外伝2 マルクスの相棒、銀狼ハティルの1日
まだ薄明の空の下、広場に足音が響く。
剣を手にしたマルクスが現れると、待っていたかのように銀狼のハティルが立ち上がった。
「おはよう、ハティル」
マルクスが穏やかに言うと、ハティルは鼻を鳴らし誇らしげに尻尾を振った。
マルクスはその厚い毛並みに手を沈める。
「……聞いてくれるか、ハティル」
低く呟く声は、普段とは違いどこか柔らかい。
「……彼女が泣くと…私の感情はおかしくなって…何をしてでも涙を止めてやりたいと激情に任せてしまいそうになる。戦の間も殆ど揺らがなかったこの心が……こんなにも簡単に」
銀狼はじっと見上げる。
尾がぺしぺし、と静かに床を打った。
「……君にも笑われるかもしれないけれど」
マルクスは小さく息を吐く。
「…好きで仕方なくて」
ハティルはじっとマルクスを見つめる。瞳は誰よりも真剣に主の間の抜けた声を聞いていた。
その結果、首をふりふりして座り込み、しっぽでぺしぺし、と宥めるようにマルクスを打ったのだった。
◆
朝食前のまだ人影の少ない時間。
アシュリーは裾を押さえながら、そっと銀狼ハティルの小屋へと歩いてきた。
「……おはようございます、ハティル」
その声に、巨体の銀狼はぱたりと尻尾を振って起き上がる。
アシュリーは少しだけはにかむ。
そして意を決したようにしゃがみ込み、言った。
「今日は……その、ちょっとだけ練習をしてみませんか?ハティ、お手、です」
真剣な顔をして差し出される手。
ハティルは怪訝そうに首を傾げる。
うろうろと視線を右に左にむけるが、アシュリーが手を引かないので、やがて観念したように大きな前足をのし、と乗せた。
大きく少し硬いふにっとしたその前足をアシュリーは両手で包み込み、頬をほんのり赤く染めた。
「……ふふ、思ったより重たいです。でも、とても……あったかい」
前足をおろすと彼女はそのまま少し黙り込み、俯いた。
「……マルクス様は……いつも私を守ってくださいます。でも、私は……あまり役に立てていないのではないか、やっぱり地味な私は不釣り合いなんじゃないかって……たまに思うのです…」
吐き出した声は震えていた。涙が滲みそうになる。
「私……本当に取り柄のない……」
その言葉を遮るように、ハティルは大きな頭をぐいっと彼女の胸に押し当てた。
「きゃっ……!」
よろめきながらも、アシュリーは咄嗟に毛並みを抱きしめる。
もふもふとした毛並み、大きな温かさですりすりと擦り寄られ、彼女は目を丸くした。
「……慰めてくれているんですか?」
囁くと、銀狼は小さく鼻を鳴らす。
アシュリーはようやく笑った。涙をこぼす代わりに、その大きな頭に手をそっとのせてふわふわの銀色の毛並みを撫でる。
「ありがとう、ハティ……私がマルクス様の隣にいてもいいって……言ってくれてるみたい」
答える代わりに、ハティルはさらに強く身体をすり寄せた。
その仕草は、言葉より雄弁に「もちろん」と告げているようだった。
◆
午後の陽がやわらかく差し込む。
銀狼ハティルは陽だまりに横たわり、ふかふかの毛並みを風に揺らしていた。
のんびりと目を細め、巨大な尻尾をときどきぱさりと動かす。
その様子は堂々とした狼なのにどこか犬のような可愛らしさがあった。
そんなハティルの耳がぴくりと動く。
馴染み深い二人の足音が揃って近づいてきた。
「だから言ったでしょう、イゴール! アシュリー様は――」
「いや、閣下こそ――」
ケイトとイゴールの“主自慢”をしながらやってくる。いつものことだ。
最初は落ち着いていた声が、あっという間に熱を帯びていく。
「アシュリー様は誰より努力家です!」
「マルクス様ほど地道に研鑽を積んでいる男はいない!」
次第に顔を寄せ合い今にも鼻先が触れそうな距離に。
ハティルは「やれやれ」と言いたげに長く息を吐き、二人の間にずしりと割り込んだ。
ふかふかの日向の匂いがする毛を二人の体を同時に押し分ける。
頬や腕に伝わる柔らかな温もり鼻先をくすぐる太陽の匂い。言い争いの熱は、不思議と一瞬でしぼんでしまう。
「……」
「……」
二人は顔を見合わせた。
怒りの余韻よりも、気恥ずかしさが先に立つ。
「……子供みたいですね、私たち」
ケイトが小さく笑いを零した。
「お前が熱くなるからだ」
「あなたもでしょう!」
今度は笑いながら言い合う。
ハティルが大きな頭で二人の腕にすり寄り、撫でろとでも言うように甘える。
つい手を伸ばし、二人は自然にその柔らかな毛並みを撫でた。
――その瞬間、空気がふっと和らいだ。
ケイトは撫でながら顔を上げる。
視線の先にはイゴール。
