私が君を、愛することはない
東の果てへと続く街道は、果てしなく長く風が容赦なく頬を刺す。
先頭を進むのは、白銀の毛並みを誇る銀狼。その背にまたがるアシュリーの翡翠の瞳は、前だけを見据えていた。
その上空を竜がゆるやかに旋回している。青黒い鱗が雲の狭間、陽光を反射し旅の一行を守るかのように翼を広げているのが垣間見えた。
隣を走る馬上のイゴールが声をかけた。
「……閣下の安否を民も心配しております。必ず連れ帰りましょう」
アシュリーは小さく頷いた。
「ええ。……必ず」
ケイトも手綱を握りながら静かに言葉を添えた。
「アシュリー様。ご自身を責める必要はございませんよ」
「……そう、ね…」
「…あまりやつれてしまわれると…マルクス様がお戻りになった時……きっと悲しまれます」
その言葉に、アシュリーは何も言えずに俯いた。
◆
夜の冷気がしんしんと降りてくる。
一行は焚き火を囲み、それぞれ静かに休息を取っていた。
アシュリーは炎を見つめながらぽつりと呟く。
「……どうして、私は……こんな風になるまで妹を止められなかったんでしょう」
何度も何度も心の中で繰り返した問いが口をついて出てしまった。
焚き火がぱち、と弾ける音。
隣で毛布を広げていたケイトが顔を上げた。
「アシュリー様、それは――それは、誰にでも難しいことです」
「……でも、もし私がいなければ…」
アシュリーの声は細く消え入りそうだった。
ケイトはためらいなく言った。
「マルクス様ご自身が、アシュリー様を選んだのですよ」
アシュリーは小さく息を呑み、俯いたまま唇を噛む。
その様子を見ていたイゴールが続けた。
「……俺からも言わせてください。俺たちだけならこんなにすぐ見つけられなかった。
貴方がいるから今こうして駆けつけられてる。だから、感謝してるんですよ」
アシュリーは驚いたように顔を上げた。
炎の明かりに浮かんだ二人の顔は真剣で、温かい。
「……ケイト、イゴール……」
絞り出すように名を呼ぶと、胸が少し軽くなった気がした。
ケイトは照れ隠しのように小さく笑った。
「……心配するのも職務ですから」
「ほんとに、素直にじゃないな」
イゴールがぼそりと突っ込み、ケイトは頬を染めてそっぽを向いた。
そのやり取りに、アシュリーは思わず微笑む。
涙はまだ乾かないけれど、少しだけ光が心に差し込んでいた。
◆
東の果てを目指す旅の朝。
まだ霧が漂うとある村の入り口で、アシュリーたち一行は馬を休めていた。
その時、ひとりの子供がよろよろと近づいてきた。
七、八歳ほどのどこにでもいるような村の子供のようだ。しかし、瞳が不自然に濁り、焦点が定まらない。
「……?」
イゴールが剣の柄に手をかける。ケイトもさっと前に出た。
しかし子供はただ無言で、両腕を差し出した。
小さな掌には――黒い水晶玉。
ぞわり、と空気が凍りつく。
「アシュリー様、下がってください!」
ケイトが制止の声を上げたが、アシュリーは一歩進み出た。
「……大丈夫です。この子に悪意はありません」
水晶玉を受け取った瞬間、冷たく黒い禍々しい魔力が指先を走った。
そして、球体の奥に映し出されたのは――。
水晶玉の奥に映ったのは、荒れ果てた石造りの部屋だった。
そこに鎖に手足を縛られ座り込むマルクスの姿があった。
上半身に無惨に鞭打たれた跡が幾筋も走る。
薬漬けにされたのか、汗に濡れた銀髪が頬に張りつき、虚な灰銀の瞳は熱に揺らいでいる。
それでもその眼差しは鋭く目の前の人物を見据えていた。
「……さすがは、冷酷辺境伯ね!そう簡単には折れない」
甘やかに笑う声。
現れたのは聖女の衣を纏い、その瞳に狂気を宿したーールーチェだった。
「でもね…!貴方が……!アシュリーを…調子に乗らせたのが悪いのよ!」
彼女は怒りに任せ、治癒の聖光を刃のようにマルクスの傷へと叩き込む。
焼けつく痛みにマルクスの体が大きく跳ねる。
苦悶に喘ぐ姿を見てルーチェは愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「ねえ、ほら、言ってみせて?
どうせアシュリーは、本当はあなたに愛されてないんでしょう?」
爪先で顎を掬われ、マルクスは無理やり顔を上げさせられる。
マルクスは意識をぼんやりとさせ、息を荒げながらも、ゆっくりと唇を開いた。
「……アシュリー……、私が……君を……愛することはない」
低く掠れた声。
その瞬間、ルーチェの瞳がぎらりと輝く。
「……やっぱり!ふふ、やっぱりそうなのね!」
狂った笑い声が牢を満たす。
「私は聖女、あの子は悪役令嬢……!アシュリーはやっぱり貴方にも愛されてない!」
その喜びに震えるほど酔いしれるルーチェの姿。
◆
その悲惨な映像が再生された後、水晶玉は黒くなり沈黙した。アシュリーは震える手で水晶玉を握りしめ、瞳を閉じた。
(……原作ルートと同じ言葉……でも…!)
思い出す。
「大切な花嫁」と抱きしめてくれた夜。
「君の努力に、君自身に惹かれた」と真っ直ぐ真摯に告げてくれた草原の夕暮れ時。
すべてが、たった一言で覆るはずがない。
(……彼は、最後まで私を守ろうとしてくれている!ルーチェを騙しながら、私に最期に愛を遺そうとして…っ)
胸の奥が静かに、熱く燃え上がる。
恐怖も、迷いも、すべて吹き飛ぶ。
「……ありがとう…っ、マルクス様」
アシュリーの瞳が鋭く光を帯びた。
「必ず、迎えに行きます」
アシュリーが魔力を込め、水晶玉を握り込むと、ぱりんと音を立てて砕け散った。
◆
足元で倒れていた子供が、はっと息をつく。
濁っていた瞳は澄み、怯えたように泣き出した。
「あ、あれ、ぼく……!」
アシュリーは優しく抱き寄せ、治癒の光で温かく包んだ。
「大丈夫ですよ、ただ操られていただけ……」
子供をケイトに託し、アシュリーは空を仰いだ。瞳には涙は消え、ただ決意だけが残る。
「……東の果てへ私は先に行きます。必ず、マルクス様を救い出します」
銀狼が吠え、竜が高く翼を広げる。




