあ、フィオル」
落ち着いた声に吾輩は反射的に背筋を伸ばす。
ご主人は微笑み、手に持っていた干し肉を差し出した。
「朝の訓練もお疲れ様。……ふふ、ハティルも巻き込まれたんだってね」
吾輩はしゅんと頭を垂れた。
マルクス殿はふっと笑って優しく撫でてくれる。
その瞬間、胸の奥がぽわ、と温かくなった。
(マルクス殿はいつもあったかい)
遠くから軽い足音がして、今度はアシュリー様が現れた。ケープの銀色の裾がきらきら揺れている。
「マルクス様、あ……フィオル、けがしてない? 朝、少し騒がしかったって聞いたから……」
吾輩は元気よく首をふる。
大丈夫です、というジェスチャー。
アシュリー様はほっと笑い、吾輩の頭を抱きしめるように撫でてくれた。
「よかった。……えへへ、やっぱり可愛いですね」
……つられて照れてしまう。
竜でも、褒められれば照れるのだ!
その時、また風が鳴った。
空の高みからヨルムガルド先輩が、どどーん、と降り立つ。例によって、風圧と砂埃が、ばさあっと。
「っうわぁ!?」
アシュリー様がマントを押さえる。
吾輩は反射的に彼女の前に立ち、翼で風を防いだ。
ハティルが遠くから小さく吠える。
(多分、“またやったな”)
ヨルムガルド先輩はというと、ずいっと寄るとアシュリー様の手をぺろりと舐めた。
「ヨルちゃん……」
アシュリー様が呆れ、マルクス殿が苦笑する。
「……彼なりに愛想を振りまいてる、みたいだね」
先輩は満足げに喉を鳴らしゆっくりと翼を畳んだ。
その巨体の横で吾輩はため息をつき、
その後ろでハティルが目を細めて「やれやれ」と尻尾をひと振りした。
――今日も平和で、ちょっぴりうるさい辺境の午後。
吾輩は竜である。
まだ若いが、飛ぶことと食べることとは得意だ。
そしてーーこの場所と、この人たちが、なにより大好きだ。
明日は、きっと今日よりうまく飛べる気がする。