互いに何かを確かめるように目が合いーー次の瞬間。イゴールが彼女をぐっと引き寄せ、唇を重ねた。
「……っ」
ケイトの目が大きく見開かれ、やがてとろんと閉じる。
長く、深い口づけ。
手はいつの間にか彼の胸元を掴み、必死に縋っている。
唇を離したとき、ケイトは赤くなった顔で睨んだ。
「……いつも強引」
「そうしないと素直にならないだろう」
低い声で囁かれ、彼女は言葉を失い、再び強く抱き寄せられる。
二人は言い合うことをやめ、甘い熱に沈んでいった。腕の中で笑い合い、互いの額を重ね合う。
……そんな様子をすぐそばで見ていたハティルは。をぐいっと逸らし、遠い空を見つめる。
ぱたん、と尻尾が一度だけ落ちる。
「もう勝手にして……」という諦めのサインだった。
◆
夕暮れ時、広場は茜色に染まり、空気は少しひんやりとしている。ハティルは芝生の上に伏せ、のんびりと尻尾を揺らしていた。
「ハティル」
「こんばんは、ハティ」
マルクスとアシュリーがやってきた。
いつもよりゆっくりした足取りでやってきて、二人は自然にハティルの側に腰を下ろす。
「……君に先に聞いてもらおうか」
マルクスが笑みを浮かべ、ハティルの背を撫でる。灰銀の瞳はいつになく柔らかい。
「今日も彼女は見事に公務をこなしていたよ。もう誰もが信頼する王太子妃で私は自分のことのように誇らしい」
アシュリーが顔を赤くして慌てる。
「マルクス様!……あ、ありがとうございます」
ハティルが大きな頭がすり寄せる。彼女は照れ笑いを浮かべた。
「……ありがとう、ハティル」
マルクスはその様子を見て小さく笑う。
「君は自分を卑下するから……私は君の分も君を褒めて愛して甘やかしてあげるよ」
アシュリーは彼の言葉に顔を伏せ、照れ隠しをするようにそっと彼の肩に寄りかかった。
広場にまったりとした空気が流れ、ハティルも満足そうに喉を鳴らすような息を吐く。
――その瞬間。
轟音と共に、巨大な影がどおん!と降り立った。マルクスがいつも乗っている竜のヨルムガルドである。
突風が巻き起こり、砂利と葉っぱが舞う。
ハティルは「またか!」と言いたげに飛び退いた――が間に合わない。
無自覚に降り立った竜の尾が、がつんと彼を弾き飛ばしたのだ。
「……っわふぅっ!!?」
ドサァァッ。
せっかくのまったり空気は木っ端みじん。
アシュリーが慌てて立ち上がり、マルクスは大きくため息をついた。
「……ヨルムガルド…もう少し加減を覚えてくれないかな…」
竜は悪びれもなく、どこか嬉しげに鼻を鳴らす。
そしてそのまま、アシュリーにずいっと大きな鼻面を近づけた。
驚いたアシュリーが「きゃっ」と声をあげる間もなく、頬につんと鼻先を押しつける。
「撫でて、と言ってるようだね……」
苦笑するマルクス。
アシュリーは必死に強く押し付けてくるヨルムガルドの頭を押し返すが、全く動かない。
当のヨルムガルドはというと、悪びれもせずに鼻先をぐいぐいと二人に交互に押し付けている。
マルクスの胸に頭を擦りつけ、アシュリーの手をべろりと舐め、尻尾を地にずしんずしんと打ち付けて「もっと構って」と言わんばかり。
二人が笑いながら竜を撫でると、ヨルムガルドは喉を鳴らして満足げに目を細めた。
一方、飛ばされたハティル。葉っぱまみれでごろん、ところがっていた。
毛をぶるぶると震わせて砂と葉っぱを吹き飛ばしながら立ち上がり、しっぽをひと降り。
――そして、ふいっと顔を逸らした。
完全に拗ねている。
見ている人が他にいたら「犬の不貞腐れ顔ってこんなに分かりやすい?」と笑っただろう。
その横顔をヨルムガルドはちらりと見やり、黄金の瞳と銀の瞳がほんの一瞬だけ交わった。
竜は相変わらずどっしり座り込み無自覚に大気を揺らす息を吐いた。
ハティルはふうっと鼻を鳴らす。
言葉を持たぬ二匹。
それでも――「お前はそういうやつだよ」という諦めという妙な連帯感がそこにあった。
次の瞬間、ハティルは尻尾を一度だけ軽く揺らしまた地面に伏せた。
その仕草は「しょうがないやつ」と言っているようだった。
アシュリーに頬をすり寄せるヨルムガルドと、焦るアシュリー、顔をくしゃっとさせて笑うマルクス。そして、背を向けてふんふんとふて寝するハティル。
夕暮れの広場は、不思議にのんびりとした空気に包まれていた。
ハティルたちの他にもたくさんいる使役されている魔物たち。たくさん書いていきたいです。ハティルのイメージはボーダーコリーやハスキーなどです。大きくてもふもふです!
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