表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/48

商人ルカの運命

 ドレイク家との話し合いを終え、夜の冷たい風を感じながら屋敷へと戻った。門をくぐると、ヒルダや他の使用人に混ざってルカが待っていた。

 いつもと変わらぬ柔らかい笑み——のはずなのに、どこか翳りがあるように見えた。


「ようやくアルヴィン家に迫る算段がつきました。あなたのおかげでもあるわ、ありがとう」


 そう伝えると、ルカはわずかに視線を逸らし、小さく息を吐いた。


「……いえ、ロゼリア様の努力と賢さの賜物です。ですが……少し、慎重になられたほうが」


 彼の声音が沈んでいる。普段の軽やかさは影を潜め、どこか別人のようだった。


「慎重に?」


 私は怪訝に思いながらも、屋敷の扉へ向かって歩を進める。


 「……っ!」


 突然、背後でヒルダが息を呑む気配がした。

 何かがおかしい——そう思った瞬間、ルカが素早くヒルダの腕をねじるように掴み、壁へと押しつける。


「ルカ……?」


 言葉が喉の奥で詰まる。何が起こっているのか理解できないまま、私は咄嗟に後ろを振り返ろうとした。


 その瞬間——ふわりと甘ったるい香りが鼻を突く。


「……っ!」


 口元に何かが押し当てられた。驚いて振り払おうとするも、腕に力が入らない。動悸が激しくなり、背中を冷や汗が伝う。頭がくらりと揺れ、視界が歪んだ。


 麻痺薬だ。


 そう気づいた頃には、足元がぐらつき始めていた。遠くでヒルダの怒声が響く。


「あなた達……っ、こんな真似が許されると――!」


「……もう、こうするしかないんです……!」


 ヒルダが身をよじるのが見えた。だが、ルカが力を込めて彼女を押さえつける。その傍らには、見覚えのない男がいた。使用人の服を着てはいるが、その目つきは冷たく鋭い。


 視界がぼやける中で、そいつが何かを取り出すのが見えた。

 声を出したいのに、喉が動かない。足がもつれ、体が崩れ落ちる。


 最後に聞こえたのは、ルカの掠れた声だった。


「……目を閉じてください、ロゼリア様」


 何かが私を優しく支えた。

 それがルカなのか、それとも別の誰かなのか——もう、わからない。


 暗闇が、静かに広がっていった。


――――――――――――


 目が覚めた瞬間、頭を締め付けるような痛みが襲う。喉はひどく渇き、手足には力が入らない。まるで身体が自分のものではないかのような感覚。瞼を開けるのも億劫だ。


 ぼんやりとした視界の中で、まず目に入ったのは目の前に立つルカの背中だった。


「ルカ……?」


 掠れた声で呼ぶと、彼の肩が小さく震えた。ゆっくりと振り返ったルカの顔には、見たことのないほど苦しげな表情が浮かんでいた。

 唇が小さく震え、まるで何かを必死に堪えているようだ。


 「ロゼリア様……すみません……僕は……」


 彼の声はかすれ、言葉の続きを飲み込む。拳を握りしめたまま、どうしようもない後悔を噛み締めているようだった。

 ——その沈黙を断ち切るように、冷たい声が響く。


 「忠誠ごっこはもういいだろう、ルカ」


 その声と共に、闇の奥から一つの影が姿を現した。燭台の揺れる光に照らされ、冷たく鋭い目つきが私を射抜く。


 クレイヴ——。


 裏切りの痛みが胸を刺す。だが、私は領主だ。ここで怯むわけにはいかない。深く息を吸い、私はクレイヴを睨みつけた。

 その視線など意にも介さずクレイヴの唇が歪む。まるで勝利を確信したかのような冷笑だった。


「さて、現領主様。お前には決断をしてもらう。選択肢などないがな」


 クレイヴは燭台の火を指先で弄ぶように眺めながら、ゆっくりと告げた。


「アルヴィン伯爵家の三男、エゼル・アルヴィンを養子に迎え、ライオネル家の名を継がせろ」


 血の気が引くのを感じた。明言しなかったが、きっと養子に迎えた後に私は殺されるのだろう。そして、アルヴィン家がダイダリーの支配者になる――。

 

「……そんなこと、認めると思うの?」


 声は震えそうになるが、それでも精一杯の力を込めて抵抗する。


「お前の意思は関係ない。……今すぐ認めて楽になるか、長く苦しむか――それだけだ」


 クレイヴの視線が、獲物を捕らえた獣のように鋭くなる。それに対し、私は短く息を吐き出した。


「……断るわ」


 静かな拒絶。しかし、胸の奥から燃え上がる怒りが滲む。


「この都市をあなたたちの好きにはさせない」


 クレイヴは肩をすくめ、つまらなそうに首を振った。


「そう言うと思っていたよ。だが、それは困るな。考え直してもらうしかない」


 彼は背後の男に顎をしゃくる。仮面の男が剣を抜き、こちらに近づいてきた。クレイヴもゆっくりと私の前に立つ。


「お前がどれだけ抵抗しようと、結果は変わらない。アルヴィン家がダイダリーを支配する未来は決まっているんだ——そして俺が影の市を握るのもな」


 彼の声は低く、部屋の壁に刻まれた鴉の紋章が燭台の光で不気味に揺れる。遠くから鎖の擦れる音が響き、湿った空気が肌を刺した。辺りに漂う薬のような匂い――もしかして、ここは影の市?

