侍女ヒルダの沈黙(1)
この屋敷の使用人は、過去に罪を犯した者ばかりだ。刑期を終えているとは言え、皆一線を越えた人間であるのは間違いない。だから私は、侍女であるヒルダすら完全に信用してはいなかった。
彼女の目には時折、奇妙な影が宿る。
ふとした瞬間、何かを隠しているような、あるいは違う目的を持っているかのような。そんな気配を感じるのだ。
身支度の手伝いも、執務に移ってから差し出される紅茶にも問題はない。それでも彼女に気を許すことはできないのだ。たまたま目線を向けると、誰かと意味深な目配せをしていることが何度かあった。
「……前の領主の時も、こうだったのかしらね?」
私は、カップに映る紫の瞳を見つめながら小さく呟いた。
身体活性魔法は便利だ。執務が立て込んで眠っている暇などない時でも体を動かすことができる。今日も私は夜も更けた時間に、過去の資料を探して屋敷を歩いていた。手に持ったランプの明かりがゆらりと揺れる。不意に物音がして、足を止めた。
(今の音は?)
風が吹いただけかと思ったが、違う。静寂の中、誰かの足音が微かに響いた。そっとランプを傾けると暗がりの先に人影が浮かび上がる。ヒルダだ。
こんな遅い時間に、何をしているの? 私は自分のことを棚に上げて様子をうかがう。どうやら誰かと話しているようだ。若い男の声がする。息子だろうか? ヒルダならいてもおかしくない年齢だけれど。
「ですが先生、これでは……」
「いいんです……あなたは……」
距離があるせいでところどころしか聞き取れない。しかし『先生』という呼び名で息子の線は消えた。ヒルダは元々教師だったと言うし、教え子の方か。
(でもどうして、こんな時間に? 一体何の話をしているの?)
疑問に思いながらヒルダを見ていると、話が終わったらしい彼女が歩き出す。すれ違うように立ち去った男の姿が、月明かりで一瞬照らし出された。
目に付いたのは鉄製の兜――衛兵だ。
思わず息をのむ。彼は私の知る者だろうか。月明かりの下で一瞬見えただけでは判別がつかない。衛兵が屋敷を巡回するのは珍しくないが、わざわざこんな夜更けに侍女と密会する理由があるとは思えなかった。
(何かの取引? まさか犯罪にでも関わっているの?)
冷静に考えようとするが、心のどこかで警鐘が鳴る。慎重に動くべきだ。すぐに問い詰めても、真実を聞き出せるとは限らない。だが、だからといって見過ごすには違和感が強すぎる。
私は足音を忍ばせ、ヒルダの後を追うことにした。
その時はきっと何かあるはず、と思っていた。しかし予想を裏切り彼女はそのまま自室へと戻ってしまった。もしかしたら部屋で何かしているかもしれないが、それを知る術は私にはない。彼女を調べるのは明日にしよう。ひとまず、私は探していた資料を手に執務室に戻る。
(ヒルダの罪を知れば、行動の意味も分かるかもしれないわね)
使用人の犯罪歴は屋敷に保管されていない。基本的には衛兵の管理下に置かれ、教会と情報を共有していると聞いた。私は領主なのだから、それを見る権利があるはずだ。パラパラと資料をめくりながら、私は明日の行動を考えた。
―――――――――――――――
「昨夜はよく眠れましたか?」
(えっ、まさか昨日のことがバレてる!?)
