東の果てに降臨する黒い天使
眩い光が弾け、アシュリーは冷たい石の床に膝をついた。
着いた先は湿った闇に覆われた古城の地下。かつて聖女が祈りを捧げたという場所は、今や禍々しい瘴気に満ちている。
耳に届く荒い息と鎖の擦れる音。
「……マルクス様ッッ!」
駆け寄った先、鎖に縛られたマルクスが壁にもたれ、意識を失っていた。
その頬は蒼白で、額には汗が滲み、薬のせいか唇は震えている。
「っ……こんな…」
震える指で彼の頬を撫で、すぐに拘束を解こうと鎖に魔力を込める。術式が焼ける音を立てて弾け、鎖が解け落ちた。
「マルクス様、今、治しますから……!」
抱きとめた胸の中で彼はかすかに呻いた。
必死に治癒魔法を流し込みながら、その重さを腕に抱く。
(間に合って……!どうか…どうか…ッ)
彼の胸に手を当て、全力で治癒の光を注ぐ。その光は強く光りながら幾重にも帯状にマルクスを包み、全身を覆っていった。
◆
その時。硬質な靴音が響き、冷たい光を纏ってルーチェが現れた。
アシュリーが慌ててマルクスを自身のひいた外套にそっと横たえる。
ルーチェの白いはずの聖女の衣はどす黒い影を孕んで揺れている。
彼女の唇は笑みを浮かべていたが、その瞳はひどく焦燥していた。
「……やっぱり、ここに来たのね?お姉様」
その声は甘やかで、それでいて薔薇の棘のように鋭い。
「どうしても、あなたは私の前に立つのね…!」
アシュリーは黙って立ち上がる。
深い眠りに落ちているマルクスを背にかばい、まっすぐ妹を見据えた。
◆
「私は……間違ってない…」
ルーチェは静かに、けれど震える声で告げた。
「私は“聖女”として選ばれたわ。
原作の筋書きに従って、王太子と結ばれるために、ひとつも逸脱しないようにしてきたの。
笑顔も、可愛さも、誰かを癒すことも……全部、シナリオ通りに、決められた通りにやってきた!」
彼女の肩が小刻みに震える。
「なのに……なぜ!?どうして悪役令嬢のあなたが王太子妃になっているの!?」
叫びは、憎しみよりも混乱に近かった。
「筋書き通りに進んでいるのは私なのッ……!
それなのに!報われるのは、いつもあなたね!
まるで私の役を奪っていくみたいに……ッ」
その瞬間、ルーチェの背から黒い光が爆ぜ、天使のような羽根が禍々しく広がった。
そしてルーチェの背後の扉から多くの人々の影が現れ、虚ろな瞳でアシュリーに向かってくる。
「見て……?これが聖女の力よ!
人の心を導く光……!シナリオに沿わないお姉様を倒して私が正しいって、証明する…!」
◆
その叫びと同時に人々が一斉に動き出す。
小さな子供の足が石を擦り、ぎこちなくアシュリーに迫る。
虚ろな目をした大人たちが、まるで夢遊病者のように両手を伸ばし強い力でアシュリーを掴もうとする。
アシュリーは胸の奥に鋭い痛みを覚えながらも静かに手をかざした。
「……今は、眠ってください」
光は温かく柔らかな木漏れ日のように地下室全体を包み込む。
人々の瞳から虚ろさを消していった。
人々は一人、また一人と静かに倒れていく。
寝顔はまるで聖女の抱擁に包まれたかのように安らかな寝顔を浮かべている。
その光景は、まるで真の聖女の祝福のようだった。
「っ……!」
ルーチェの顔が怒りで歪む。
「あああぁぁぁ!!!!どうしてっ!!!
私は、ヒロインなのに、私が“聖女”なのに……!!どうして…どうして、悪役令嬢がそんな力を……!」
アシュリーは深呼吸し、ルーチェを真っ直ぐ見つめる。
「私は、悪役令嬢じゃない。私は……マルクス・ヴァルトリア辺境伯の妻、アシュリー!」
「…黙れえぇっ!」
ルーチェの羽が大きく広がる。
黒く光り輝く翼。光より闇が勝り、羽ばたきのたびに煤のような欠片が散った。
黒い光を放ち、アシュリーを閃光で焼き焦がそうとする。
その姿はもはや“聖女”ではなく、堕ちた天使のようだった。
「私がヒロイン…地味で真面目なだけのあなたなんかにっ…!主人公は、渡さないっ……!」
アシュリーは震える両手を重ね、上に掲げる。
手のひらに小さく灯ったのは彼女がずっと見てきた炎。
――マルクスが使う、炎の魔法。
「……私は自信がなくて弱い自分は捨てる。マルクス様は――自分が選んだ幸せは…戦ってでも守る!」
轟音と共に火球が放たれ、紅の光が闇を裂きうねりを上げ、ルーチェに向かって走る。
だが、次の瞬間。
ルーチェの背に広がった“天使の羽”がまばゆい光を放ち、その身体を包んだ。
炎は虚しく空を焼き、羽根の黒い輝きの中で掻き消された。
ルーチェの姿が高く舞い上がり、羽ばたきはまるで天使のようでありながら、その瞳は憎悪に染まっていた。
「覚えてなさい、お姉様……!私は間違ってない……貴方は、決して愛されることはないの…!」
ルーチェは嘲笑い、黒炎の翼を羽ばたかせた。
瞬く間に空へ舞い上がり、焦げ跡が広がり、熱風が吹き荒れた。
「主人公は最後には幸せになる……それがいつだって物語の結末よ!」
高笑いを残しルーチェの姿は闇に消えていった。
◆
炎の残滓の中で、アシュリーは膝をついた。
振り返れば、横たわるマルクスの呼吸がわずかに整い始めている。
安堵の涙がアシュリーの頬を伝った。
「……マルクス様。私はもう逃げません」
強く胸に誓いながらアシュリーはそっと彼を抱きしめる。
「……私は悪役令嬢じゃない。マルクス様…あなたと共にこの世界で生きていく」
涙を零しながら、額にそっと口づけを落とす。
その姿は――聖女の祈りのようだった。




