外伝 辺境伯マルクスの過去④
マルクスによって鎮火しつつあった戦の終盤、幾度となくマルクスの胸に浮かんだ思いがあった。
――この戦が終わったら、すぐに辺境に帰ろう。そして、あの人に伝えよう。
(あなたを“父”と呼びたい、と)
血は繋がらなくとも、与えられた愛情は本物だった。
幼い自分を鍛え、知を与え、時に叱り、抱きしめてくれた人。
マルクスにとって唯一の親であり、父だった。
だが。
勝利を収め王都に戻ったその夜、届いたのはあたりにも辛く、あまりにも冷たい報せ。
「……辺境伯が、逝去された」
瞬間、マルクスはすべての力が抜け落ちた。
剣を取り落とし、床に膝をつく。
最後に会うこともできず、呼びたかった言葉も告げられないまま。
(……父、と……)
言えなかった悔恨が喉を焼く。
辺境で、普段は暴れないはずの魔物が暴れ、逃げ遅れた孤児たちに迫り、その前に立ちはだかった辺境伯は自らの限界を悟りながらも一歩も退かずに亡くなったという。
彼らしい最期だ。戦に赴く前、背を押してくれた姿が脳裏に浮かぶ。
厳しくも温かく育ててくれた人。血は繋がらずとも、誰よりも父だった人。
「父」と呼びたかった。だが、自分の出自が気にかかっていた。決意するのが遅すぎた。
声にならない呼びかけは、激しい嗚咽と共に掻き消えた。
◆
数日後。
静かな玉座の間で、兄――国王アルザスが待っていた。
王としてではなく、ただ一人の兄として、弟に向き合う目をしていた。
「……マルクス。お前は誰が何と言おうと私の弟だ。辺境伯が逝った今こそ、王都に戻り王弟として共に国を支えてくれないか」
若き王の声は真剣で、震えすら帯びていた。
それは国政のため以上に、唯一の弟を傍に置きたいという願いだった。
マルクスはしばし黙し、やがて静かに首を振った。
「……私は辺境を継ぎます」
アルザスの瞳が揺れる。
「なぜだ。お前なら王弟として私と共に国政を支えられるはずだ」
マルクスは真っ直ぐに兄を見据えた。
その瞳には揺るぎない決意が宿っていた。
「兄上にはすでに子が生まれている。王家は守られている……だが辺境は? あの人を失った今、守れるのは私しかいない」
声は小さく低く、しかし力強かった。
「私はあの人に育てられた。愛を与えられ、鍛えられ、導かれた。あの人は…最後まで誇り高く、そして辺境の民のことを思っていた。
だからこそ、あの人のように愛をもって辺境を守りたい。血を越えて、家族でありたいと教えてくれたあの人の思いを、私が継ぎます」
マルクスの声は震えず、静かに、けれど鋭く胸を打った。
アルザスは長い沈黙ののち、深く息を吐いた。
そして、わずかに微笑んだ。
「……お前の決意は分かった。ならば、王弟の名は葬ろう。お前は辺境伯として生きるがいい」
マルクスの胸がわずかに震えた。
けれど後悔はなかった。
「……ありがとう、兄上。私は辺境を守ることで、あなたを支えます」
そう言って深く頭を垂れる弟に、アルザスは玉座を降り、静かにその肩に手を置いた。
「……だが、マルクス」
優しい声が続いた。
「お前は私の弟であることに変わりはない。辺境を選ぶのなら、それでいい。だが覚えておけ。お前が疲れた時、孤独に苛まれた時……いつでも帰ってきていいのだ」
その言葉にマルクスは一瞬、視線を伏せた。
胸の奥が熱く揺れる。
だがやがて、毅然と顔を上げた。
「……はい。ですが私は、辺境を父のように深く愛します」
灰銀の瞳に浮かんだ強い光に、アルザスはただ頷くしかなかった。
◆
マルクスが去った後。
広間に残されたアルザスは、ゆっくりと玉座に戻る。
(……あれほど真っ直ぐに育った弟を、私は誇りに思う)
同時に胸に去来するのは痛みだった。
弟は辺境を選んだ。王弟としてではなく。
だからこそ孤独に苛まれることになるだろう。
(どうか……あの子にも、幸せが訪れるように)
王としてではなく、ただ兄として。
アルザスは強く祈った。
彼はしばしば書簡を送り、辺境を訪ねるたび、弟を遠くから見守った。
兵を率いる姿、民と共に雪を掻き、作物を収穫する姿。そのどれもが、孤独でありながら誇り高く、揺るぎなかった。
(……父と母がどんな事情であろうと。お前は私の弟だ。たったひとりの兄弟だ)
時に、戦場で血に塗れた弟を王都で目にした。
人々が恐れを抱くその背中を、アルザスは誰よりも強く理解していた。
――彼は誰よりも暖かく、そして愛に生きる男だ、と。
マルクスが辺境伯として生きる道を選んだとき、アルザスは静かに頷いた。
それが彼の答えであるなら、自分は王としてその道を肯定しようと。
(……いずれ、この弟にも幸せが訪れるだろうか)
玉座の上でふとそう願いながら、アルザスは深く目を伏せた。