翌日、顔を合わせたヒルダにそう言われて冷や汗をかく。尾行したのが気付かれた? 物音は立ててないはずなんだけど……考え過ぎ、よね? 平静を装い「ええ、よく眠れたわ」と返すと、彼女はくすりと笑った。少しだけお母様を思わせる笑顔だ。
「隈は隠しましょう。仕事も結構ですが、領主様のお体が一番ですよ」
そう言われると強く出られない。化粧を任せながら、私はこのあとの動きをイメージした。急ぎの仕事はないから、少し外に出ても良いかもしれない。
選択肢は今のところ二つ。衛兵の詰め所か、教会か。……衛兵にはまだ親しい人間がいない。いきなり訪れると不審に思われるだろう。その点教会ならシグベルという知り合いがいるし、祈りに行っても不自然ではない。そちらで情報を得る方が良さそうだ。
「そうね、気分転換に外の空気を吸ってくるわ」
「ではお付きの者を――」
「結構よ」
「……お気を付けて」
ヒルダの声は少し間があった。ほんのわずかだが、ためらいのようにも聞こえた。……冷たくしすぎたかしら。いや、これくらいでいいのよね。まだ彼女に心を許すと決めたわけではないのだから。多少距離を取るくらいでちょうどいいだろう。
喪が明けていないから今日も黒い服。軽いデザインのものを選んだので、動きやすさは確保できている。街に紛れるには良いはずだ。
屋敷を出て小さく伸びをする。気合を入れ直して最初の一歩を踏み出した。
向かう教会は都市の中心にあり、尖塔が目印となっている。晴れ渡った空が街を明るく照らしていた。こうして歩いていると、この街が罪人の集まりだとはとても思えない。市場は賑わい、商人がせっせと客に声をかけている。
焼きたてのパンの良い香りにぐぅ、とお腹が鳴った。しかし領主がこんなところで買い食いをするわけにもいかない。
(シグベルはヒルダのことを教えてくれるかしら……)
空腹を紛らわせようとするが、不安が堂々巡りするばかりだ。私は小さく溜息を吐く。石畳の道を踏みしめ、鐘楼がそびえ立つ教会へと足を進めた。
教会の扉を押し開くと、冷たい空気が頬を撫でた。内部はひんやりとしていて、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。高窓から差し込む陽光が、淡い色のステンドグラスを通して床に柔らかな光の模様を描いていた。
奥の祭壇に、一人の男が跪いている。
シグベルだ。
裁神ダイダリューンの像の前に膝をつき、白い聖衣をまとった背中は微動だにしない。組まれた指先は細かく震えているようにも見えるが、それが感情によるものなのかは分からなかった。
「──神よ、どうか裁きと導きを」
低く、静かな祈りの声が響く。彼は何を祈っているのだろう。神への忠誠か、それとも赦しを乞うているのか。
私は一歩踏み出し、シグベルに声をかけるべきか迷った。祈る者を邪魔するのは気が引ける。だが、ヒルダの真意を知るためにもここで引き下がるわけにはいかない。
意を決し、ゆっくりと彼に歩み寄った。
「シグベル様」
「…………ああ、ロゼリア様。どうなさいました? 私に何か御用でも?」
少し間を空けてシグベルが立ち上がる。長く祈っていたのだろう、その顔には少し疲れが見えた。何となくだが、ただの疲労ではない気がした。
(何か悩まれているのかしら?)
出直した方が良いだろうか。いや、私だって暇ではないのだ。得られる情報は早いうちに手にしておきたい。
「ええ。罪人の記録について、少々お話が」
真正面から話を切り出すと彼は一瞬ハッとしたような顔をしたが、すぐに表情を整えた。薄く微笑み、「分かりました」と返してくる。
「しかし、それでは立ち話というわけにもいきませんね」
「では食事などはいかがですか? 祈りを終えた後のようですし、神の恵みを享受する時間も必要かと」
「それもいいでしょう。ではこちらへ」
シグベルに案内されたのは教会の食堂だった。これまで過ごしたどの都市にも教会はあったが、食堂にまで足を踏み入れるのは初めてだ。少しドキドキしながらシグベルのエスコートで木の椅子に腰かける。
食事はすぐに用意された。黒パンにスープ、グラスに注がれた水。驚くほど慎ましやかなメニューだ。ダイダリューンは特に清貧を美徳とする神ではなかったはずだが……シグベルの性格だろうか。
