外伝 辺境伯マルクスの過去①
辺境の冬は容赦がない。
雪は夜のうちにすべてを覆い隠し、朝には凍りついた大地が音もなく光を跳ね返す。
王都の華やかさとは無縁の、静かで厳しい白の世界。
そのただ中で、少年マルクスは剣を振っていた。掌が裂け、鮮血が木剣ににじんでもやめない。呼吸は白く途切れ、頬は赤く腫れ、指はかじかむ。それでも振り続ける。
彼にとって稽古は罰ではなく、願いだった。
「止めるな!マルクス」
低く鋭い声が飛ぶ。
この領地を統べる辺境伯。
少年にとって師であり守護者であり、すべての規範だった。
「恐れるな。魔物も剣も同じだ。畏れ、敬い、そして力を借りよ。魔物もこの地に生きる隣人。敵であり、友でもある」
その言葉を胸に、マルクスは再び剣を振った。
鋼のような眼差しで見守る辺境伯の前で、決して弱音を吐きたくなかった。
館の広間では、同じく辺境で拾われた孤児たちが学んでいた。
後に騎士団長となるイゴールは木剣を両手で抱え、無言で延々と幼いながらも力強く振り下ろしている。
侍女となるケイトは、年齢に似合わぬ真剣さで本に向かい、文字をなぞりながら懸命に読み上げていた。
辺境伯は孤児を見捨てることなく育てたが、その中でもマルクスへの眼差しは特別だった。
凄まじい厳しさと、確かな愛情を孕んでいた。
「お前は特に、誰よりも強く、賢くならねばならぬ」
そう言われるたび、胸が高鳴った。
――父、と呼びたい。
幾度も心に浮かんだ願い。皆は父と呼ぶ子たちもいたからだ。
だが、その言葉はどうしても口から出なかった。理由は自分でもわからなかった。
ただ、この人を父と呼んでしまえば、何かが終わってしまうような恐れがあった。
それでも、彼の背を追いたいと強く願った。
辺境伯の剣を、魔法を、その矜持を。
夜、焚き火の赤に照らされる館の広間で、マルクスは一人、掌を見つめる。
血の跡がまだ乾かぬその掌を握りしめ、誓う。
――いつか必ず、この人のように強く誇り高くなる。
その瞳は幼くとも、すでに銀狼の矜持を宿し始めていた。