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影の残り香

 影の市が崩壊して三日が経った。


 かつての市場跡には瓦礫が散乱し、黒焦げの木箱や倒れた屋台が、あの日の混乱を物語っている。衛兵たちは残された品を押収し、逃げ延びた商人や関係者を追っていたが、既に多くは姿を消していた。


 そんな中、私は屋敷の書斎で報告書に目を通していた。影の市の瓦解によって、都市の秩序は表向きには安定を取り戻しつつある。しかし、これは単なる始まりに過ぎない。


 ――影の市が消えたからといって、ダイダリーの闇が消えたわけではない。


 影の市を取り仕切っていたクレイヴは死に、彼の部下たちもほぼ壊滅した。しかし、彼と共謀していた貴族、アルヴィン家は未だ健在である。むしろ、影の市を失った今、彼らは次の一手を打とうと動き出しているはずだった。


 その時、ノックの音が響いた。


「ロゼリア様」


 扉の向こうから聞こえてきたのは、執事テオドアの声だった。


「ルカ・フィッツが使っていた客間の調査が終わりました。……少し、気になるものが見つかりました」

「確認するわ」


 屋敷に戻った時、ルカが使っていた客間からは全ての物が消えていたと聞いている。裏切ると決めた時に処分したのだろう。でも彼は、揺れていた。私を庇うくらいに情があったと言うのなら――何か残していても、おかしくはない。


 その予感が当たったことを、喜ぶ気にはなれなかった。テオドアから渡された封書をそっと開く。そこには、まだ彼の温もりが残っている気がした。


 封を解くと、粗雑な紙が現れた。少し湿気を含んでいるのか、端がわずかに波打っている。走り書きされた文字はところどころ掠れ、途中で筆圧が強くなっている箇所もあった。まるで、書くべきか迷いながら綴ったように。文字をそっとなぞりながら、内容に目を通した。


『クレイヴの隠れ家は倉庫街の近くにある。詳しい場所は別の紙に。そこには――(ここで一度消したような跡がある)クレイヴとアルヴィン家の違法な取引の証拠がある。黒い革張りの帳簿だ。

 僕にはもう、あなたの名を書き記す資格はない。それでも、これがあなたの役に立つ時が来るのなら(次の言葉を迷ったのか、インクの染みができていた)それはきっと、悪くない未来だと思う。――ルカ・フィッツ』


「ルカ……」


 胸の奥が細い棘で突かれたように痛んだ。だから人を信じるのは嫌なのだ。裏切られても、助けられても……苦しくなってしまうから。警戒していたつもりだったのに、いつの間にか心のすき間にルカが入り込んでいた。それを今更になって自覚している。しかし今は、感傷に浸っている場合ではない。


 早くアルヴィン家へと迫らなければ。彼らは徐々に手段を選ばなくなってきている。証拠もいつまで残っているか……。

 私は急ぎ書類をまとめ衛兵長に連絡を取った。ライルを呼び出し、倉庫街へ向かう段取りを整える。


 そして、夜の帳が降りる頃、私は数名の衛兵を伴い倉庫街へと向かった。


 馬車の車輪が石畳を軋ませながら進む。窓の外には、薄暗い街並みが広がっていた。影の市が崩壊してから、ダイダリーの空気はわずかに変わった。牛耳っていたクレイヴがいなくなり、衛兵の巡回が強化されたことで表向きの治安は改善されつつある。しかし、闇に潜む者たちが完全に消えたわけではない。


 ルカの手紙が示した隠し場所には、クレイヴとアルヴィン家の取引を記録した帳簿があるはずだった。しかし、それを知っているのは私たちだけではないかもしれない。既に証拠を隠滅しようとする者がいる可能性もある。


「気を引き締めて。何が待っているかわからないわ」


 私は馬車の中でそう告げると、衛兵たちは静かに頷いた。武器を確かめる者、周囲の気配を探る者、それぞれが緊張を滲ませながら準備を整えている。


 やがて馬車が目的地に着いた。


 倉庫街の一角、指定された場所の前で停まる。街灯の明かりが届かない薄暗がりに、朽ちかけた建物が佇んでいた。静寂の中、わずかに潮の香りが漂ってくる。どこか遠くで鴉が鳴いていた。