 しかし、そんなことを考える余裕はすぐに失われた。クレイヴが短く指示を出すと、仮面の男が私の髪を掴み首元に剣を近づけたからだ。


「…っ!」


 冷たい刃の感触が首筋をかすめ、心臓が激しく鼓動する。だが、私は目を閉じ、ダイダリーの民を思い浮かべた。都市の腐敗に苦しめられる人の暗い顔、物資が行き届かず寒さが体に染みる孤児院。ここでアルヴィン家にダイダリーを渡してしまえば、彼らが救われることはない。


「……私は、屈しない!」


 クレイヴが鼻で笑い、仮面の男に視線を向けた。


「少し痛めつけてやれ。だが、殺すなよ。手も駄目だ。養子の書類にサインを貰うまではな」


 男が剣を振り上げる瞬間、ルカが叫んだ。


「やめてください!」


 ルカが私の前に立ちはだかる。クレイヴは一瞬苛立った表情を見せたが、すぐに冷たく笑った。


「なんだ、その女に惚れたのか? 死体ならくれてやってもいいんだがな。それともお前が『説得』するか?」

「いえ……まさか、そんな……ただ、痛めつけても彼女には効果がないと思っただけです」


 庇って、くれた? ここからではルカがどんな顔をしているかは見えない。それでも、彼が私を守ろうとしてくれたように思えた。


「僕が、なるべく穏便に『説得』してみせますよ」


 いつも通りに飄々と喋ろうとして失敗した――そんな声色で彼は言う。クレイヴは冷酷な顔に嘲笑うような表情を浮かべた。


「そこまで言うなら……そうだな。一時間だ。一時間やる。その間に、頑固な領主様を説得してみせろ」


 クレイヴはそう言い残して立ち去った。彼の足音が遠ざかる中「失敗すればどうなるか分かっているな」という声が響いた。部下の男は監視役なのか、依然として残っている。


 あと、一時間。あと一時間で、私の運命が決まるのだ。その鍵を握るルカを見上げる。彼はひどく悲しそうな目をして、私を見ていた。


 ルカが私の前に膝をつき、囁くように話し始めた。監視役の男が冷たい視線を向け、剣を手にこちらをじっと見つめている。


「ロゼリア様……僕は……本当にごめんなさい……」


 彼の声は震え、まるで涙を堪えているようだった。影の市を案内してくれたのは、きっとクレイヴの指示だ。遺跡で助けてくれた時も、クレイヴ達と何らかの決めごとがあったのかもしれない。それでも私が木箱の呪いに怯えた時、寄り添ってくれた温度だけは本物だった。彼も、同じ夜を思い出しているのだろうか。


「ルカ、あなた、なぜ……?」


 麻痺薬の影響でまだ震える手を握り締め、私は切れ切れに問いかけた。裏切りの痛みが胸を刺すが、彼の目を見ると、憎しみだけでは済まされない感情が湧き上がる。

 

「僕は……クレイヴに恩があるから、従ってきた。命を救われたんだ。でも、ロゼリア様は……あなたはどんな金貨よりも、輝いていた。そばにいると、まるで僕まで良いものになったように……」


 ルカの言葉が途切れると同時に、遠くからかすかな物音が響いた。監視役の男が一瞬そちらに視線を向け、眉をひそめる。


「……何だ?」


 監視役の男が呟き、剣を握り直す。時折、指先で剣の刃を軽く叩き、不気味な音を響かせていた。その瞬間、遠くで何かが崩れるような大きな音が響き、続いてかすかな叫び声が聞こえた。何かが焦げる臭いが漂い始め、熱がじわりと肌を刺す。部屋の空気が、一変した。


「……襲撃か!」

 

 監視役の男が叫び、剣を構えて部屋の出口へと向かう。


「ロゼリア様、今なら逃げられます……!」


 彼の目には決意が宿っていた。影の市が襲撃されている――恐らく、ディートリヒ家が動いたのだ。私はまだ震える体を奮い立たせ、ルカが差し出した手を強く握る。この混乱こそ、私達が脱出する唯一の希望だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