「……ずいぶん質素ですね」
「贅沢を好む者もいますが、私は食事はただの栄養補給だと考えていますので」
「少し驚きました。シグベル様は食事にこだわらないのですね」
「余計なものに惑わされたくないだけですよ」
内心戸惑いつつも籠に盛られたパンに手を伸ばす。伸ばして良いのよね? 貴族としての食事のマナーは知っていても、教会のマナーは知らないのだ。
「あっ……」
「失礼」
「すみません」
迷った手がシグベルの指とぶつかった。一瞬だけ、お互いの動きが止まる。シグベルは平然とした様子でパンを手に取るが、私は指先に残る感触を振り払えずにいた。
しかし、そんなのは余計なことだ。今は罪人の記録について話をしなければ。半ば強引に気持ちを切り替える。
「シグベル様、私は使用人の過去について調べに来たのです。教えていただけますか?」
「……私はこの街の裁きと更生を役割とする神士です。罪には罰を、過ちには導きを。だからこそ聞きますが、あなたは何故彼らの過去を求めるのですか?」
淀みのない彼の言葉が痛いところを突く。確かに私は自分を安心させるために使用人の周りを嗅ぎ回っているだけだ。直接聞く勇気もなく、こうして人に助けを求めている。
もそもそとしたパンを薄いスープで流し込みながら、私は慎重に次の発言を選んだ。
「私は屋敷の主人で、領主です。それ以上の理由が必要ですか?」
「必要ですとも。この都市では、特に」
沈黙が広がる。スープの皿は空になり、食事の時間は終わろうとしている。駄目だ、まだ話足りない。必要な情報を得られていない。私は覚悟を決めてグラスの水を飲み干した。
「私は……信じる理由が、欲しいのだと思います」
夫が死んだ日、私は誰一人信じないと決意した。それでも、侍女ひとり信頼できない毎日は私の心を着実に削り取っている。夜もよく眠れず、毒があるんじゃないかと思うと食事も喉を通らない。今は身体活性魔法で持たせているが、いずれ限界が来るだろう。それまでに、たった一人でいいから信じたい。その相手がヒルダだった。
シグベルはわずかに眉を上げ、冷たい視線を向けてくる。
(未熟な領主だと呆れられただろうか……?)
内心でそう思うが、彼の顔色は読めない。わずかに目を伏せ、静かに手を組むだけだ。
「過去の罪が未来を決めるわけではありません。しかし、その気持ちにはお応えしましょう」
一瞬だけ、シグベルの指先がためらいがちに動く。やがて彼は胸元から一枚の紙を取り出し、そっと私の前に差し出した。
紙には、刃のように鋭い筆跡で『この国に変革を!』と記されていた。
その言葉が、今もなお息を吹き返そうとしているかのように、私の目を刺す。
私は、幼い頃に聞いた噂を思い出した。
あれはこの国の隣に共和国が樹立した頃だ。その新しい政治制度と貴族を廃した革命の波が、この都市連合王国にも押し寄せたと大人達はざわめいていた。
だが結局、首謀者とその仲間は捕まり、運動も立ち消えたという話だった。
「……まさか、ヒルダがこの運動に?」
恐る恐る呟くと、シグベルは微かに目を細める。
「罪の名は『反乱』」
一拍の間。
「神ではなく、人が定めた罪です」
それ以上は語らない、という態度だった。彼の手は、なおも固く組まれたままだった。
ここまで、か。私は一度引くことを決める。十分な収穫とは言えないが、足を運んだ価値はあった。
「ありがとうございます。お話も、お食事も……助かりました」
「いえ。教会はすべての人に開かれています。必要な時はいつでもいらしてください」
話を終えて教会を去ろうとした時だった。何かに躓き、ぐらりと体勢が崩れる。しまった、と思うがもう遅く、私は床に倒れることを覚悟し目をつむった。
しかし、いつまで立っても痛みは訪れない。
恐る恐る目を開けると、シグベルが私を支えてくれていた。
「段差がありますので足元にはご注意を」
「もう遅いわよ!」
取り繕うことすら忘れて反射的に言い返すと、無表情だった彼が小さく微笑む。私は恥ずかしさのあまり頬に血が集まるのを感じた。彼の手から離れ、誤魔化すように服の裾を払う。
「気を付けてお帰りください」
嫌味にも聞こえる言葉に一礼を返し、私は今度こそ教会を出た。