「行きましょう」


 私は扉に手をかけ、静かに押し開いた。


 扉が軋む音とともに、冷たい空気が流れ込んできた。中は思いのほか広く、壁際には埃をかぶった木箱が積まれ、棚には帳簿や紙束が雑然と並んでいる。かすかな潮の香りと、古びた紙の匂いが鼻をついた。


「手分けして調べて。怪しいものがあれば報告するように」


 私が小声で指示を出すと、衛兵たちは頷き、それぞれ持ち場を決めて動き出した。倉庫に灯りは少なく、持参したランタンの灯が影を揺らす。


 私は慎重に足を進めながら、奥の机に目を向けた。机の上には使いかけのインク壺と、乱雑に積まれた書類がある。その中の一枚に目を留めた瞬間、胸がざわめいた。


「ライオネル家との交渉記録」


 震える指で書類をめくる。そこには、アルヴィン家が前領主――ルーディック・シェル・ライオネルに養子縁組の提案をしていた記録が残されていた。しかし、その最後の欄には、こう記されている。


『拒否された。計画の見直しを要する』


 喉がひりついた。やはり、アルヴィン家はずっと前からダイダリーを手中に収めようとしていたのだ。ルーディックがこれを拒んだことで、彼らの計画が狂った。ルーディックを殺したのはレインだが、行動のきっかけを持ち込んだのはクレイヴの部下であるルカだった。もしかして、レインは自身も知らぬ間に計画に組み込まれていた……?

 

「ルーディックは、これを調べていたの……?」


 呟いた言葉が倉庫の静寂に溶ける。もし彼がこの陰謀を察知し、何らかの手を打とうとしていたのなら……。この資料はもう少し読み込む必要があるだろう。


「領主様、これは?」


 不意に衛兵の一人が声を上げた。彼の手元には、一冊の黒革の帳簿。ルカの手紙に記されていたものだ。慎重に受け取り、表紙を指でなぞる。随分古いが、最近まで使われていた痕跡がある。


 ページをめくると、そこには「取引記録」の文字が並んでいた。日付、品目、支払額、そして取引相手の名……。


「……アルヴィン家の紋章」


 ページの片隅に押された紋章を見た瞬間、息が詰まる。王冠をくわえた鴉の横に、正式なアルヴィン家の紋章である二頭の馬が描かれている。これは紛れもなく、アルヴィン家がクレイヴを通じてダイダリーの闇市を利用していた証だった。


 そして、最も新しい記録の日付を見た瞬間、血の気が引いた。


 『影の市崩壊後の新たな取引先』


 ――つまり、アルヴィン家はすでに次の動きを始めている。


「急ぎましょう。これは決定的な証拠になる」


 私は帳簿をしっかりと抱え、衛兵たちを見渡した。ここに長居は無用だ。すぐに屋敷へ戻り、次の一手を打たなければ。


 アルヴィン家の計画はまだ終わっていない。だが――私もまた、このまま終わらせるつもりはない。そう決意して馬車へ向かう途中、異変に気がついた。


「……何かおかしい」


 衛兵の一人が立ち止まり、周囲を警戒する。私も思わず息を呑んだ。さっきまで繋いでいたはずの馬が、手綱を引きちぎられたように消えている。近くには誰もいない。それなのに、わずかに揺れる縄の切れ端だけが、この場で何かが起こったことを物語っていた。


 風がひゅうっと吹き抜ける。暗がりの奥、誰かの視線を感じる気がした。


「罠だった可能性があります。すぐにここを離れましょう」


 衛兵が緊張した声で告げる。私は微かに頷き、手にした書類を握りしめた。アルヴィン家は、この情報を私に渡すつもりなどなかった。ならば……本当に知るべきことは、まだこの先にある。


「行きましょう」


 警戒を強めながら、私たちは静かに夜の倉庫街を後にした。

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