外伝 辺境伯マルクスの過去②
マルクスは両親を知らなかった。
物心ついた時には、既に辺境伯の館にいた。
マルクスの瞳は銀色で、すらりとした体躯、端正な顔立ちはがっちりしていて大きな熊のような彼とは似ても似つかない。
そのため、辺境伯は実の父ではないということは知っていた――だが、少年にとっては唯一の父であった。
彼は愛情深くも苛烈だった。
朝は剣、昼は魔法、夜は学問や領地運営。
他の孤児や若い騎士見習いたちが遊びに走るころ、マルクスだけは行儀や立ち振る舞いまでを徹底的に叩き込まれた。
「なぜ自分だけに、これほど厳しく」
幼い心で疑問に思ったことは一度や二度ではない。けれども辺境伯の瞳にはいつも揺るぎない期待と誇りが宿っていた。
その眼差しに応えたいと、マルクスはただただ無言で鍛錬を続けた。
やがて十代半ば、剣も魔法も群を抜き、領地の運営にも頭角を現すようになったころ――。
◆
ある日、王都から若き王アルザスが辺境を訪れた。
まだ即位して間もない新王は、落ち着いた気配を纏いながらマルクスを見据え、静かに言葉を告げた。
「マルクス。お前は私の弟だ」
耳を疑った。
アルザスは真剣な眼差しで続ける。
「母上は王妃として政略のために王に嫁いだが、決して幸せではなかった。そして死の淵で願った。ここへ療養に来ることを…。
父上が亡くなるまで母が死ぬ間際、お前を出産していたことは王都の誰も知らなかったのだ。父上が気を揉まぬよう…母上が、愛のためにここ辺境領に来たことは隠し通された。
そして母上が死ぬまで愛した相手は……お前を育てた辺境伯だ」
胸の奥に衝撃が走る。
母の顔を知らぬ自分。
けれど、なぜ辺境伯が自分だけに苛烈なまでの教育を与え、愛情を注いだのか――その理由を突きつけられた。
「……母は……母は、なんということを」
声が震えた。
この国の王妃でありながら、最後の最後で選んだのは“己の愛”。その結果として辺境で育った自分。
アルザスは穏やかに言った。
「だが、お前の血筋は確かに王弟だ。だからこそ辺境伯はお前を特別に鍛えたのだ。時が来たら王都に戻っても良いように。……私は羨ましいと思うよ。お前が受けた愛を」
兄のような眼差しに、マルクスは複雑な思いで頷いた。母を責める気持ちもあれば、理解出来るような気持ちもあった。
――だが、いずれにせよ、辺境伯が自分に託した想いを、強く意識するようになった。
◆
しかし、王都に足を運ぶようになると現実は厳しかった。
光に満ちた広間に立てば、令嬢たちがこぞって群がる。その視線は容姿にばかり注がれ、口元は甘い言葉で飾られる。
「まあ、辺境なんて雪と獣ばかりでしょう?」
「土の匂いのする暮らしより、王都の舞踏会の方が楽しいはずよ」
マルクスが辺境で学んだこと、民の暮らしを支える工夫、魔物との戦いと共存の知恵を語れば語るほど、彼女たちの瞳から光が消えていった。
笑顔は作り物のように冷たく、興味を失う気配だけが残る。
剣を振るう力も、魔法の才も、領地を守る知恵も――誰も見ようとしない。
彼らにとって価値があるのは「血筋」と「見目」だけ。
マルクスは心の底で静かに思った。
――母のようにはならない。
――決して、愛のない結婚はしない。
それは己への誓いであり、人生で唯一の答えでもあった。